相剋は、人を傷つける関係ではない

人を成長させる「厳しい愛」の話

先日、運命學の勉強会があり、今回のテーマは「相剋」だった。

相剋については、これまでも学んできたつもりだったが、改めて話を聞いてみると、新たに気づかされることが多く、非常に奥深い内容だった。

一般的には、相生はよい関係、相剋は悪い関係と思われがちである。

確かに、相生の関係は居心地がよい。

相手を支え、力を与え、安心させる。

たとえるなら、相生は菩薩様のような優しい愛である。相手を包み込み、安らぎをもたらす。

一方、相剋は厳しい。

相手の悪い部分や足りないところが目につきやすく、ときには強く指摘することになる。

しかし、本来、相生も相剋も愛の関係である。

相生が優しく包み込む愛だとすれば、相剋は叱咤激励によって相手を成長させる、お不動様のような厳しい愛である。

人には、安らぎも必要であるし、成長も必要である。

したがって、相生と相剋は、どちらがよくて、どちらが悪いというものではない。どちらも、人が生きていくうえで欠かすことのできない関係なのである。

相生も相剋も、キャスティングや使い方を間違えると、大変なことになる。

相生が強すぎれば、依存や甘え、馴れ合いが生じる。

相剋が強すぎれば、反発や萎縮を招き、相手のやる気を奪ってしまう。

大切なのは、相手や状況に応じて、優しさと厳しさを適切に使い分けることである。

相剋は、なぜ成長をもたらすのか

相剋については、「なぜ剋すのか」という説明はよくされる。

金は木を切る。
木は土を剋す。
土は水をせき止める。
水は火を消す。
火は金を溶かす。

このように、片方がもう片方を抑えたり、傷つけたりする関係として説明されることが多い。

しかし、五行の自然現象をもう少し深く見ていくと、相剋がなぜ人の成長をもたらすのかも説明できる。

金剋木――余分なものを切り、成長を促す

木は、放っておけば枝葉を自分の好きな方向へ伸ばしていく。

枝葉が生い茂ると、木は太陽の光を求めて、さらに上へ上へと高く伸びようとする。しかし、根元まで十分な光や風が届かなくなるため、幹はやせ細り、ただ高さだけがある、使い物にならない木になってしまう。

