本質を語らず、手段だけを議論していないか――『開戦前夜』を観て

今話題の映画『開戦前夜』を観に行った。

舞台は1941年、真珠湾攻撃の約8か月前。

当時、日本には「総力戦研究所」という組織が存在した。

官僚、軍人、民間企業などから若いエリートたちが集められ、日本がアメリカを中心とした国々と戦争をした場合、どのような結果になるのかをシミュレーションした。

彼らは国家機密を含むさまざまなデータを分析し、議論を重ねた。

そして導き出した結論は、

「日本必敗」

だった。

映画の公式サイトでも、「なぜ日本は、負けるとわかっていた戦いに突き進んだのか?」という問いが掲げられている。

実際、彼らの分析はかなり優秀だったようだ。

長期戦になれば、国力、資源、工業力などで圧倒的に勝るアメリカには勝てない。

その予測は、その後の戦争の推移とも大きく外れていなかった。

それだけの優秀な人材を集め、膨大なデータを分析し、かなり正確な答えまで出していた。

それなのに、その答えを活かすことができなかった。

何のために彼らを集めたのだろう。

映画を観ながら、そんな疑問を感じた。

「負けるかどうか」の前にあるもの

ただ、観終わったあと、僕にはもう一つ違和感が残った。

映画では、

「アメリカと戦って勝てるのか」

ということが徹底的に議論される。

しかし、

「そもそも何のために戦おうとしているのか」

という部分については、ほとんど語られていなかったように感じた。

僕は、物事を考えるときには、

本質 → 目的 → 手段

という順番があると思っている。

まず、

「本当に大切なものは何なのか」

という本質がある。

そこから、

「何を実現しなければならないのか」

という目的が生まれる。

そして最後に、

「そのために何をするのか」

という手段を選ぶ。

戦争も本来は同じではないだろうか。

日本は何を守ろうとしていたのか。

どんな国であろうとしていたのか。

そのために何を実現しなければならなかったのか。

そして、その目的を達成する手段として、本当に戦争しかなかったのか。

ところが映画では、その最後の「手段」に焦点が当たっているように感じた。

戦争をしたら勝てるのか、負けるのか。

もちろん、それは極めて重要な問題である。

しかし、それだけでは意思決定の全体を見ることはできない。

日本は単純に「戦わなければよかった」のか

当時の状況を少し調べてみると、話はさらに複雑になる。

日本は石油を海外に大きく依存していた。

1941年、日本の南部仏印進駐などを受けて米国による経済的な締め付けが強まり、石油供給は深刻な問題になっていく。米国側の公文書を見ても、石油が日本の戦争遂行能力にとって決定的な弱点であることは認識されていた。

つまり当時の日本にとっては、

「戦争をしなければ平和でいられる」

という単純な状況ではなかった。

戦えば、長期的には負ける可能性が高い。

しかし何もしなければ、石油をはじめとする資源が不足し、時間が経つほど国力や軍事力は低下していく。

さらに中国問題、欧米の植民地支配への対抗、大東亜共栄圏、自存自衛など、さまざまな問題や理念が複雑に絡んでいた。米国務省の歴史資料でも、当時の日本が「欧米帝国主義勢力をアジアから排除する」という構想を掲げていたことが確認できる。

もちろん、だから戦争が正しかったと言いたいわけではない。

戦争によって、日本人だけでなくアジアを含め、あまりにも多くの人が犠牲になった。

一方で、日本軍が欧米列強をアジアから一時的に退けたことが、それまで絶対的に見えていた植民地支配を揺るがし、その後のアジア諸国の独立を加速させた側面もある。

歴史は、一つの角度だけから簡単に善悪を決められるものではないと思う。

だからこそ、

「負けると分かっていたのに、なぜ戦争したのか」

だけではなく、

「そもそも何のために戦おうとしていたのか」

まで考えなければ、本当の意味で当時の意思決定を理解することはできないのではないだろうか。

「空気」が意思決定を支配する

もう一つ、この映画で印象に残ったのが「空気」だった。

研究員たちは圧力を受けながらも、自分たちの分析結果を曲げなかった。

「日本必敗」という結論を出した。

一方、国家の上層部も、単純にその結論を無視して戦争をしたかったようには描かれていない。

戦争を避けようともしている。

しかし、それまでの政策、軍部、外交関係、国民世論、そして社会全体を覆う空気の中で、方向を変えようとしても変えられなくなっていく。

映画が現代への警鐘として描いているのも、この「わかっていても、止められない」という空気なのだろう。制作側も、この作品が80年以上前だけの問題ではなく、現代社会にも存在するものとして描いている。

そして、ここで僕は今の日本を思った。

今の日本も、手段ばかり議論していないか

最近の国会討論やマスコミの質問を見ていても、同じようなことを感じることがある。

都市構想がどうだとか。

ある費用が私費だったのか、公費だったのか。

SNS上の中傷動画がどうだったのか。

もちろん、事実確認や説明責任が必要なこともある。

しかし、そればかりに多くの時間を使っていて、日本がこれからどこへ向かうのかという本質的な議論が後回しになってはいないだろうか。

もちろん、こうした本質そのものが全く語られていないわけではない。

選挙になれば、各党は公約の中で、

日本をどんな国にしたいのか。

何を守りたいのか。

子どもたちにどんな社会を残したいのか。

という理念や方向性を掲げる。

問題は、その後である。

選挙が終わると、掲げた理念や公約と日々の政治とのつながりが見えにくくなり、細かな失言や疑惑、政局の話ばかりが大きく取り上げられる。

公約は、実現して初めて意味を持つ。

もちろん、情勢の変化や議会構成によって、すべてをそのまま実現できないことはあるだろう。しかし、できないのであれば、なぜできないのか、代わりにどうやって目指した社会を実現するのかを説明するのが政治の責任ではないだろうか。

選挙のときに語った本質が、当選した途端に脇へ置かれてしまえば、何のための公約なのか分からない。

本質が共有されれば、目的はかなり明確になる。

目的が明確になれば、それを達成するためにどの手段が有効なのかを議論できる。

ところが、本質を語らないまま手段から議論を始めれば、

「減税か給付か」

「賛成か反対か」

「言ったか言わないか」

という議論が延々と続く。

目的地を決めないまま、

「飛行機で行くべきだ」
「いや、新幹線だ」

と議論しているようなものだ。

これでは答えが出ない。

手段を論じる前に、本質を問う

『開戦前夜』を観て、戦争について改めて考えさせられた。

同時に、それ以上に考えさせられたのが、

「私たちは今、本質を語っているだろうか」

ということだった。

優秀な人材を集める。

膨大なデータを集める。

AIを使う。

専門家の意見を聞く。

どれだけ高度な分析をしても、

「何のためにやるのか」

が明確でなければ、それを正しく活かすことはできない。

これは国家だけの話ではない。

会社経営でも同じである。

新規事業をやるのか。

設備投資をするのか。

人を採用するのか。

DXを進めるのか。

手段はいくらでもある。

しかし、その前に、

「そもそも何のために、この会社は存在しているのか」

がある。

本質があり、目的があり、その後に手段がある。

順番を逆にしてはいけない。

『開戦前夜』が現代への警鐘だとすれば、僕はこの映画から、

「空気に流されるな」

だけではなく、

「手段を論じる前に、本質を問え」 というメッセージを受け取った。