福岡の経営コンサルタント|笑顔商店

視野検査は、なぜこんなに疲れるのか

——患者が感じた“医療の当たり前”への違和感

僕は、眼科の視野検査が大嫌いである。

理由は単純だ。

長い。
疲れる。
集中力がいる。

正面を見たまま、周辺に小さな光が見えたらボタンを押す。
ただそれだけの検査である。

言葉で説明すれば、とても簡単に聞こえる。

しかし、実際に受けてみると、これが想像以上にしんどい。

最初はまだいい。
「はい、見えたら押せばいいんですね」
くらいの気持ちで始める。

ところが、時間が経つにつれて、だんだん集中力が落ちてくる。

「あれ、いま光ったのか」
「光った気がしただけなのか」
「押すのが遅れたのではないか」
「逆に、見えていないのに押してしまったのではないか」

そんな迷いが、頭の中に出てくる。

そして、検査が進むほど、目も疲れる。
首も肩も疲れる。
気持ちも疲れる。

途中からは、視野を測っているというより、忍耐力を測られているような気分になる。

もちろん、医療には医療の積み重ねがある。
視野検査が重要な検査であることも、頭では分かる。

特に緑内障などは、自覚症状が出にくいと聞く。
視野が少しずつ欠けていっても、本人は気づきにくい。
だから、検査によって異常を見つけることは大切なのだろう。

それは分かる。

しかし、患者として実際に検査を受けてみると、どうしても疑問が湧いてくる。

この検査は、本当に目だけを測っているのだろうか。

光を見る。
目がそれを受け取る。
脳が認識する。
腕に信号が伝わる。
指でボタンを押す。

つまり、この検査には、目だけではなく、脳の認識、集中力、反応速度、疲労、迷いまで混ざっている。

単純に「見えた」「見えなかった」だけではない。

見えたとしても、押すのが遅れることがある。
見えた気がして押してしまうこともある。
集中力が切れて、見えていたはずの光を見逃すこともある。

そう考えると、直感的に思ってしまう。

このやり方で、本当に正確な検査結果が出るのだろうか、と。

さらに厄介なのは、人間の自然な反応である。

小さな光が視界の端に出る。
すると、無意識に目がそちらを追ってしまう。

これは、ある意味では当然だと思う。

人間は、変化に反応するようにできている。
光るもの、動くもの、急に現れたものに目が向く。
それは危険を察知するためにも必要な、本能的な反応ではないだろうか。

ところが、視野検査では、それをしてはいけない。

「中心を見ていてください」
「目を動かさないでください」

そう注意される。

もちろん、検査としては必要なのだと思う。
中心を見ていなければ、周辺の見え方を正しく測れない。
それは理屈としては分かる。

しかし、患者側からすると、これがかなりきつい。

光が出たら、それに気づかなければならない。
でも、その光を見に行ってはいけない。
中心を見たまま、周辺に出た光を感じ取らなければならない。

つまり、自然に反応しようとする身体を、意識で抑え込む必要がある。

これが疲れる。

「目を動かさないようにしよう」
「中心を見続けよう」
「でも、光が見えたら押さなければならない」
「いまのは本当に光だったのか」
「押すべきだったのか」

そんなことを意識し始めると、さらに疲れてくる。
集中力も途切れてくる。

しまいには、検査そのものよりも、
「目を動かさないこと」
に意識を奪われてしまう。

これで本当に、自然な見え方を測れているのだろうか。

そう感じた。

もう一つ、気になることがある。

人間の脳は、見えない部分を補完する。

たとえば、人間の目には盲点がある。
視神経が通る部分には、光を感じる細胞がない。
だから本来、そこは見えていないはずである。

しかし、普段の生活で「視界に穴が空いている」と感じることはない。
なぜなら、脳が周囲の情報から自然に補っているからだ。

見えていないのに、見えているように感じる。
これは特別なことではなく、人間の認識の仕組みそのものなのだと思う。

だとすれば、視野検査でも同じようなことが起きるのではないか。

本当は見えていない。
でも、見えたように感じる。
あるいは、光ったような気がする。

逆に、本当は見えていたのに、疲れていて押せなかった。
集中力が切れていて反応できなかった。

そういうことも、当然あるはずだ。

もちろん、検査機器には信頼性を判断する指標があるのだろう。
固視不良、偽陽性、偽陰性など、医師はそれらも見て判断しているはずである。

だから、今の視野検査を完全に否定したいわけではない。

ただ、患者としてはこう思う。

これだけAIやセンサー技術が進んだ時代に、
「見えたらボタンを押してください」
という方法が、まだ標準なのか、と。

もちろん、医療機器は簡単には変えられない。
安全性、正確性、再現性、過去データとの比較。
いろいろな事情があることは分かる。

それでも、患者側の負担はもう少し減らせないのだろうか。

たとえば、ゴーグル型の検査である。

ゴーグルを装着する。
画面内に光や点が現れる。
センサーで目の動きを追う。
瞳孔の反応を見る。
まばたきや視線のズレも記録する。
AIがそれらを分析する。

もし、こうした仕組みで短時間に測れるなら、患者はかなり楽になると思う。

もちろん、目の動きだけで「見えた」と断定するのは難しい。

見えていなくても、予測で目が動くことはある。
見えていても、目を動かさないこともある。
