誇りとは何か? 『VIVANT』と『ONE PIECE』から考えた日本人の誇り

先日、ドラマ『VIVANT』を見ていて、ある言葉に心を揺さぶられた。

「自分たちの誇りを、自分たちの手で取り戻さなくてよいのか」

ノコルの言葉だ。

この言葉を聞いた瞬間、思わず痺れた。

もちろんドラマの中で語られた言葉なのだが、私には今の日本人に向けられたメッセージのように聞こえた。

日本人としての誇り。

私たちは、その誇りをどれほど大切にしているのだろうか。

そもそも、誇りとは何なのだろう。

そんなことを考えているうちに、漫画『ONE PIECE』のある場面を思い出した。

誇りとプライドはまったく違う

誇りという言葉を聞くと、プライドという言葉を思い浮かべる人も多いだろう。

しかし、私の中では、この二つはまったく違う。

その違いを見事に表現しているのが、『ONE PIECE』に登場するシャンクスだ。

物語の序盤、シャンクスは山賊に酒をかけられ、馬鹿にされる。

ところが、シャンクスは怒るどころか、笑って済ませてしまう。

それを見た幼いルフィは納得できない。

なぜやり返さないのか。

馬鹿にされて悔しくないのか。

しかし、シャンクスには譲れないものがあった。

自分が馬鹿にされることは構わない。

だが、大切な仲間が傷つけられることは許さない。

仲間を守るためなら、自らの命を危険にさらすことも厭わない。

私は、このシャンクスの行動こそが、誇りの本質を表していると思っている。

プライドは、自分がどう見られるかを気にするもの。

誇りは、自分が何を大切にし、何を守るかというもの。

自分が侮辱されたからといって、いちいち怒る必要はない。

しかし、大切なものを守るためには決して譲らない。

そこに本当の強さがあるのではないだろうか。

シャンクスの行動を理解したルフィ

『ONE PIECE』には、この話と重なる印象的な場面がある。

ジャヤで、ルフィとゾロがハイエナのベラミーたちに馬鹿にされる場面だ。

夢を追うことを笑われ、殴られても、ルフィは反撃しなかった。

かつてシャンクスが酒をかけられたとき、怒っていたルフィ。

そのルフィが、今度は自分自身が侮辱されても戦わなかったのだ。

幼い頃には理解できなかったシャンクスの行動を、成長したルフィは実践していた。

ところが、その後、ベラミーがクリケットたちを傷つけ、大切な黄金を奪ったとき、ルフィは行動を起こす。

そして、ベラミーを一撃で倒す。

自分が馬鹿にされても戦わない。

しかし、大切な仲間が傷つけられたときには戦う。

シャンクスからルフィへ受け継がれたのは、麦わら帽子だけではなかったのだと思う。

何のために戦うのか。

何を守るべきなのか。

その生き方そのものが受け継がれていたのではないだろうか。

誇りとは、言葉で教えられるものではなく、生き方を通じて受け継がれていくものなのかもしれない。

家族や仲間に置き換えて考えてみる

こうした姿勢は、漫画の世界だけの話ではない。

私たちの日常生活にも、同じような場面があるのではないだろうか。

例えば、自分の家族に欠点があったとしよう。

誰にだって欠点はある。

だからといって、その欠点をわざわざ他人に言いふらし、家族を貶める必要があるだろうか。

間違っていることがあれば、本人に伝えればいい。

問題があるなら、一緒に解決すればいい。

そして、家族が理不尽に傷つけられたり、危険な目に遭ったりしたときには、何としても守ろうとする。

仲間についても同じだ。

仲間だからといって、すべてを肯定する必要はない。

間違っていれば指摘する。

しかし、自分の利益のために仲間を裏切ったり、仲間の価値を貶めたりすることはしない。

大切に思うことと、甘やかすことは違う。

守ることと、何でも許すことも違う。

それでも、自分にとって大切な存在であることは変わらない。

私は、そこに誇りというものがあるように思う。

海外に出た日本人の方が、日本に誇りを持っている?

