「外国人専用」のタクシー乗り場から新幹線まで――京都で気づいた日本のすごさ

京都駅でタクシーに乗ろうとしたときのこと。乗り場には長い行列ができていた。周りを見ると、並んでいるのは外国人観光客ばかり。「さすが京都だな」と思いながら5分ほど待っていると、係の人に声をかけられた。

「どうしました? ここは外国人専用ですよ」

外国人専用の乗り場があるのか。驚いた私は、どこに並べばよいのか尋ねた。すると「ベンツでよかったらすぐ乗れますよ」と、別の乗り場を案内してくれた。

乗ったタクシーの運転手さんに、外国人専用の乗り場について聞いてみた。大きな荷物を持った人や、ベビーカーがある人も利用する列だという。外国人観光客には大きな荷物を持つ人が多いから、係の人はそう説明したのかもしれない。そういえば、先ほどの列には荷物を積みやすそうな大きめの車が来ていた。

最初は「外国人専用」という言葉に驚いた。けれど理由を聞けば、観光客の荷物や乗り降りのしやすさを考え、利用者に合う車へ案内しているのだと納得できた。京都で会った知人や地元の飲食店の人に話しても驚かれたが、私は「さすが観光都市の京都だ」とも感じた。

旅行者にとって、見知らぬ駅でタクシーに乗るのは意外と難しい。特に大きな荷物があり、言葉も地理も分からなければ、どの車に乗れるかというだけで迷う。係の人が立ち、行き先となる乗り場を案内する。そんな小さな工夫が、観光客を迎える大きな安心につながるのだろう。

「間もなく来ます」からの5分

京都市内でバスを待ったときには、別の意味で驚いた。

停留所の電子表示には、行先番号ごとに、乗りたいバスが今いくつ前の停留所にいるかが示される。土地勘のない旅行者にはありがたい。だが、表示が「間もなく来ます」になってから5分ほどたっても、バスが来ない。そんなバスが複数あった。

正直、「間もなくと言いながら、まだ来ないのか」と思った。表示された瞬間から、道路の先にバスが見えるものだと期待してしまう。最初から5分待つと分かっているときより、長く感じる5分だった。

もっとも、バスが来なかった理由は分からない。渋滞していたのかもしれないし、停留所間の距離が長かったのかもしれない。そもそも私が「間もなく」に求める時間の感覚は、ほかの人と同じとも限らない。外国から来た人なら5分程度は気にならないかもしれないし、日本人でも気にしない人はいるだろう。

どこを走っているかを伝える仕組みそのものは便利だ。そして、道路を走るバスには、鉄道のように時間を読み切れない事情もある。私は待ちながら、情報がある便利さと、その情報から自分が勝手に抱く期待は別のものだと気づいた。

京都は多くの旅行者が動く街だ。初めて来た人にも分かるよう、バスの位置を知らせる。それでも道路の混雑までは消せない。「5分も待った」とだけ言えば、案内の工夫も、その背後にある運行の難しさも見落としてしまう。

貴船の美しさと、怖かった帰り道

貴船神社にも行った。澄んだ川と緑に囲まれた景色は素晴らしい。水の神様を祀り、縁結びでも知られる神社だが、この日は参拝の列が長く、1時間以上はかかりそうに見えた。時間の限られていた私は、少し離れたところから手を合わせた。

帰りはバスで帰ろうとしたが、バス停も長蛇の列。1台では乗り切れそうにない。駅まで約2キロなら歩いたほうが早いと思い、川沿いの道を駅へ向かった。

途中まで、道は車がすれ違うのもぎりぎりの狭さだった。そこを大勢の人が歩き、車も通る。綺麗な水に目を奪われながらも、車が近づくたびに気を配らなければならない。私が訪れた日は、事故が起きても不思議ではないと感じた。

途中には、川のそばで流しそうめんを楽しめる風流な店があった。家族連れやカップルなら、多少高くても行きたくなるだろう。店には駐車場があり、駅までの送迎もあるようだ。美しい場所へ来てもらうだけでなく、帰りの移動まで考えていることに感心した。

狭い道での混雑は、もちろん軽く見てよいことではない。現地で怖いと感じたのは事実だ。しかし、貴船ではすでに行楽期の交通規制が行われ、貴船口駅と貴船を結ぶバスの増発も実施されている。調べてみると、混雑や安全の問題を前に、関係者が動いていることが分かった。

山あいの道は、すぐに広げられるものではない。人気が高まれば、もともとの道やバスだけでは受け止めきれない日もあるだろう。私が見た一日の様子だけで、対策が足りないと決めつけることはできない。現場で感じた危うさを忘れずに、それでも交通を支えようとしている人たちの仕事にも目を向けたいと思った。

約10分おきに、博多行の新幹線が来る

帰りの京都駅で、新幹線の案内を見た。博多行の列車が約10分おきに並んでいる。

何度も新幹線を使っているのに、その日は改めて驚いた。京都から博多まで長い距離を走る列車が、これほど短い間隔で来る。前後には別の列車が走り、一つ遅れれば後続にも影響しかねない。それでも私たちは、表示された時刻に列車が来ることを前提に仕事や旅行の予定を組む。

これは、よく考えればすごいことだ。

毎日、長距離の列車がほぼ予定どおりに走る。偶然そうなっているわけではない。技術と運行の仕組みを磨き、車両を点検し、その日の状況に合わせて判断する人たちがいる。正確に走らせ続けられるという自信があるからこそ、短い間隔で列車を動かせるのだろう。そして利用者には、その仕事への信頼がある。

もちろん、列車が遅れれば困る。大切な約束に間に合わなければ腹も立つだろう。普段どおりに来ることを頼りにしているのだから、それは自然なことだ。

だが、遅れる可能性が本来あるものを、毎日ほぼ同じ時刻に走らせていることの価値も忘れたくない。遅れた日にだけ強く反応し、正確に来た何百日には何も感じないとしたら、私たちはすごい仕事を「できて当然」の一言で片づけてしまう。

一見の違和感の、その先を見る

外国人専用と言われて驚いたタクシー乗り場には、荷物の多い旅行者への配慮があった。「間もなく来ます」から5分待ったバスには、道路を走る難しさと、居場所を知らせる便利さがあった。貴船の狭い道では怖い思いをしたが、交通規制やバスの増発など、すでに動いている人たちがいた。そして新幹線には、長い距離を正確に走らせる技術と、それを信じて利用する私たちがいた。

どれも、最初に感じた違和感や危険を「問題ではない」と片づけたいわけではない。改善すべきことがあれば、伝えていくべきだ。ただ、一つの場面を見ただけで判断すると、その裏ですでに行われている工夫や、日々積み重ねられている仕事を見落とすことがある。

私自身、京都を歩きながら「なぜ?」と思い、そのたびに少し先を見て、話を聞き、調べて、印象が変わった。日本の交通の正確さや、旅行者を迎える細やかな工夫は、決して自然に生まれた「当たり前」ではない。

日本には、小さな不便や遅れにも気づき、改善を重ねる力がある。それが交通の水準を高めてきたのだと思う。一方で、うまくいっていることを評価せず、例外だけを減点するなら、支える人たちの努力は見えなくなる。厳しい目を持つことと、感謝することは両立できるはずだ。

そこには感謝したいし、日本人として誇りに思っていい。問題を見つける目と、すでにある価値を認める目。その両方を持っていたいと、今回の京都の旅で思った。