答えを与えないことも、支援なのかもしれない
――生きづらさを抱える若者と『モモ』の話
先日、NPO法人SFD21JAPANの代表の方の講演を聞く機会があった。
SFD21JAPANは、約26年前から青少年の立ち直り支援を続けている団体である。
警固公園周辺に集まる若者への支援をはじめ、さまざまな事情から生きづらさを抱えている人に寄り添い、必要に応じて他の支援団体とも連携しながら、伴走型の支援を行っているという。
若者といっても、10代だけではない。
20代、30代、40代まで、社会の中で居場所を失ったり、人との関係につまずいたりしながら、孤立している人がいる。
警固公園に集まる若者については、飲酒や喫煙、オーバードーズなど、非行の側面から語られることが多い。
しかし、講演を聞きながら感じたのは、表面に現れている行動だけを見ても、問題の本質は分からないということだった。
「なんとなく、ここにいる」
講演では、2023年から2024年にかけて行われた若者への意識調査についても紹介された。
その中で印象に残ったのが、警固公園周辺にいる理由について、約4割、人数にすると80人近くが、「なんとなく」など、特別な理由を挙げていなかったという結果である。
理由がないから来ている。
そう聞くと、不思議に感じるかもしれない。
しかし、本当に何も理由がないのだろうか。
家にいたくない。
学校や職場にも居場所がない。
一人でいるのはつらい。
けれど、自分が何を感じているのか、うまく説明できない。
そうした言葉にならない思いを抱えながら、なんとなく人がいる場所へ足が向いているのかもしれない。
「なんとなく」という言葉の中には、本人にも整理できていない孤独や苦しさが隠れているように思う。
制度を知っていても、使いたくない
調査では、困ったときに利用できる支援制度について、制度そのものは知っているものの、使いたいとは思わないという若者も少なくなかったという。
これは、単に制度の周知が足りないという話ではない。
制度を知らないのではなく、知っていても利用したくないのである。
なぜ使いたくないのか。
その理由を考えるうえで、さらに重い調査結果があった。
自殺を考えたことがある人が約5割。
虐待を受けた経験がある人が約4割。
そして、誰かに相談したときに嫌なことを言われ、
「言わなければよかった」
と思ったことがある人が約6割いたという。
この数字には、正直、衝撃を受けた。
相談するという行為は、本来であれば救いを求める行為のはずである。
ここなら分かってもらえるかもしれない。
この人なら助けてくれるかもしれない。
そう思って、勇気を出して自分の話をした。
ところが、中には、返ってきた言葉や反応が、本人の期待していたものとは大きく違った人もいたのだろう。
例えば、
「あなたにも原因があるのではないか」
「もっと頑張った方がいい」
「そんなことを気にしていては駄目だ」
「こうするべきだ」
「普通はこうするものだ」
といった、相談を受けた側にとっては助言のつもりの言葉もあったのかもしれない。
しかし、相談した本人には、気持ちを理解してもらえず、否定されたり、責められたりしたように感じられた。
それなら、「言わなければよかった」と思うのも無理はない。
救いだと思って手を伸ばした場所が、自分の期待していた救いとは違っていた。
むしろ、さらに傷つく経験になった人もいたのだろう。
そうした経験をすれば、制度があると知っていても、もう相談したいとは思わなくなるかもしれない。
人は、なぜ答えを与えたくなるのか
私はこの話を聞きながら、人の話を聞くことの難しさについて考えていた。
人は、相手のことを自分より未熟だ、経験が足りない、分かっていないと思った瞬間に、あれこれアドバイスをしたくなる傾向があるように思う。
「あなたは、こうした方がいい」
「今の考え方では駄目だ」
「私だったら、こうする」
本人のためを思って言っている場合も多い。
しかし、本人が本当に求めているものを確認しないまま助言をすれば、その言葉は支援ではなく、押しつけになってしまうことがある。
相談する側は、必ずしも人生の答えを決めてもらいたいわけではない。
心の中では、漫画『ONE PIECE』のルフィのように、
「うるせぇ。お前が俺の人生を決めるな。俺の人生は俺が決める」
と言いたい若者もいるのではないだろうか。
これは単なる反抗ではない。
自分の人生は自分で決めたいという、当然の思いである。
支援を受ける立場になったからといって、自分の人生の主導権まで他人に渡したいわけではない。
私も、以前はそのまま答えていた
この話は、私にとっても他人事ではない。
私自身も、運命學を学ぶ前は、
「私は何をすればいいですか」
と聞かれると、自分の知識や経験をもとに、そのまま答えていたかもしれない。
就職した方がいい。
資格を取った方がいい。
今の仕事を続けた方がいい。
もっと積極的に行動した方がいい。
相談された以上、何か役に立つ答えを返さなければならないと思っていた。
しかし、運命學を学ぶ中で、人は一人ひとり、持って生まれた素質も才能も違い、人生で果たす役割や使命も違うと考えるようになった。
ある人にとって正しい道が、別の人にとっても正しいとは限らない。
安定した会社に勤めることで力を発揮する人もいれば、決められた枠の中では本来の力を出せない人もいる。
多くの人と協力することに向いている人もいれば、一人で深く考え、何かをつくり上げることに向いている人もいる。
だから本来、
「私は何をすればいいですか」
という問いに、すぐ答えられるはずはないのである。
その人が何を感じているのか。
何を大切にしているのか。
何に違和感を覚えているのか。
何が怖いのか。
本当はどうなりたいのか。
そこが分からなければ、その人に合った答えは出せない。
むしろ大切なのは、回答を与えることよりも、本人が自分の気持ちや望みに気づくのを助けることではないかと思う。
