自由自在とは、好き勝手に生きることではない

――自分を知り、使命に生きるということ

先日、知人が書いた本を読んだ。

タイトルは『四十日間のあの世生活で分かったこの世のトリセツ』。

知人は実際に倒れ、四十日間、意識不明の状態が続いたという。
そして、その間の記憶がはっきりと残っており、その体験を一冊の本にまとめている。

その本の中で、私が特に印象に残った言葉がある。

自由自在

一般的に「自由自在」というと、どういう意味に受け取られるだろうか。

好き勝手に生きること。
規則や常識に縛られないこと。
自分の思い通りに何でもできること。
誰にも邪魔されず、やりたいことをやること。

おそらく、多くの人はそのような意味で捉えるのではないかと思う。

しかし、その本に書かれていた「自由自在」の意味は、まったく次元が違っていた。

知人は、その言葉について、次のように聞いたという。

自由とは、自らを理由に生きること。
他を理由としないこと。

自在とは、他の何かになろうとせず、
自らであること。

この解釈を読んだ時、私はしばらく考え込んでしまった。

自由とは、何でも好きにできることではない。
自分勝手に振る舞うことでもない。
誰かや何かのせいにせず、自らを理由にして生きること。

自在とは、何にでもなれることではない。
誰かのようになることでもない。
他の何かになろうとせず、自分自身であること。

これはかなり深い。

私たちは、自由を外側に求めがちである。

もっとお金があれば自由になれる。
もっと時間があれば自由になれる。
もっと評価されれば自由になれる。
もっと好きな場所に行ければ自由になれる。
もっと人間関係から解放されれば自由になれる。

もちろん、それらも大切ではある。
現実問題として、お金や時間や環境が整わなければ、心に余裕を持つことは難しい。

しかし、それだけで本当に自由になれるのだろうか。

たとえお金があっても、他人の評価に縛られていれば自由ではない。
時間があっても、過去の後悔に縛られていれば自由ではない。
人から羨ましがられても、自分以外の何かになろうとしていれば自在ではない。

そう考えると、本当の自由自在とは、外側の条件の問題ではなく、内側の在り方の問題なのかもしれない。

では、その自由自在に生きるためには何が必要なのか。

私は、まず自分自身を知ることだと思う。

自分には、どんな素質があるのか。
どんな才能があるのか。
何をしている時に自然と力が出るのか。
逆に、何をしている時に自分ではなくなってしまうのか。
自分は、この人生で何を成し遂げようとしているのか。

人生とは、もしかすると、これを探すゲームのようなものかもしれない。

自分にはどんな素質や才能があり、
それを使って、どんな使命を果たそうとしているのか。

それに気づいた時、不思議なことに、過去の経験が一本の線でつながって見えてくることがある。

あの失敗は、このためだったのか。
あの遠回りは、このための準備だったのか。
あの人との出会いは、この道に進むためだったのか。
あの苦しみがあったから、今、人の痛みが分かるのか。

その時、過去は単なる過去ではなくなる。

失敗は教材になり、
遠回りは道になり、
苦労は人を照らす力になる。

昔話や武道の修行にも、そういう話がある。

最初は意味が分からない。
掃除をさせられる。
水を汲まされる。
型ばかりやらされる。
本人は「こんなことに何の意味があるのか」と思う。

しかし、いざ本番になった時に、その一見関係ないと思っていた修行がすべて生きてくる。
掃除で身についた足腰。
水汲みで鍛えられた体幹。
型で覚えた呼吸や間合い。
全部がつながる。

人生も同じなのかもしれない。

その時は意味が分からない経験も、後から見れば、自分の使命に向かうための準備だったと分かることがある。

最近は「自分探し」という言葉もよく使われる。
しかし、多くの場合、自分を外に探しに行っているように感じる。

どこかへ行けば見つかる。
誰かに会えば見つかる。
資格を取れば見つかる。
すごい先生に教われば見つかる。
特別な体験をすれば見つかる。

もちろん、外側の経験がきっかけになることはある。
しかし、見つかる場所は外ではない。
最終的には、自分の内側である。

外にあるものは、あくまで鏡でしかない。

大切なのは、外を見た時に自分の心がどう反応するかである。

なぜか惹かれる。
なぜか違和感がある。
なぜか涙が出る。
なぜか怒りが湧く。
なぜか放っておけない。
なぜか昔から同じことをしている。

そうした心の声を丁寧に聴いていくことが、自分を知る入口になるのだと思う。

そして、その前提として必要なのが、
自分を愛しているか。
自分に感謝しているか。

ということではないだろうか。

これは基本のキだと思う。

自分を嫌っている人は、自分の中にある声を信用できない。
自分を否定している人は、自分の素質や才能も否定してしまう。
自分に感謝できていない人は、過去の経験を「準備」ではなく、「失敗」や「傷」としてしか見られない。

だから、自分が嫌いな人には、本当の使命はなかなか見つからないのではないかと思う。

使命とは、どこか遠くにある立派なものを探しに行くことではない。
自分の中にすでにあるものに気づくことに近い。

自分の性格。
自分の弱さ。
自分の傷。
自分の違和感。
自分の得意。
自分が自然にやってしまうこと。
自分がどうしても放っておけないこと。

これらを嫌わずに見つめた時に、初めて自分の使命の輪郭が見えてくる。

私は現在、気の学問を学び、またトレーナーとしても関わっている。
運命學、帝王学とも言われる学問である。

この学問の大きな価値は、未来を当てることではないと思っている。
もちろん、時の流れや相性を見ることもできる。
しかし、本質はそこだけではない。

自分はどういう気を持って生まれてきたのか。
どんな素質や才能があるのか。
どの方向に進むと力が出るのか。
どの方向に進むと自分を見失いやすいのか。

それを知るきっかけになるところに、大きな意味があると思う。

たとえば、これまで人前で話すのが苦手だと思っていた人がいる。
経験もほとんどない。
だから、自分には向いていないと思い込んでいる。

しかし、実際には人前で話すことに向いた気質を持っていると分かった。
それを信じて学び、場数を踏んだ結果、名スピーカーになることがある。

また、学力が低いと思い、自信を持てなかった人がいる。
しかし、人に教える気質が強いと分かる。
それをきっかけに学び直し、人に伝える力を磨いた結果、名講師になることがある。