価値のある大木へ育てるためには、金属の刃物で枝葉を適度に切り、根元まで光と風が届くようにしなければならない。

剪定することで、木は無秩序に上へ伸びるのではなく、幹や根を太くしながら、全体のバランスを整えて成長していく。

金は木の成長を止めるために切るのではない。

木の身勝手な成長を抑え、余分なものを取り除くことで、木を本当に価値のある大木へと育てるのである。

木剋土――凝り固まったものをほぐす

土も、固くなりすぎると、何も育てられなくなる。

水も空気も入りにくくなり、植物の根も伸びることができない。

そこで木製の鍬を使い、固まった土を掘り起こす。

土を柔らかくすることで、再び植物や作物を育てられる土になる。

木は土を壊すのではない。

凝り固まったものをほぐし、新しいものを育てられる状態へ変えるのである。

土剋水――不要なものを取り除き、浄化する

土は水をせき止めると説明されることが多い。

しかし、土には水を浄化する働きもある。

汚れた水が土の層を通ることで、不純物が取り除かれ、次第にきれいな水へ変わっていく。

土は、水の流れをただ止めているのではない。

水の中に含まれている不要なものを取り除き、本来の清らかな状態に戻しているのである。

水剋火――強さを調整し、価値を生み出す

水は火を消すものだと考えられやすい。

しかし、水を適度に火に与えることで、煮る、炊く、蒸すといった調理ができる。

火だけでは、食材を焼くことしかできない。

そこへ水が加わることによって、火の強さが調整され、おいしい料理を生み出す力に変わる。

水は火を否定しているのではない。

火の力を適切に調整し、火だけでは生み出せなかった新しい価値を生み出しているのである。

火剋金――溶かすことで、新しい役割を与える

火は金属を溶かす。

しかし、金属は火によって溶かされ、形を変えることで、初めて価値のある道具になる。

鍬や包丁、器、機械の部品など、私たちの生活を支えるさまざまなものへと姿を変える。

火は金を無価値にするのではない。

金の中にある可能性を引き出し、新しい形と役割を与えるのである。

このように考えると、相剋とは、単に相手を傷つけたり、抑えつけたりする関係ではない。

余分なものを削る。
凝り固まったものをほぐす。
汚れを浄化する。
強すぎる力を調整する。
新しい価値を生み出す。

相手の偏りを正し、本来持っている力を引き出し、さらに成長させる働きなのである。

相手の悪いところが見えるから難しい

相剋の関係では、剋す側から、剋される側の悪い部分がよく見える。

甘さや弱さ、考え方の偏り、遠回りをしているところなどが、自然と目に入ってくる。

だから、つい言いたくなる。

「そこは直した方がいい」
「こうすればいいのに」
「なぜ、そんなやり方をしているのか」

剋す側に悪気はない。

むしろ、相手のためを思って言っていることも多い。

しかし、相手が望んでいないのに指導することはできない。

相手が指導を求めていなければ、それは相手を成長させるための助言ではなく、ただの文句として受け取られてしまう。

相手の悪いところが分かることと、それを指摘してよいことは別なのである。

本来、人を指導するためには、相手のことをよく理解しなければならない。

そして、剋す側は、少なくとも知識を身につける必要がある。

知識がなければ、本当に直すべき部分なのか、それともその人が本来持っている個性や長所なのかを判断できない。

木の性質を知らずに剪定すれば、不要な枝だけでなく、これから伸びる大切な芽まで切ってしまう。

同じように、相手を十分に理解せず、自分の価値観だけで指摘すれば、相手を成長させるどころか、その人のよさまで失わせてしまう可能性がある。

剋す側には、知識と経験、そして相手を見極める智慧が必要なのである。

相剋の言葉は、三倍強く聞こえる

相剋の関係には、相手の言葉が三倍ほど強く聞こえるフィルターがあると考えられている。

剋す側が「一」の強さで言ったつもりでも、剋される側には「三」の強さで届く。

普通の人から言われれば軽い助言で終わる言葉も、相剋の相手から言われると、強い否定に感じることがある。

「自分だけ厳しくされている」
「差別された」
「いじめられた」
「自分のすべてを否定された」

そのように受け取りやすい。

しかし、この強く聞こえる働きがあるからこそ、相剋の言葉には人を変える力もある。

心に強く残る。
簡単には忘れられない。
自分の考え方や行動を見直すきっかけになる。

相生の人から同じことを言われても、「そうだね」で終わるかもしれない。

相剋の人から言われるからこそ、痛いほど響き、成長につながることがある。

だからこそ、剋す側はやりすぎてはいけない。

自分が思っている以上に強く伝わることを理解し、言葉を弱め、伝える量を減らし、相手が受け取れる形に変える必要がある。

一方、剋される側も、すぐに逃げてはいけない。

もちろん、人格否定や過剰な攻撃まで我慢する必要はない。

しかし、耳の痛い言葉をすべて拒絶してしまえば、自分の偏りを修正し、成長する機会を失うことになる。

