50年以上前に書かれた『モモ』が、現代にこそ刺さる理由

――時間泥棒とは、私たちから何を奪っているのか

ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだ。

きっかけは、長野県にある黒姫童話館に行ったことだった。そこで先生から推奨本として紹介され、気になっていた本である。

正直に言うと、最初は絵本のようなものだと思っていた。

童話館で紹介された本であり、タイトルも『モモ』。何となく、短く読める絵本のようなものを想像していた。ところが、ネットで購入して届いた本は、思っていたよりもしっかりとした小説だった。

「あれ、間違えて買ったのかな」

最初はそう思った。

実はその前に、『モモ』には映画もあるらしいと知り、映画で見てもいいかもしれないと思っていた。YouTubeでも検索してみた。解説動画はいくつかあった。

しかし、誰かの解説を聞くだけではなく、やはり自分で本を読んでみたくなった。

そこでネットで購入したのだが、届いた本は、思っていたよりもしっかりとした小説だった。今思えば、それでよかったのだと思う。

『モモ』は、急いであらすじだけを理解する物語ではなかった。時間をかけて読むことで、自分自身の時間の使い方を考えさせられる本だった。

『モモ』は1973年に発表された作品である。つまり、今から50年以上前に書かれた本だ。

しかし、実際に読んでみると、とても50年以上前の物語とは思えなかった。むしろ、現代にこそ必要な本ではないかと思った。

『モモ』の中心にある「時間泥棒」

『モモ』の物語の中心には、「時間泥棒」がいる。

人々は、時間を節約するように勧められる。無駄な時間を減らし、効率的に生き、将来のために時間を蓄えるように言われる。一見すると、とても合理的で正しいことのように聞こえる。

しかし、その結果、人々はだんだんと余裕を失っていく。

人とゆっくり話す時間がなくなる。
子どもと遊ぶ時間がなくなる。
ぼんやり考える時間がなくなる。
心から楽しむ時間がなくなる。
そして、自分が何のために生きているのかを感じる時間さえ、失われていく。

これは、まさに現代の話ではないだろうか。

私たちは、50年前よりもはるかに便利な時代を生きている。

スマートフォンがある。
SNSがある。
オンライン会議がある。
キャッシュレス決済がある。
AIがある。
動画配信がある。
調べたいことは、すぐに検索できる。
買いたいものは、すぐに注文できる。
連絡も、移動も、仕事も、以前よりずっと速くなった。

では、私たちは本当に自由な時間を取り戻したのだろうか。

むしろ、以前よりも忙しくなっていないだろうか。

通知が来れば反応する。
メールが来れば返す。
SNSを開けば、他人の投稿が流れてくる。
動画を一本見ると、次の動画が勧められる。
ニュースを確認したつもりが、気づけば関係のない情報まで追いかけている。
少し空いた時間があれば、すぐにスマホを見てしまう。

本当は休んでいるつもりなのに、心は休まっていない。

現代の時間泥棒は、灰色の男の姿をして現れるわけではない。もっと身近で、もっと便利で、もっと楽しい顔をして近づいてくる。

現代の時間泥棒は何か

現代の時間泥棒とは何だろうか。

分かりやすいものとしては、SNS、ショート動画、ネットニュース、オンラインゲーム、通知などがある。

もちろん、それら自体が悪いわけではない。楽しみになることもある。学びになることもある。人とのつながりになることもある。

問題は、それを自分の意思で選んでいるのか、それとも仕組みに反応させられているのかである。

たとえば、オンラインゲームは分かりやすい。

ゲームそのものが悪いわけではない。気分転換にもなるし、仲間との交流にもなる。しかし、ログインボーナス、デイリーミッション、ランキング、期間限定イベント、ガチャなどによって、いつの間にか「遊びたいから遊ぶ」ではなく、「やらないと損をする」「置いていかれる」「仲間に迷惑をかける」という感覚になっていくことがある。

そうなると、それはもはや自由な遊びではなくなる。

自分の時間を自分で使っているようで、実は仕組みに時間を使わされている状態になる。

SNSも同じである。

最初は、知人の近況を知るためだったり、情報収集のためだったりする。しかし、見ているうちに、他人の成果、旅行、食事、仕事、成功、楽しそうな日常が次々と流れてくる。

それを見ている時間だけでなく、その後に生まれる焦りや比較、承認欲求までもが、私たちの時間を奪っていく。

ここで考えたいのは、現代の時間泥棒が奪っているものは、単なる「時間」だけではないということだ。

もっと深いところで、私たちから「自分に問いかける力」を奪っているのではないか。

時間は何のためにあるのか

本来、時間とは何のためにあるのだろう。

ただ消費するためのものではないはずだ。
ただ効率的に処理するためのものでもないはずだ。
ただお金に換算するためのものでもないはずだ。

私は、本来の時間の使い方とは、自分が何者なのかを知り、自分の使命や役割に近づいていくためにあるのではないかと思う。

いきなり「使命」と言うと、大げさに聞こえるかもしれない。

しかし、その前段階としての「自分探し」は、誰にとっても必要な時間だと思う。

自分は何が好きなのか。
何に心が動くのか。
どんな人の役に立ちたいのか。
何をしているときに、自分らしさを感じるのか。
何をしていると、自分を見失ってしまうのか。

