――諦めるとは、自分一人で全部やることをやめ、仲間と目的を果たすことである
「諦める」という言葉がある。
多くの人は、この言葉をあまり良い意味で使わない。
途中でやめること。
投げ出すこと。
夢を断念すること。
負けを認めること。
だから、「諦めるな」という言葉は、前向きな励ましの言葉として使われる。
夢を諦めるな。
挑戦を諦めるな。
人生を諦めるな。
確かに、それは大事なことである。
特に若いうちは、簡単に諦めない方がいい。
若いうちは、自分が何者なのか、まだよく分からない。
何が得意なのか。
何が不得手なのか。
何をしている時に力が出るのか。
何をしている時に心が削られるのか。
それは、頭で考えているだけでは分からない。
実際にやってみて、失敗して、恥をかいて、人に迷惑をかけて、悔しい思いをして、それでもまた挑戦する。
そういう経験を通じて、少しずつ自分の輪郭が見えてくる。
だから、若いうちはがむしゃらでいい。
興味があることには手を出してみればいい。
できるかどうか分からなくても、まずやってみればいい。
無駄に見える経験も、あとから振り返れば、自分を知るために必要だったと思えることがある。
しかし、50歳を過ぎてもなお、何でもかんでも「諦めてはいけない」と思い込んでいるとしたら、それは少し違うのではないかと思う。
50歳を過ぎたら、いい加減、自分は何が得意で、何が不得手なのか。
何なら人よりうまくできるのか。
何ならできるけれど、本当はやりたくないのか。
何をしている時に周囲から喜ばれ、何をしている時に自分も自然体でいられるのか。
そのくらいは、そろそろ分かってもいいのではないか。
もちろん、これは「50歳を過ぎたら挑戦するな」という意味ではない。
むしろ、50歳を過ぎてからこそ、本気の挑戦が必要になることもある。
ただし、その挑戦は、若い頃のような「何でも自分でやってみる」という挑戦ではない。
人生後半の挑戦は、自分の持ち場を明らかにしたうえで、仲間とともに目的を果たす挑戦であるべきだと思う。
ここで大事になるのが、本来の意味での「諦める」ということである。
諦めるとは、途中で投げ出すことではない。
諦めるとは、明らかに認めることである。
自分が万能ではないことを、明らかに認める。
自分には向いていない分野があることを、明らかに認める。
自分より得意な人がいることを、明らかに認める。
自分一人でやるより、仲間と組んだ方が大きな目的を果たせることを、明らかに認める。
これは敗北ではない。
むしろ、大人の知恵である。
若いうちは、自分の可能性を広げるために、何でもやってみる時期があっていい。
しかし、50歳を過ぎたら、可能性を広げ続けるだけではなく、可能性を束ねる段階に入る。
自分が担うべきこと。
人に任せるべきこと。
仲間の力を借りるべきこと。
自分が前に出るべき場面。
自分が一歩引くべき場面。
これらを見極めることが必要になる。
「自分でやった方が早い」
「人に任せるくらいなら、自分で抱えた方が確実」
「説明するのが面倒だから、自分でやってしまう」
こういう人は少なくない。
特に仕事ができる人ほど、この罠にはまりやすい。
実際、自分でやれば早いことは多い。
自分でやれば思い通りになることも多い。
人に任せれば、失敗されるかもしれない。
時間がかかるかもしれない。
自分の基準に届かないかもしれない。
しかし、それを続けている限り、物事は自分の器以上には広がらない。
会社も同じである。
社長が何でもできる会社は、一見強そうに見える。
営業も社長。
商品企画も社長。
採用も社長。
資金繰りも社長。
現場の判断も社長。
お客様対応も社長。
確かに、創業期はそれでよい場合もある。
むしろ、最初は社長が何でもやらなければ、事業は立ち上がらない。
しかし、いつまでもそれを続けていると、会社は社長の限界で止まってしまう。
社長が忙しすぎる。
社員が育たない。
組織に判断力がつかない。
新しいことに取り組む時間がない。
そして、社長が倒れたら会社も止まる。
これは、社長が頑張っていないからではない。
むしろ、頑張りすぎているから起きる問題である。
本当に必要なのは、もっと頑張ることではない。
自分一人で全部やることを諦めることである。
ここでいう諦めるとは、会社を投げ出すことではない。
責任を放棄することでもない。
そうではなく、自分の役割を明らかにし、他人の役割を明らかにし、仲間の力を活かすことである。
自分が苦手なことは、それが得意な人に任せる。