あるいは、自分には芸術など縁がないと思っていた人がいる。
しかし、感性が豊かで表現する気質があると分かる。
そこから絵を描き始め、賞を取ることもある。

こういう例は少なくない。

つまり、多くの人は、経験していないことを「才能がないこと」と勘違いしている。
環境がなかっただけかもしれない。
自分で封印していただけかもしれない。
過去の思い込みで避けていただけかもしれない。

気質を知ることは、未来を決めつけることではない。
むしろ、まだ使っていない自分の可能性に気づくことだと思う。

ただし、外を見る時にも注意が必要である。

成功している人を真似ることは悪いことではない。
しかし、自分とまったく気質の違う人を真似ても、うまくいかないことがある。

これはパソコンで言えば、OSが違うようなものだ。

WindowsにはWindowsに合う使い方があり、MacにはMacに合う使い方がある。
iPhoneとAndroidでも、動作の仕組みや得意なことが違う。

人間も同じで、表面だけを真似しても、自分の気質に合っていなければ同じような成果は出にくい。

大切なのは、
自分と同じ気質で成果を出している人を見ること
だと思う。

その人がなぜその道を選んだのか。
どこで力が出ているのか。
何を無理していないのか。
どんな順番で自分を活かしているのか。

それを見ることで、自分の使い方が少しずつ分かってくる。

外に答えを探すのではない。
外にいる同じ気質の人を通して、自分を知るのである。

では、本当の意味での人生の成功とは何だろうか。

多くの人は、お金持ちになることを目指す。
人気者になることを目指す。
何かでナンバーワンになることを目指す。

もちろん、それらが悪いわけではない。
お金を得ることも、人気を得ることも、一番になることも、人生における大切な経験である。

一番になることが、使命に気づく契機になることもある。
本気で頂点を目指したからこそ、自分の限界や本質が見えることがある。
一番になったからこそ、次に「自分は何のためにこの経験を得たのか」と考えることもある。

だから、外側の成功を否定する必要はない。

ただ、それはあくまで経験である。

お金を得ることも経験。
人気者になることも経験。
一番になることも経験。
失敗することも経験。
挫折することも経験。
評価されることも、裏切られることも、遠回りすることも、すべて経験である。

大切なのは、その経験をどう捉えるかである。

成功体験を「自分はすごい」という証明にするのか。
失敗体験を「自分はダメだ」という呪いにするのか。
それとも、「この経験は何のためにあったのか」という問いに変えるのか。

ここで人生は大きく変わる。

経験を勲章にすると、過去に縛られる。
経験を傷にすると、自分を閉じ込める。
しかし、経験を材料にできれば、使命につながる。

成功体験にいつまでもしがみつき、昔の自分を追いかけ続ける人もいる。
「あの頃はすごかった」
「あの頃は評価された」
「あの頃の自分に戻りたい」

そうなると、人生は前に進まない。

自在とは、昔の成功者としての自分にしがみつくことではない。
今の自分として、次の役割を生きることだと思う。

現代は、ある程度お金がないと、こうしたことを考える余裕が持ちにくい。
これは現実である。

生活費に追われている。
支払いに不安がある。
家族を養わなければならない。
仕事で疲れ切っている。

その状態で「使命を考えましょう」と言っても、なかなか難しい。

だから、お金や仕事や生活基盤は決して軽視できない。
使命に向き合うための土台として、お金は必要である。

ただし、ここにも一つの見方がある。

お金がないという現実も、もしかすると、何かに気づかせるための「縁起」なのかもしれない。

ここでいう縁起とは、単なる吉凶の話ではない。
縁が起こること。
つまり、その出来事を通じて、何か大切な気づきと出会うという意味である。

もちろん、「お金がないのは本人が悪い」と言いたいわけではない。
苦労を正当化したいわけでもない。
現実的には、収入を増やす、支出を整える、助けを借りる、仕事を見直すことも必要である。

しかし同時に、
「この現実は自分に何を見せようとしているのか」
と考えることもできる。

自分は何にお金を使ってきたのか。
何を恐れているのか。
本当に必要なものは何なのか。
自分の才能を使えているのか。
自分の気質に合わない働き方をしていないか。
お金を受け取ることに抵抗はないか。

お金がないという現象も、自分の生き方や価値観を映す鏡になることがある。
その意味では、お金がないという現実も、自分を知るための気づきとの出会いになり得る。

そう考えると、人生に起きる出来事は、すべて何かを教えてくれているのかもしれない。

自由自在とは、好き勝手に生きることではない。
何でも思い通りにできることでもない。

自由とは、自らを理由に生きること。
自在とは、他の何かになろうとせず、自らであること。

そのためには、自分を知らなければならない。
自分を愛し、自分に感謝し、自分の素質や才能を受け取らなければならない。
そして、その才能を何のために使うのかを見つけていかなければならない。

本当の意味での人生の成功とは、
お金持ちになることでも、人気者になることでも、一番になることでもない。

それらの経験を通して、
自分の使命を知り、
その使命を成し遂げていくことではないだろうか。

人生とは、自分が何者なのかを思い出す旅である。

そして、過去のすべての経験は、
そのための伏線なのかもしれない。