脳が補完して、見えたように感じることもある。

だから、ゴーグル型にすればすべて解決する、とは思わない。

結局、最後は医師の判断が必要になる。

OCTで視神経や網膜の状態を見る。
眼圧を見る。
眼底写真を見る。
視野検査の結果を見る。
過去の検査結果と比較する。
そして、総合的に判断する。

この構造は、おそらく変わらない。

しかし、それならなおさら思う。

最後に医師の判断が必要なのは変わらない。
検査に限界があるのも変わらない。
完全に客観化できないのも変わらない。

だったら、同じように医師の総合判断が必要なのであれば、患者が少しでも楽な方法に進化してほしい。

これは、わがままなのだろうか。

僕は、そうは思わない。

なぜなら、患者が疲れることは、単なる不快感の問題ではないからだ。

疲れる。
集中力が落ちる。
押し間違える。
見逃す。
迷う。
後半の精度が落ちる。

つまり、患者の負担は、検査結果そのものにも影響する可能性がある。

患者が楽になることは、医療の質を下げることではない。
むしろ、検査データの安定性を高める可能性がある。

この体験を通して、僕が一番強く感じたのは、
「患者は、検査を受ける側でありながら、検査の仕組みにかなり協力させられている」
ということだった。

正しく中心を見続ける。
光を見に行かない。
見えたかどうかを瞬時に判断する。
迷っても、ボタンを押すか押さないかを決める。
最後まで集中力を保つ。

これらは、検査を成立させるために、患者側へ求められている努力である。

もちろん、それが必要な検査であることは理解している。

しかし、患者に多くの努力を求める検査ほど、その努力の質によって結果が揺れやすくなるのではないか。

だとすれば、これからの医療機器は、
「患者が頑張ること」を前提にするのではなく、
「患者が頑張らなくても、安定したデータが取れること」
を目指すべきではないだろうか。

ここは、もっと真剣に考えられていいのではないかと思う。

医療は、正確であることが大切だ。
それは当然である。

しかし、これからの医療は、正確性だけではなく、患者の負担も含めて設計されるべきではないだろうか。

患者が我慢することを前提にした検査。
患者が疲れることを当然とする検査。
患者が分かりにくさに耐えることを前提にした医療。

そういうものは、少しずつ変わっていってほしい。

これは眼科に限った話ではない。

世の中には、昔から続いているからという理由で、そのまま残っている仕組みがたくさんある。

検査もそう。
手続きもそう。
仕事のやり方もそう。
教育もそう。
行政もそう。
会社経営もそう。

一度「当たり前」になったものは、なかなか疑われない。

やっている側は、それが普通だと思っている。
受ける側は、我慢するものだと思っている。

しかし、実際に体験した人間の違和感には、意外と本質がある。

「これ、なんかおかしくないか」
「もっと楽な方法はないのか」
「今の技術なら、別のやり方があるのではないか」

そういう患者目線、利用者目線、現場目線の違和感から、改善は始まるのだと思う。

もちろん、専門家から見れば、僕の疑問は素人考えかもしれない。

しかし、素人だからこそ感じる違和感もある。
患者だからこそ分かるつらさもある。
実際に検査を受ける側だからこそ見える問題もある。

僕は、医療を否定したいわけではない。
医師を批判したいわけでもない。
視野検査そのものが不要だと言いたいわけでもない。

むしろ、大切な検査だからこそ、もっと進化してほしいと思っている。

AIがある。
センサーがある。
アイトラッキングがある。
画像解析がある。
OCTもある。
データを統合して判断する技術も進んでいる。

であれば、これからの視野検査は、もっと患者にやさしくなれるはずだ。

完全に機械が判断する必要はない。
最後は医師が判断すればいい。

ただし、その判断材料を集める方法は、もっと楽であっていい。
もっと短時間であっていい。
もっと自然であっていい。
もっと患者の負担を減らす形であっていい。

医療の進化とは、単に高度な治療ができるようになることだけではないと思う。

患者が不安にならないこと。
患者が疲れすぎないこと。
患者が納得できること。
患者が自分の状態を理解できること。
そして、患者が「この検査なら受けてもいい」と思えること。

それもまた、立派な医療の進化ではないだろうか。

僕は、視野検査が大嫌いだ。

でも、その嫌いという感情の中には、ただの不満だけではなく、未来への期待もある。

いつか、眼科でこう言われる日が来てほしい。

「今日はゴーグルをつけて、短時間で測ります」
「目の動きや瞳孔反応も見ながら、AIで解析します」
「結果は先生が総合的に判断しますので、できるだけ自然に見ていてください」

そんな検査なら、どれだけ楽だろう。

患者が苦痛に耐える医療から、患者の負担を減らす医療へ。

視野検査ひとつを取っても、まだまだ変えられる余地はある。

そして、その変化のきっかけは、案外、患者の素朴な一言なのかもしれない。

「この検査、長いし疲れる。
本当に、今の時代にこのやり方しかないのですか」

そういう違和感を、黙って飲み込まないこと。

そこから、患者にやさしい医療の未来は始まるのだと思う。

お問い合わせ

お問い合わせはこちら

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役