導かれる先

あなたは、こんな経験をしたことがないだろうか。

何気ない会話の中で、ある言葉が妙に心に残る。
すると、まったく関係のない場所や話の中から、同じ言葉が再び現れる。

一度だけなら、単なる偶然かもしれない。

しかし、それが二度、三度と続くと、何か意味があるのではないかと思えてくる。

もちろん、「気のせいだ」と片づける人もいるだろう。

だが、私はこうした出来事を、何かのメッセージかもしれないと考えて動くタイプである。

これまでの人生も、ずっとそうだった。

会社を辞めたときも、今の仕事に就いたときも、最初から明確な答えが見えていたわけではない。

何気ない会話や、偶然目にした言葉、なぜか繰り返し起こる出来事。

そこに何らかの意味を感じ、自分なりに解釈し、行動してきた。その結果として、今の人生がある。

今回もまた、何か大きなメッセージを受け取っているのかもしれない。

松任谷由実さんの歌にあるように、本来、目に映るすべてのことがメッセージなのだと思う。

ただ、現代人の多くは忙しすぎる。

次々と流れてくる情報に追われ、目の前の仕事をこなし、立ち止まって考える間もなく一日を終える。

そのため、本当は何度も届いているメッセージに、気づきにくくなっているのかもしれない。

今回、私の前に繰り返し現れたキーワードは、**「パキスタン」**だった。

始まりは、ビリヤニの話だった

最初のきっかけは、行きつけの美容室で交わした何気ない会話だった。

近くにビリヤニの専門店ができたらしい、という話になった。

私はビリヤニを食べたことはあったが、そういえば、どこの国の料理なのかはよく知らなかった。

その場では答えが出なかったので、後で調べてみた。

すると、近くにパキスタン料理の店があることが分かった。

しかも、自宅からそれほど遠くない場所だった。

気になったので、さっそく行ってみた。

店を営んでいたのは、実際にパキスタン出身の方だった。

残念ながら、ランチでは目当てのビリヤニを食べることはできなかった。そこで、店の方に勧められたフライドライスを注文した。

これが、驚くほどおいしかった。

美容室での何気ない会話から、パキスタン料理店へ行き、そこで思いがけずおいしい料理と出会った。

そのときは、ただそれだけの話だと思っていた。

UFOの話を聞きに行ったはずだった

その後、UFOの話を聞けるという会に参加した。

ところが、その日来ていた特別ゲストの話は、私が期待していたUFOよりも、インド北部やパキスタンで仏教修行をした経験が中心だった。

正直に言えば、少し不完全燃焼だった。

UFOの話を聞くつもりで参加したので、期待していた内容とは違っていたからである。

しかし、その話を聞きながら、ふとガンダーラのことを思い出した。

ガンダーラは、現在のパキスタン周辺にあったのではなかったか。

調べてみると、やはりそうだった。

それなら一度、現地へ行ってみたいと思った。

ところが、さらに調べると、私が訪ねたいと思った地域は、外務省の危険情報でレベル4に指定されていた。

「退避してください。渡航は止めてください」という、最も高い危険レベルである。

今は行くべき場所ではないことが分かった。

そこで今度は、日本国内でガンダーラに関するものを見られないか調べてみた。

すると、東京の博物館に、ガンダーラに関する像や資料が展示されていることが分かった。

しかも、それを知ったのは、東京方面へ出張に行く前日だった。

東京滞在中に時間を見つけ、私は実際に博物館へ足を運んだ。

東京で出会ったガンダーラ

博物館には、ガンダーラの菩薩像や如来像が展示されていた。

日本でよく見る仏像とは、少し雰囲気が違う。

顔立ちや衣のひだには、西洋の彫刻を思わせるような表現があり、東洋と西洋の文化が交差した土地で生まれたことを感じさせた。

パキスタンというと、現在の国家や治安のイメージが先に浮かびやすい。

しかし、その土地には、かつて豊かな仏教文化が栄えていた。

私はそのことを、単なる知識ではなく、実際の像を通して感じることになった。

そして、もう一つ強く印象に残ったものがあった。

九曜神の像である。

太陽や月などの天体に関わる九曜は、私が学んでいる運命學とも無関係ではない。

なぜか強く惹かれ、写真にも残した。

そこに空海がいた

さらに驚いたことがある。

同じ博物館で、空海に関する特別展が開かれていたのである。

空海といえば、真言密教である。

パキスタン料理から始まった話が、ガンダーラ仏教へとつながり、九曜神を経て、今度は空海と密教にたどり着いた。

一つひとつだけを見れば、すべて偶然である。

美容室でビリヤニの話が出たことも、UFOの会でパキスタンの仏教修行の話を聞いたことも、東京出張の前日に展示を知ったことも、空海の特別展が同時に開かれていたことも、偶然と言えば偶然である。