自分がやるより人がやった方がよいことは、思い切って委ねる。
自分は、自分にしかできないことに集中する。
それが、人生後半の「諦める力」ではないかと思う。
孔子の言葉に、
「五十にして天命を知る」
という有名な言葉がある。
十五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
この言葉は、ただ「50歳になれば自然と使命が分かる」という意味ではないように思う。
50年生きてきたなら、自分が何者で、何を担うべきで、何を手放すべきなのか。
そろそろ明らかに認めなさい、という言葉にも聞こえる。
天命とは、自分一人で何でも成し遂げることではない。
自分の持ち場を知ることである。
自分に与えられた役割を知ることである。
そして、自分だけでは果たせない目的に向かって、仲間の力を借りながら歩むことである。
50歳を過ぎてなお、「自分は何でもできる」「まだまだ全部自分でやる」と思っている人は、もしかすると天命を知る前の段階に留まっているのかもしれない。
本当の強さとは、何でも自分でできることではない。
本当の強さとは、自分の限界を明らかに認められることである。
「これは自分より、あの人の方が得意だ」
「ここは自分が口を出さない方がうまくいく」
「この分野は、自分が勉強するより専門家に任せた方がよい」
「自分は全体の方向を示すことに集中しよう」
そう言える人は、弱いのではない。
むしろ、目的を見失っていない人である。
逆に、何でも自分で抱え込む人は、一見責任感が強いように見える。
しかし、目的よりも自分のこだわりを優先している場合もある。
本当に大切なのは、「自分がやること」ではない。
「目的が達成されること」である。
経営でも、人生でも、ここを間違えてはいけない。
たとえば、船で目的地を目指すとする。
船長が舵も取り、帆も張り、機械も見て、料理も作り、掃除もして、見張りもしていたら、どれだけ優秀な船長でも長くは続かない。
船長には船長の役割がある。
航路を決める。
天候を読む。
乗組員の状態を見る。
目的地を見失わない。
いざという時に決断する。
一方で、機械を見る人がいる。
帆を扱う人がいる。
料理を作る人がいる。
見張りをする人がいる。
それぞれが自分の役割を果たすから、船は目的地へ進むことができる。
社長も同じである。
人生も同じである。
自分一人で全部やることが立派なのではない。
それぞれの力を活かし、目的地へ向かうことが大事なのである。
そのためには、自分の得意不得意を明らかに認めなければならない。
できることと、得意なことは違う。
得意なことと、やりたいことも違う。
できるけれど、やりたくないこともある。
やりたいけれど、自分よりうまくできる人がいることもある。
これを認めるには、少し勇気がいる。
なぜなら、人は自分の限界を認めることを、負けのように感じてしまうからだ。
しかし、限界を認めることは負けではない。
限界を認めないまま進むことの方が、むしろ危うい。
自分の限界を認めるから、仲間を探せる。
仲間を探すから、目的が大きくなる。
目的が大きくなるから、一人では見られなかった景色を見ることができる。
そう考えると、諦めるとは、可能性を狭めることではない。
むしろ、可能性を広げることである。
自分一人でやることを諦めるから、仲間の力が入ってくる。
自分が万能であろうとすることを諦めるから、組織が動き出す。
自分の苦手を隠すことを諦めるから、得意な人が力を発揮できる。
自分のこだわりを手放すから、目的達成に近づく。
これはとても前向きな諦めである。
もちろん、何でも人に任せればいいという話ではない。
自分が担うべき責任から逃げてはいけない。
自分が学ぶべきことまで放棄してはいけない。
単なる丸投げは、諦めることではなく、無責任である。
大切なのは、自分の役割を明らかにすることだ。
自分が担うべきことは何か。
自分が決めるべきことは何か。
自分が前に立つべき場面はどこか。
自分が任せるべきことは何か。
誰に任せれば、その人も活き、目的も前に進むのか。
ここを見極めることが、50歳からの知恵である。
若い頃は、プレイヤーとして走ることが多い。
自分の手を動かし、自分の足で稼ぎ、自分の力で結果を出す。
それはそれで大切な時期である。
しかし、50歳を過ぎたら、少しずつ役割が変わってくる。
自分だけが点を取るのではなく、仲間が点を取れる場をつくる。
自分だけが正解を出すのではなく、仲間が考えられる環境をつくる。