「私は何をすればいいですか」の奥にあるもの
もちろん、相談する側にも難しさはある。
多くの相談は、
「私は何をすればいいですか」
という質問から始まる。
そう聞かれれば、相談を受けた側は、その質問に答えようとする。
しかし、本当はその奥に、
「私はどう生きたいのか」
「どんな状態から抜け出したいのか」
「何を大事にして生きたいのか」
という問いが隠れている。
ところが、その部分は本人自身にも見えていないことがある。
そこがブラックボックスのまま、表面の質問だけに答えても、本人が本当に望んでいるものとは違う答えになる。
相談した人は、間違った答えをもらったわけではない。
一般的には正しい答えだったのかもしれない。
それでも違和感を持つ。
「そういうことを聞きたかったのではない」
「自分の気持ちを分かってもらえなかった」
「期待していたものとは違った」
と感じる。
相談する側も、自分の望みを言葉にできればよい。
しかし、生きづらさを抱えた若者の中には、自分が何を望んでいるのかさえ分からなくなっている人もいる。
過去に自分の夢を語り、友人から笑われた人。
なりたい職業を伝えたときに、
「お前には無理だ」
と強く反対された人。
あるいは、経済的に苦しい家庭の中で、
「お金を稼ぐことは悪いことだ」
という言葉を繰り返し聞かされてきた人もいるかもしれない。
言った側にとっては、軽い冗談や、その場の感情から出た言葉だったのかもしれない。
本人を心配する気持ちから、現実的な助言をしたつもりだった可能性もある。
しかし、受け取った本人は深く傷つき、その言葉が長く心に残っていることもある。
人生経験の少ない若者にとって、大人や身近な人の言葉は、私たちが思う以上に強く届く。
夢を語れば否定される。
助けを求めれば説教される。
自分の気持ちを伝えても、分かってもらえない。
そうした経験が重なると、行き場のない虚しさや憤りを抱えながらも、
「誰かに助けてほしい」
という気持ちを、どう伝えればよいのか分からなくなってしまうのではないだろうか。
だからこそ、支援する側がリードしながら、本人の中にある思いを一緒に整理する必要がある。
答えを教えるのではない。
本人が自分の問いと答えを見つけられるように支えるのである。
『モモ』を思い出した
私は講演を聞きながら、ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出していた。
モモには、人の話を聞く不思議な力がある。
しかし、モモが立派なアドバイスをするわけではない。
相手に正しい答えを教えるわけでもない。
ただ、じっと話を聞く。
相手のペースに合わせる。
話が止まれば、沈黙にも付き合う。
すると、話していた人は、自分の中にあった思いに気づき、自分自身で答えを見つけていく。
本で読むと簡単そうに見えるが、現実には、これがとても難しい。
私たちは、人の話を聞くと、何か役に立つことを言わなければならないと錯覚してしまう。
励ましたり、助言したり、解決策を示したりすることが、相手のためになると思っている。
しかし、相手が求めているのは、答えではなく、まず自分の気持ちを分かってもらうことなのかもしれない。
特に支援する側は、何か役に立つことを言わなければならないと思いがちである。
しかし、大人は、必ずしも答えを出さなくてもよいのではないだろうか。
若者の話を急かさずに聞く。
相手のテンポに合わせて相づちを打つ。
言葉が出てこないときには、沈黙にも付き合う。
話が混乱していれば、
「つまり、こういうことなのかな」
と整理して返す。
そして、本人が自分自身の気持ちに気づくのを待つ。
それだけでも、十分に大きな支援になるのではないか。
正面ではなく、隣に座る
正面から目を見て話すことが大切だと言われることもある。
しかし、相手によっては、正面から見られることが圧力になる場合もある。
コーチングでは、相手と正面から向き合うのではなく、隣に座り、同じ方向を見ながらセッションを行うことがある。
特に、過去に大人から叱責されたり、問い詰められたりした経験があれば、相手の視線そのものが怖いこともあるだろう。
隣に座れば、二人が対立する構図にはならない。
支援する人と、支援される人。
教える人と、教えられる人。
正しい人と、間違っている人。
そうした上下の関係ではなく、二人で同じ問題を見ることができる。
「あなたの何が悪いのか」を考えるのではない。
「今、目の前にある問題をどう感じているのか」を一緒に整理する。
散歩をしながらでもよい。
飲み物を飲みながらでもよい。
紙に簡単な図を書きながらでもよい。
本人が話しやすい場所と距離と速度に合わせる。
それが伴走するということなのかもしれない。
答えを与えないことも、支援なのかもしれない
食料や衣服、住まいなどの支援は必要である。
今日を生きるためには欠かせない。
制度につなぐことも重要である。
自殺や虐待など、命や安全に関わる場面では、専門的な支援や迅速な対応も必要になる。
しかし、物質や制度だけでは届かないものもある。
人が本当に求めているのは、困ったときに何かを与えてくれる人だけではない。
「この人なら話しても大丈夫だ」
「失敗しても見捨てられない」
「自分の話を否定せずに聞いてくれる」
そう思える大人とのつながりを求めているのではないだろうか。
本当の支援とは、相手の代わりに人生の答えを出すことではない。
本人が何を感じ、何を望んでいるのかを一緒に整理し、自分で答えを見つけられるように支えることなのだと思う。
人にはそれぞれ、異なる素質がある。
異なる才能がある。
生きる目的や使命も違う。
だから、誰にでも通用する一つの正解などない。
大人が先回りして答えを与えない。
自分の正しさを押しつけない。
本人が答えを見つけるまで、同じ方向を見ながら隣に座る。
『モモ』がしていたように。
答えを与えないことも、支援なのかもしれない。