しかし、これだけ続くと、何かに気づかせようとしているのではないかと思えてくる。

では、私は何に気づけばよいのだろう。

梵字を学びなさいということなのか。

密教哲学を学びなさいということなのか。

あるいは、九曜からつながる宿曜を、もっと深く学びなさいということなのか。

宿曜については、まったく知らないわけではない。

ただ、今の私は、触りを知っている程度である。

もしかすると、そこをもう少し深めなさいということなのかもしれない。

すでに出会っていた先生

ここまで考えて、私は一人の先生を思い出した。

私に運命學を教えてくれた先生である。

その先生は、梵字も扱っている。

宿曜にも詳しい。

さらに最近、新しく密教の講座も始めた。

先生とは完全に疎遠になっているわけではない。最近も課外授業には参加している。

ただ、本講座については、ここしばらくご無沙汰していた。

そう考えると、今回の一連の出来事は、まったく新しい何かを探しなさいという話ではないのかもしれない。

以前から続いていた学びに、もう一度きちんと向き合いなさい。

一度止まっていた学びを、もう一段深めなさい。

そのようなメッセージなのかもしれない。

私が導かれている先は、遠いパキスタンではなく、すでに出会っていた先生の本講座なのだろうか。

人生はロールプレイングゲームに似ている

人生は、ロールプレイングゲームに似ているのかもしれない。

ゲームでは、最初から目的地までの道筋が、すべて見えているわけではない。

町の人に話しかけ、何気ない言葉の中から手がかりを得る。

気になった場所へ行く。

そこで新しい情報やアイテムを手に入れ、次の場所へ進んでいく。

しかし、話しかけなければ何も始まらない。

気になった場所へ行かなければ、次のイベントも発生しない。

今回でいえば、美容室で出たビリヤニの話が、最初の手がかりだったのかもしれない。

その言葉を気に留めなければ、パキスタン料理店へ行くこともなかった。

UFOの会で聞いた話を、期待外れだったと片づけていたら、ガンダーラを調べることもなかった。

東京で展示されていると知っても、実際に足を運ばなければ、九曜神や空海の特別展に出会うこともなかった。

一つの行動が、次の情報を呼ぶ。

次の情報が、また新しい行動を促す。

その時点では意味が分からなくても、後から振り返ると、別々に見えていた出来事が一本の道としてつながることがある。

人生でも、本当に大切なメッセージほど、「これは重要な情報です」と分かりやすく現れるわけではない。

何気ない会話や、偶然目にした言葉、たまたま参加した会の中に、次へ進むためのヒントが隠れている。

ただ、それを受け取るためには、一度立ち止まる必要がある。

なぜ、この言葉が気になるのだろう。

なぜ、同じことが何度も続くのだろう。

そう考える余白がなければ、メッセージは日常の雑音の中に埋もれてしまう。

導かれる先にあるもの

今回の出来事が、本当に何を意味しているのかは、まだ分からない。

梵字なのか。

密教哲学なのか。

宿曜なのか。

それとも、先生の本講座にもう一度戻ることなのか。

あるいは、そのすべてが、さらに別の何かへつながっているのかもしれない。

ただ、これまでの人生から、一つだけ分かっていることがある。

こうしたメッセージは、頭の中だけで考えていても、答えは見えてこない。

気になったことを調べる。

気になった場所へ行く。

気になった人に会う。

そうして一歩動いたとき、次の手がかりが現れる。

だから今回も、気のせいで片づけずに、もう少し先へ進んでみようと思う。

まずは、先生の本講座について、改めて話を聞いてみることなのかもしれない。

私が導かれる先に、何があるのか。

それは、もう少し進んでみなければ分からない。