自分だけが頑張るのではなく、全体が前に進む仕組みをつくる。
この役割の変化を受け入れられない人は、いつまでも若い頃の成功パターンにしがみついてしまう。
昔は、自分が動けば成果が出た。
昔は、自分が頑張れば何とかなった。
昔は、自分が前に出れば周りがついてきた。
しかし、人生後半では、それだけでは足りない。
必要なのは、自分の力を誇示することではなく、周囲の力を引き出すことである。
自分の正しさを証明することではなく、目的に向かって人をつなぐことである。
自分が一番目立つことではなく、仲間が活きる舞台を整えることである。
これは、まさに「五十にして天命を知る」という言葉に通じる。
天命を知るとは、天から特別な使命が降ってくることではない。
自分の人生を振り返り、自分の強みも弱みも、成功も失敗も、出会いも別れも含めて、
「自分はこのために生きてきたのかもしれない」
と思える方向を見つけることではないか。
そして、その天命は、一人では果たせないことが多い。
大きな目的ほど、一人ではできない。
人を元気にすること。
会社を良くすること。
地域を良くすること。
子供たちの未来を守ること。
社会に新しい価値を残すこと。
こうした目的は、一人の才能だけでは成し遂げられない。
仲間が必要である。
役割分担が必要である。
信頼が必要である。
だからこそ、50歳を過ぎたら、もっと仲間を信じてよいのだと思う。
自分ができないことを、恥じる必要はない。
自分が苦手なことを、隠す必要もない。
むしろ、それを明らかに認めることで、誰かの出番が生まれる。
自分が文章を書くのが得意なら、数字に強い人と組めばいい。
自分が人を巻き込むのが得意なら、細かい管理が得意な人と組めばいい。
自分が未来を語るのが得意なら、現実の実行計画を組める人と組めばいい。
自分が現場感覚に強いなら、仕組み化に強い人と組めばいい。
自分の不得手は、誰かの得意である。
自分の空白は、誰かの出番である。
そう考えると、自分の弱みを認めることは、仲間を活かす入口になる。
すべてを自分で埋めようとするから苦しくなる。
空白があるから、仲間が入れる。
任せる余地があるから、組織が育つ。
頼る勇気があるから、信頼関係が深まる。
50歳からの諦める力とは、この「頼る勇気」でもある。
ただし、頼るとは依存することではない。
依存は、自分の責任を相手に押しつけることである。
頼るとは、目的のために相手の力を尊重することである。
この違いは大きい。
依存する人は、自分が楽をするために人を使う。
頼る人は、目的を達成するために人を活かす。
依存する人は、相手に丸投げする。
頼る人は、相手の役割を尊重し、必要な情報と信頼を渡す。
依存する人は、失敗すると相手を責める。
頼る人は、失敗も含めてチームの学びにする。
50歳を過ぎて必要なのは、後者である。
自分が何を担い、仲間に何を託すのか。
そして、仲間とともに何を成し遂げたいのか。
この問いに向き合うことが、人生後半の本当の仕事なのだと思う。
だから、あえて言いたい。
50歳、まだ諦めないの?
それは、夢を捨てろという意味ではない。
挑戦をやめろという意味でもない。
人生を小さくまとめろという意味でもない。
そうではなく、
自分一人で全部やろうとすることを、そろそろ諦めてもいいのではないか、ということだ。
自分が万能であろうとすることを諦める。
苦手を隠すことを諦める。
人に任せられない自分を諦める。
若い頃と同じ戦い方を続けることを諦める。
自分だけで目的を果たそうとすることを諦める。
その代わりに、自分の天命を知る。
自分の持ち場を知る。
仲間の力を信じる。
それぞれの得意を持ち寄り、目的に向かって進む。
諦めるとは、人生を投げ出すことではない。
諦めるとは、明らかに認めることである。
自分の得意を明らかに認める。
自分の不得手を明らかに認める。
仲間の力を明らかに認める。
一人ではできない目的があることを明らかに認める。
その時、人はようやく、自分一人の人生から、仲間とともに果たす人生へ進んでいける。
50歳とは、終わりに向かう年齢ではない。
天命を知り、仲間とともに本当にやるべきことへ向かう年齢である。
だからこそ、50歳を過ぎたら、もっと前向きに諦めていい。
自分一人で全部やることを諦める。
そして、仲間とともに目的をやり遂げる。
それが、人生後半の本当の挑戦なのだと思う。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役