そうした問いに向き合う時間が、人には必要である。

ところが、ゲームやSNS、動画、通知に反応し続けていると、そのような問いを立てる時間がなくなる。自分の内側に向かうはずの意識が、常に外側へ引っ張られてしまう。

気づけば、時間を失っただけではない。

自分自身に問いかける力まで、少しずつ弱くなっているのではないか。

『モモ』の中で、モモには特別な能力がある。

それは、人の話を本当に聴く力である。

相手の話をただ聞くのではない。相手が自分でも気づいていなかった本心に気づくような聴き方をする。モモの前では、人は自分の中にあるものを取り戻していく。

これは、今の時代にとても重要なことだと思う。

私たちは、話すことには慣れている。発信することにも慣れている。コメントすることにも、反応することにも慣れている。

しかし、本当に人の話を聴く時間は減っているのではないか。

そして、人の話を聴く時間が減るということは、自分の内側の声を聴く時間も減っているということかもしれない。

『モモ』が現代に刺さる理由は、そこにあると思う。

効率化は何のためにあるのか

50年以上前に書かれた物語でありながら、現代のほうがむしろリアルに感じられる。便利になったはずの社会で、私たちはますます忙しくなっている。効率化したはずなのに、心の余白は少なくなっている。時間を節約しているはずなのに、人生そのものを味わう時間が減っている。

これは、AIや省力化の時代にもつながる話である。

AIを使うこと自体は悪いことではない。仕事を効率化することも、省力化することも、私は必要なことだと思っている。人手不足の時代に、仕組み化や効率化は避けて通れない。

しかし、大事なのは目的である。

AIで時間を短縮して、その分さらに仕事を増やすだけなら、結局、人は楽にならない。効率化によって生まれた時間を、また別の作業で埋めてしまうなら、私たちは何のために効率化しているのか分からなくなる。

本来、効率化とは、人間が人間らしい時間を取り戻すためにあるべきだと思う。

人と話す時間。
家族と過ごす時間。
自然に触れる時間。
祈る時間。
考える時間。
学ぶ時間。
自分の使命に向き合う時間。
誰かを笑顔にする時間。

そういう時間を取り戻すための効率化でなければ、意味がない。

散歩という時間の使い方

数年前、世界で幸福度が高いとされる北欧の国々について調べていたとき、余暇の過ごし方として「散歩」が多いという話を見たことがある。

そのとき私は、正直に言って驚いた。

「えっ、散歩なの?」

もっと特別な趣味や、豊かな娯楽や、何か高度な文化活動のようなものを想像していた。ところが、そこにあったのは散歩だった。

しかし近頃は、その大切さが少し分かるようになってきた。

散歩というのは、効率だけで見れば、何も生み出していない時間のように見える。お金を稼いでいるわけでもない。仕事が進むわけでもない。情報を集めているわけでもない。誰かに評価されるわけでもない。

しかし、歩いていると、頭の中が整理される。

風を感じる。
季節を感じる。
景色を見る。
余計な情報から離れる。
ふと、自分が何を大切にしたいのかに気づく。
誰かの言葉を思い出す。
これからの方向性が見えてくる。

散歩は、外に出ているようで、実は自分の内側に戻っていく時間なのかもしれない。

ゲームやSNSが、意識を外へ外へと引っ張る時間だとすれば、散歩は、自分の中心へ戻っていく時間である。

『モモ』を読んだ後だからこそ、この散歩の意味がよく分かる気がした。

自分の時間を取り戻すために

時間とは、ただ埋めるものではない。

予定で埋める。
仕事で埋める。
情報で埋める。
娯楽で埋める。
反応で埋める。

それだけでは、自分の人生を生きている感覚は戻ってこない。

むしろ必要なのは、あえて埋めない時間なのかもしれない。

何もしないように見える時間。
ぼんやり考える時間。
人の話をゆっくり聴く時間。
自然の中を歩く時間。
自分の心に問いかける時間。

そういう時間の中で、人は自分を取り戻す。

『モモ』のあとがきには、この物語を過去の話として語っても、未来の話として語ってもよかった、という趣旨の言葉がある。

私はそれを読んで、この物語は過去でも未来でもなく、まさに現代の話なのだと思った。

いや、もしかすると、いつの時代にも起こりうる話なのかもしれない。

人はいつの時代も、忙しさに流される。
効率の良さに惹かれる。
将来の不安から、今を犠牲にする。
人と向き合う時間を削り、自分と向き合う時間を後回しにする。

だからこそ、『モモ』は50年以上経っても古くならない。

むしろ現代のほうが、より切実に読める。

私たちは、何に時間を奪われているのか。
私たちは、何のために時間を使っているのか。
私たちは、効率化によって何を取り戻したいのか。
私たちは、自分の使命や本心に向き合う時間を持てているのか。

『モモ』は、その問いを静かに投げかけてくる。

『モモ』は、50年以上前に書かれた物語である。

けれど、今の時代にこそ深く刺さる。

それは、私たちが便利さや効率を手に入れた一方で、自分の時間をどう生きるのかを、かえって見失いやすくなっているからかもしれない。

もっと速く生きることよりも、もっと自分らしく生きること。

『モモ』を読んで、私はそのことを改めて考えさせられた。