相剋の関係では、

剋す側は、やりすぎない。
剋される側は、逃げない。

この双方の姿勢が大切なのである。

二黒が三碧に相談すると

たとえば、二黒が三碧に相談したとする。

二黒は、物事を一つひとつ積み重ね、慎重に考えながら進んでいく。

時間をかけて土台を固め、ようやく一つの考えにたどり着く。

一方、三碧はインスピレーションによって、一瞬で答えを思いつく。

三碧にとっては、それが自然なのである。

相手の回り道をやめさせようとか、前へ進ませようと考えているわけではない。

単に、答えが一瞬で見えるのである。

そこで三碧は、

「こうすりゃいいのに」

と一刀両断する。

三碧に悪気はない。

思いついたことを、そのまま口にしただけである。

しかし、二黒は、一つずつ積み上げ、悩みながら、ようやくここまでたどり着いている。

三碧の言っていることが正しいと頭では分かっていても、

「自分が今まで考え、積み上げてきたものは何だったのだろう」

とショックを受ける。

二黒が四緑に相談すると

同じ木の性質でも、四緑は三碧とは異なる。

四緑は柔軟で、まずやってみて、駄目なら方向を変えればよいと考える。

二黒が悩んでいると、

「どっちでもいいんじゃない」
「とりあえずやってみたら」
「大変ならやめればいいんじゃないの」

と言うことがある。

四緑にとっては、それが自然な考え方なのである。

しかし、二黒にとっては、一度決めたことや始めたことには責任が伴う。

簡単に始めたり、途中でやめたりすることはできない。

そのため、

「それができたら苦労しない」

と怒り出すことがある。

四緑は二黒の気持ちを軽くしようとしただけかもしれない。

しかし、二黒には、自分が真剣に考えていることを軽く扱われたように聞こえてしまうのである。

相剋を調和させる「調和の法」

相剋による衝突を避けるために、「調和の法」という考え方がある。

最も分かりやすい方法は、剋す側が直接伝えないことである。

相手と相生関係にある人から、代わりに伝えてもらう。

相手が火なら木。
相手が土なら火。
相手が金なら土。
相手が水なら金。
相手が木なら水。

相手を生じる関係にある人は、その人を理解し、支えやすい。

同じ内容であっても、相生の人から伝えられると、否定ではなく助言として受け取りやすくなる。

ただし、ここで非常に大切なことがある。

「あの人が、あなたのことをこう言っていた」

と伝えてはいけない。

このような伝え方をすれば、

「なぜ本人は直接言わないのか」
「陰で悪く言われていたのか」
「この人も向こう側なのか」

という不信感が生まれる。

相生側の人は、単なる伝言係ではない。

剋す側の意見をいったん自分の中で受け止め、本当に相手の成長に必要なことなのかを考える。

そして、自分の責任で、自分の言葉として伝える。

剋す側の言葉をそのまま運ぶのではなく、相手が受け取れる形へ翻訳するのである。

剋す側の厳しさを、相生の優しさで包んで届ける。

これが、調和の法の重要な部分なのである。

九つの気を、すべて使えるようになる

もう一つの調和の方法は、自分自身が九つの気をすべてマスターすることである。

これは簡単ではない。

非常に高いハードルである。

しかし、九つの気を理解し、その場に応じて使い分けられるようになれば、どのような相手にも、その人が受け取りやすい形で言葉を届けられる。

自分が本来持っている気のまま話すのではなく、相手に必要な気を自分の中から出す。

三碧のように、新しい発想を示す。
四緑のように、安心して動ける風を送る。
二黒のように、相手の積み重ねを受け止める。

相手によって、自分の役割や伝え方を変える。

これができれば、仲介する人がいなくても、自分自身が相生と相剋を調和させられる。

相手を変えようとするのではなく、自分の気を変える。

九つの気を自由に使うことができれば、どのような相手とも調和をつくることができる。

確かに、無敵に近いのかもしれない。

相剋もまた、愛である

相剋は、相手を傷つけるための関係ではない。

本来は、智慧と叱咤激励によって、相手を向上発展させるために存在する。

しかし、相手の気を読まなければ、厳しい愛はただの批判になる。

知識がなければ、指導は自分の価値観の押しつけになる。

やりすぎれば、相手のやる気を奪い、嫌われ、争いになる。

一方で、剋される側がすべての厳しさから逃げてしまえば、成長する機会を失う。

相剋を正しく生かすために必要なのは、相手をよく見ることだと思う。

相手が何を積み上げてきたのか。
何を大切にしているのか。
今、どの程度の言葉なら受け取れるのか。
本当に指導を望んでいるのか。

それを理解したうえで、必要なことを、必要な量だけ伝える。

相生は、優しく包み込む愛である。

相剋は、厳しさによって、本来の力を引き出す愛である。

どちらも、人が生き、成長していくためには欠かせない。

剋す側は、やりすぎない。
剋される側は、逃げない。 この二つがそろったとき、相剋は争いではなく、人を成長させる本来の愛として働くのだと思う。