先日、マレーシアを訪れた際、友人が興味深いことを話していた。

「海外に出た日本人の方が、日本に対して誇りを持っているんじゃないかな」

そして、その背景には歴史教育の違いがあるのではないかという話になった。

確かに、海外に出ると、日本の良さに気づくことが多い。

治安の良さ、街の清潔さ、公共交通機関の正確さ、接客の丁寧さ。

日本にいると当たり前だと思っていたことが、海外では必ずしも当たり前ではない。

私自身、海外を訪れるたびに日本の良さを再認識することがある。

しかし、友人の話は、それだけではなかった。

日本人は、自分の国の歴史をどのように教わってきたのか。

そして、海外では、自国の歴史をどのように教えているのか。

その違いが、自国に対する誇りに影響しているのではないか、という問題提起だった。

私は、この視点がとても気になった。

日本の歴史教育は、誇りを育てているのだろうか

日本の歴史教科書には、以前から議論になっている問題がある。

その一つが「近隣諸国条項」だ。

1982年、日本の歴史教科書をめぐって中国や韓国などとの外交問題が起こり、その後、教科書検定基準に近隣のアジア諸国との近現代史について、国際理解と国際協調の観点から必要な配慮を求める規定が設けられた。

こうした経緯を知ると、私は一つ疑問を感じる。

歴史教育において、外交上の配慮と歴史的事実を正確に伝えることは、どのように両立させるべきなのだろうか。

もちろん、歴史には光も影もある。

過去の過ちを隠したり、都合の良い出来事だけを取り上げたりすることが、誇りにつながるとは思わない。

しかし、その反対も同じではないだろうか。

過去の問題点ばかりを強調して、先人たちが築いてきた功績や、日本が世界に与えてきた価値を十分に理解できなければ、それも偏った歴史認識になってしまう。

日本の歴史や文化には、誇るべきものが数多くある。

同時に、反省すべき出来事もある。

その両方を、できる限り正確に学ぶことが重要なのだと思う。

国によって歴史教育の考え方や教え方は異なるだろう。

だからこそ、日本の教育はどうあるべきなのか、もっと考える必要があるのではないだろうか。

私は、子どもたちに日本の歴史を正しく理解してもらうと同時に、先人たちが築いてきたものの価値も十分に伝えてほしいと思う。

自国に誇りを持つことと、歴史を客観的に学ぶことは、決して矛盾しないはずだからだ。

そして、歴史教育は学校だけの問題でもない。

親や先生、周囲の大人たちが日本の歴史や文化をどのように捉え、子どもたちに何を伝えているのか。

それもまた、次の世代の誇りを育てるうえで重要なのだと思う。

では、日本人としての誇りとは何か

ここで、最初のノコルの言葉に戻りたい。

「自分たちの誇りを、自分たちの手で取り戻さなくてよいのか」

私は、日本人として最低限大切にしたいことがあると思っている。

自分の国を誇りに思うこと。

自分の国をむやみに貶めないこと。

そして、自分の利益のために国や国民を裏切るようなことをしないこと。

家族や仲間に置き換えてみれば、特別なことではないと思う。

もちろん、日本にも問題はある。

政治にも、経済にも、社会にも、改善すべきことはたくさんあるだろう。

だから、批判してはいけないと言っているのではない。

家族や仲間が間違っていれば指摘するのと同じように、日本を良くするために問題を指摘することは必要だ。

しかし、日本を良くするための批判と、ただ貶めることは違う。

また、自国を誇ることは、他国を見下すことでもない。

日本の歴史や文化、先人たちが築いてきたものを理解し、その価値を大切にする。

そして、次の世代に、より良い日本を残していく。

そのために自分は何ができるのか。

私は、そこに日本人としての誇りがあるのではないかと思っている。

自分たちの誇りを、自分たちの手で

日本には、世界に誇れるものがたくさんある。

しかし、それらをただ自慢するだけでは、本当の誇りとは言えないだろう。

先人たちが築いてきたものを理解し、受け継ぎ、さらに良いものにしていく。

そのために自分自身がどう生きるか。

それこそが大切なのだと思う。

日本を良くするのは、政治家だけでも、経営者だけでもない。

私たち一人ひとりの行動の積み重ねだ。

家族を大切にする。

仲間を裏切らない。

自分の仕事に責任を持つ。

目先の利益や見栄のために、自分が大切にするものを手放さない。

そんな生き方が、やがて日本という国の誇りにもつながっていくのではないだろうか。

そして、その姿を次の世代が見ている。

私たちの生き方もまた、次の世代へと受け継がれていく。

改めて、ノコルの言葉を思い出す。

「自分たちの誇りを、自分たちの手で取り戻さなくてよいのか」

誇りとは、他人に認めてもらうものではない。

自分が大切にしているものを、決して裏切らないこと。

そして、それを守るために行動すること。

この言葉は、日本人へのメッセージであると同時に、自分自身への問いかけでもあるのだと思う。