芸術との出会いが教えてくれた、感性を磨くということ

最近、なぜか芸術に触れる機会が増えている。

香港ではM+や香港芸術館、K11 MUSEAを訪れ、京都では梵字の作品展、東京・上野では美術館や折り紙センターにも足を運んだ。

以前から芸術に興味がなかったわけではない。しかし、ここ最近は特に、そうしたものに目が向くようになった気がする。

なぜだろう。

そんなことを考えているうちに、芸術やデザイン、そして感性について、いくつか気づいたことがあった。

金融の街・香港で感じた意外な一面

香港といえば、世界有数の金融都市というイメージが強い。グルメやショッピングの街という印象もある。

ところが、今回の香港旅行で印象に残ったのは、芸術に関する施設が非常に充実していることだった。

現代美術を中心としたM+、香港芸術館、芸術と商業が融合したK11 MUSEA。さらに香港故宮文化博物館などもある。

調べてみると、香港は「東西文化交流の国際拠点」を目指し、芸術文化を都市戦略の一つに位置づけているという。

金融都市として培ってきた国際的なネットワークや富裕層の集積は、美術品市場との相性もよい。芸術文化を振興することは、観光だけでなく、新たな産業や都市の魅力を生み出すことにもつながるのだろう。

しかし、実際に訪れて、もう一つ印象的だったことがある。

若いカップルが多いのだ。

昼間に訪れたM+でも、夜に訪れた香港芸術館でも、若い人たちが作品を楽しんでいる姿が目立った。

もちろん、訪問した時間帯の影響もあるだろう。それでも、芸術が特別な愛好家だけのものではなく、身近な楽しみになっているように感じた。

金融の街として知られる香港が、芸術の街としての魅力も育てようとしている。

今回の旅で発見した、香港の意外な一面だった。

梵字と折り紙に感じた、人間の創造力

日本でも、最近は芸術に触れる機会が多い。

京都では、師匠である徳山先生と塾生の方々による梵字の作品展を見た。

梵字は、単なる文字ではない。仏教、とりわけ密教と深いつながりがあり、祈りにも通じるものだ。

線の太さ、筆の勢い、余白の取り方、そして色使い。

同じ文字であっても、書く人によって全く違う表情を見せる。

そこには技術だけでなく、書き手の思いや祈りも込められているのだろう。

作品を見ていると、単に美しいというだけではない、何か心に響くものがあった。

しかも、展示されていた作品の中には知り合いが書いたものもある。身近な人たちが、これほど迫力のある作品を生み出していることにも感動した。

東京・上野の美術館でも、空海や密教に関する展示に触れ、そこでも梵字に出会った。

場所も展示の背景も違うのに、再び梵字と出会ったことが印象に残っている。

さらに、上野では折り紙センターにも足を運んだ。

折り紙には以前から少し興味がある。

日本の伝統文化である折り紙だが、優れた作家の作品を見ると、その精巧さと創造力には驚かされる。

一枚の紙から、どうしてこんなものが生まれるのだろう。

とても折り紙とは思えないような複雑な作品もある。

梵字も折り紙も、使われる素材は紙や墨といった身近なものだ。

しかし、人間の感性や技術、創造力が加わることで、人を感動させる作品になる。

芸術とは、目に見えるものを通して、目に見えない思いや創造力を表現することでもあるのかもしれない。

身の回りはデザインであふれている

こうした芸術作品に触れる中で、もう一つ、ハッと気づかされたことがある。

それは、デザインについての考え方だ。

これまで私は、デザインというと、美しく洗練されたものや、特別に工夫されたものをイメージしていたのかもしれない。

しかし、考えてみれば、文字一つをとってもデザインなのだ。

線の太さ、文字の形、色彩、配置。

同じ文字でも、それらの違いによって、受ける印象は大きく変わる。

これは梵字に限った話ではない。

身の回りにある看板、建物、商品パッケージ、広告、家具、衣服など、人がつくり出したものには、何らかのデザインがある。

そこに良い悪い、上手い下手があるとしても、デザインであることに変わりはない。

そう考えると、私たちは日常生活の中で、数え切れないほどのデザインに囲まれていることになる。

