派手で愛嬌のある仏像から、親鸞へ~イポーの洞窟で考えた中国と日本の仏教
クアラルンプールから日帰りで、イポーへ向かった。
イポーは、かつて錫鉱山で栄えた街である。周囲には石灰岩の山が連なり、その自然の洞窟を利用した寺院がいくつも残っている。今回訪れたのは、三寶洞(サンポトン)とペラ・トン(霹靂洞)だった。
洞窟の中へ入って、最初に目を引いたのは仏像である。金色や赤、青など鮮やかな色をまとい、中にはどこか愛嬌を感じる表情の像もあった。日本の寺院で見る仏像とは、ずいぶん印象が違う。
日本の仏像には、静かで厳格なイメージがある。薄暗い本堂で向き合うと、自然に姿勢を正したくなる。ところがイポーの仏像は、もっと明るく、祈る人との距離が近いように見えた。
同じ仏教なのに、なぜこれほど違うのだろう。
その疑問を持ち帰って調べてみると、目の前で感じた小さな違和感が、仏教が国を越えてきた長い歴史へとつながっていった。
インドの石窟寺院を思い出した
イポーの洞窟で仏像を見ながら、以前訪れたインドのアジャンター石窟群とエローラ石窟群を思い出した。どちらにも仏教に関係する石窟がある。しかし、私の記憶に残っている風景は、イポーとは少し違っていた。
アジャンターでは、壁画の色彩と、そこに描かれた物語が強く印象に残った。エローラでは、岩山を掘り進めて空間をつくった人間の力と、建築そのものの規模に圧倒された。もちろん仏像や彫刻も数多くある。それでも私の中では、壁画と、岩から建築を生み出した技術の方が中心に残っている。
一方、イポーでは、もともとあった自然の洞窟に仏像を置き、壁画を描き、祈りの場にしている。岩を掘り進めて寺院をつくったインドと、洞窟の形を受け入れて寺院にしたイポー。似ているようで、自然との関わり方が違う。そして何より、イポーでは色鮮やかな仏像の存在感が大きかった。
ただし、日本の仏像が最初から地味だったとは限らない。制作当初は鮮やかな彩色が施され、長い年月の中で色が失われた仏像もある。私たちが感じる日本の仏像の厳格さは、宗派や表現の違いだけでなく、木や金属が経てきた時間、寺院の暗さ、色が落ちた現在の姿によってつくられている部分もあるのだろう。
見た目の違いだけで、教えの違いを説明することはできない。だからこそ、さらに知りたくなった。
同じ大乗仏教が、土地ごとに姿を変えた
中国仏教と日本仏教は、どちらも大乗仏教を大きなルーツとしている。ただし、同じ教えを受け取っても、歩んだ歴史は同じではない。
仏教はインドから中国へ伝わり、長い時間をかけて経典が漢訳された。中国では、もともとあった儒教や道教と向き合いながら、天台、華厳、禅、浄土などの教えが体系化されていく。外から来た宗教が、そのまま保存されたのではない。中国の思想や社会の中で理解し直され、中国独自の仏教になった。
日本へは6世紀頃、朝鮮半島を経て仏教が伝わった。初めは国や有力者の保護を受け、奈良、平安の時代には中国で成立した宗派や思想を取り入れていく。さらに神道とも交わり、神と仏を必ずしも別々に扱わない神仏習合も進んだ。日本もまた、中国仏教をそのまま受け入れたのではなく、日本の社会に合う形へ変えていった。
ここで注意したいのは、『中国仏教は自力、日本仏教は他力』と単純には分けられないことだ。中国にも阿弥陀仏への信仰を重んじる浄土教があり、日本にも坐禅や厳しい修行を重んじる宗派がある。違いは二者択一ではない。どの教えが、どの時代の人々に受け入れられ、社会の中でどのような役割を担ったかにある。
そこで、鎌倉仏教を思い出した
日本仏教の歴史を読み進めたとき、私は『そうだった』と思い出した。現在の日本人になじみの深い仏教のかなりの部分は、鎌倉期に成立した宗派を大きな基盤としている。浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などである。もちろん、それ以前の奈良仏教や平安仏教が消えたわけではない。しかし、現在まで続く主要な宗派の多くが、鎌倉期に形を整えた。
鎌倉時代は、貴族から武士へ政治の中心が移り、戦乱や飢饉、災害も相次いだ時代である。寺院で専門的な修行を積める人だけではなく、日々の生活に苦しむ人々にも届く教えが求められた。
念仏を唱える。題目を唱える。ひたすら坐禅をする。
方向は違っても、実践の中心を明確にし、貴族や僧侶だけでなく、より広い人々へ仏教を開いていった。
その代表の一つが、親鸞の浄土真宗である。阿弥陀仏の本願を信じることを重んじ、修行を積めるかどうかで人を分けない。出家と在家の境界にも、新しい姿を示した。日本で仏教が人々の生活へ深く入っていくうえで、大きな転換だったのだと思う。