そして、優れたデザインには、人の心を動かす力があるのではないだろうか。

梵字の作品を見て感動する。

折り紙の精巧さに驚く。

美しい建物に足を止める。

魅力的な商品を見て、思わず手に取ってみたくなる。

デザインは、単に見た目を整えるためのものではない。

人の心を動かし、ときには行動まで変えてしまう力を持っている。

そう考えると、デザインを見る目も変わってくる。

これまで何気なく通り過ぎていたものにも、何かの意図や工夫があるのかもしれない。

その違いに気づくこと自体が、感性を使うことなのだろう。

感性を磨くとは、変化に気づくこと

では、感性を磨くとはどういうことなのだろう。

私は、感性のアンテナを高め、さまざまな変化に気づく力を養うことではないかと思っている。

例えば、花鳥風月という言葉がある。

季節によって花が変わり、鳥の声が変わり、風の匂いが変わり、月の見え方も変わる。

同じ場所を歩いていても、昨日と今日では何かが違う。

その小さな変化に気づけるかどうか。

昨日までつぼみだった花が咲いたことに気づく。

いつもと違う鳥の声に耳を傾ける。

風の匂いから季節の移り変わりを感じ取る。

こうしたことも、感性の働きではないだろうか。

そして、これは自然だけの話ではない。

芸術作品の色彩や構図の違い、人の表情の微妙な変化、街の雰囲気の変化。

今まで気づかなかったものに気づく。

見えていたはずなのに、実は見えていなかったものが見えてくる。

それこそが、感性のアンテナを磨くことなのだと思う。

芸術も自然も、そのためのきっかけを与えてくれる。

感性を磨くとは、自分が感じ取れる世界を広げていくことなのかもしれない。

九紫火星の年を前にして

実は、最近の芸術への関心の高まりについて、少し思い当たることがある。

来年2027年は、九星気学で九紫火星が中宮に入る年だ。

九紫火星は、美、芸術、知性、感性などを象徴する星とされている。

ちなみに、私自身も九紫火星である。

以前、師匠から興味深い話を聞いた。

九紫火星の年は、感性に目を向けることが大切だという。

感性をうまく使うことができればよいが、そうでなければ感情的になりやすく、トラブルに巻き込まれることもあるという話だった。

感性と感情。

似ているようで、実は違うものだと思う。

何かを感じ取る力と、そのときに生まれた感情に振り回されることは同じではない。

感性を磨くことで、物事の変化や違いに気づき、それを冷静に受け止められるようになるのかもしれない。

もちろん、九紫火星の年だから必ずそうなるという話ではない。

ただ、師匠の教えを聞き、最近の自分の行動を振り返ると、何かつながるものを感じる。

香港で芸術施設の多さに気づき、京都で梵字に感動し、上野では折り紙の創造力に驚かされた。

そして、今まで何気なく見ていたデザインについても、新しい発見があった。

もしかすると、少しずつ自分の感性のアンテナが変わってきているのかもしれない。

書きたくなったら書けばいい

師匠は梵字を書くことを勧めている。

もちろん、梵字だけでなく、絵を描くなど、自分で何かを表現することもよいという。

確かに、自ら作品をつくることも、感性を磨く一つの方法なのだろう。

ただ、私は無理に何かを始める必要はないと思っている。

書きたくなったら書けばいい。

描きたくなったら描けばいい。

美術館に行きたくなったら行けばいい。

感性を磨くことと、感性に従うことは違う。

感性を磨くとは、さまざまな変化に気づく力を高めること。

感性に従うとは、そのとき感じたことをもとに行動することだ。

だから、何かを感じたからといって、必ず行動に移さなければならないわけでもない。

ただ、何かに心が動いたときには、その感覚を大切にしたいと思う。

来年は九紫火星の年。

最近、芸術に触れる機会が増えたことと、何か関係があるのだろうか。

それはわからない。

しかし、これからも芸術や自然など、さまざまなものに触れ、新しい発見を楽しんでいきたい。

昨日まで気づかなかったことに、今日気づく。

そして、今まで何も感じなかったものに、何かを感じるようになる。

その積み重ねが、感性を磨くことにつながっていくのではないだろうか。