飛行機の中で見た、親鸞の映画につながった
鎌倉仏教と浄土真宗のことを思い出したとき、マレーシアへ向かう飛行機の中で見た映画『親鸞 人生の目的』につながった。
洞窟で仏像を見た瞬間に、映画を思い出したわけではない。中国と日本の仏教は何が違うのかを調べ、日本の仏教が鎌倉期に大きく形を変えたことを思い出した。その先に、親鸞がいた。
映画では、幼くして両親を失った親鸞が、『やがて死ぬのに、なぜ生きるのか』という問いを抱え、救いを求め続ける。印象に残った言葉の一つが『後生大事』だった。そして、念仏という行によって救われるのか、信心によって救われるのかを問う『行不退』『信不退』の場面も心に残った。
イポーで見た中国系寺院の仏像は、鮮やかで親しみやすかった。一方、映画の親鸞は、自分の内側へ深く入り、人間は本当に救われるのかと問い続けていた。表現だけを見れば、正反対にも思える。
しかし、どちらも人の不安や苦しみにどう向き合うか、というところから生まれている。仏教が国ごとに姿を変えたのは、教えを変えたかったからではない。その土地、その時代の人々に届く形を探した結果ではないだろうか。
移住した人々が、洞窟を祈りの場にした
イポーは錫の採掘によって発展し、中国南部から多くの人が仕事を求めて移り住んだ。三寶洞やペラ・トンのような中国系寺院が残っている背景には、そうした移住の歴史がある。
異国で暮らす人々にとって、信仰は故郷とのつながりであり、心のよりどころでもあっただろう。しかし、故郷の寺院をそのまま持ってくることはできない。そこで、イポーにあった石灰岩の洞窟に仏像を置き、絵を描き、祈りを重ねた。中国から持ってきた信仰とマレーシアの自然が交わり、この土地にしかない寺院になった。
同じ洞窟寺院でも、三寶洞とペラ・トンの印象は違った。三寶洞には庭や池があり、洞窟の外まで含めて落ち着きがある。私の中でより強く残ったのは、ペラ・トンだった。大きな仏像と壁画が、巨大な岩肌に囲まれている。奥には上へ続く階段があり、暗い洞窟から光のある場所へ、自分の足で進んでいく構造も印象的だった。
祈りの洞窟から、癒やしの洞窟へ
洞窟寺院を出た後、ザ・バンジャラン・ホットスプリングス・リトリートへ向かった。石灰岩の山と熱帯の緑に囲まれた場所に、天然温泉、プール、スパ、ヴィラが点在している。午前中に見た洞窟は祈りの場だったが、ここでは休息と癒やしの空間として使われていた。
温泉へ入ると、目の前には石灰岩の岩壁と濃い緑が広がっていた。洞窟にはレストランや瞑想のための空間もある。自然を眺めるだけではない。食事をし、身体を休め、心を静める。その時間そのものが商品になっている。
スパのメニューには、レイキもあった。私はレイキマスターの資格を持っている。しかも前日、ジョホールバルで13年ぶりに再会した旧友と、たまたまレイキの話をしていた。その翌日にイポーで『Reiki』という文字を見つけたので、不思議なつながりを感じた。
街中で受けるレイキと、何百万年もの時間をかけてできた石灰岩の山や洞窟、温泉に囲まれて受けるレイキでは、同じ施術でも感じ方が違うだろう。今回は受けなかったが、次にイポーへ来る理由が一つ残った。
人はかつて、洞窟で仏像に手を合わせた。現代の人は、同じような洞窟で瞑想し、温泉に入り、施術を受ける。信仰とウェルネスを同じものとは言えない。それでも、日常から離れて自分を整えたいという人間の思いには、どこか重なる部分があるのかもしれない。
『なぜ違うのか』が、旅を深くする
今回、イポーの仏像を見て最初に感じたのは、単純な驚きだった。
派手だ。愛嬌がある。日本の仏像とは何かが違う。
その違和感をそのままにせず調べたことで、中国と日本が同じ大乗仏教を受け取りながら、それぞれの社会の中で違う発展を遂げたことが見えてきた。そして鎌倉仏教を思い出し、親鸞の映画の言葉までつながった。
旅先で見たものに、その場ですぐ答えを出す必要はないと思う。『なぜ違うのだろう』という疑問を持ち帰る。その疑問が、以前の旅や知識、直前に見た映画と結びつくと、一つの観光地が歴史を考える入口になる。
同じ仏教でも、インド、中国、日本、マレーシアで姿は違う。それは単なるばらつきではなく、教えがその土地で生き続けるために重ねてきた工夫の跡なのだろう。
そして同じ洞窟も、移住者の祈りの場となり、現代人の癒やしの場となる。土地には、一つの意味しかないのではない。人が時代ごとに新しい意味を加えながら、受け継いでいくものなのだと思う。
