〜仕事へ向かう道中で出会った、紫の気品〜
先日、柳川市のクライアント先へ向かう途中のことだった。
ナビの案内に従って車を走らせていると、藤の花で有名な場所の近くを通ることになった。
最初から「今日は藤を見に行こう」と決めていたわけではない。
あくまで仕事の移動中である。
ところが、その近くを通ったとき、周囲にも藤の花が咲いていることに気づいた。
春の光の中で、紫の花が静かに揺れている。
その色はとても鮮やかだった。
けれど、派手すぎない。
華やかなのに、落ち着いている。
目を引くのに、押しつけがましくない。
「ああ、きれいだな」
素直にそう思った。
藤の花には、独特の気品がある。
桜の淡いピンクには、はじまりや儚さを感じる。
梅には、寒さを越えて咲く強さを感じる。
椿には、凛とした存在感がある。
では、藤は何だろうか。
私には、藤の紫に高尚さ、奥ゆかしさ、静かな品格のようなものを感じた。
紫という色は、昔から高貴な色とされてきた。
どこか精神性を感じる色でもある。
ただ美しいだけではなく、人の心を少し上に引き上げるような力がある。
だからだろうか。
藤の花を見ていると、ただ「きれいだな」で終わらない。
何かを教えられているような気持ちになる。
しかも藤は、上に向かって咲く花ではない。
枝から垂れ下がるように咲く。
この姿がまたいい。
華やかに咲いているのに、威張っていない。
鮮やかに存在を示しているのに、誇示していない。
まるで静かに頭を垂れているようである。
その姿を見て、ふと思い出した言葉がある。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。
本当に中身のある人ほど、偉そうにしない。
実績がある人ほど、威張らない。
器の大きな人ほど、相手に敬意を払う。
藤の花も、まさにそのように見えた。
あれほど美しく、気品ある紫の花を咲かせながら、上へ上へと自分を大きく見せようとはしない。
静かに垂れ下がり、人を迎え入れるように咲いている。
そこに、なんとも言えない奥ゆかしさがある。
本当に品のある人や会社も、きっと同じなのだと思う。
声高に自分のすごさを主張しなくても、積み重ねてきたものが自然とにじみ出る。
押しつけられた魅力ではなく、にじみ出る魅力。
誇示された実力ではなく、静かに伝わる実力。
藤の花の美しさには、そういう静かな強さがある。
柳川市の藤で有名な場所といえば、中山の大藤が知られている。
樹齢300年以上ともいわれ、長い年月、地域の方々によって大切に守られてきた藤である。
300年という時間は、想像以上に長い。
人の一生をはるかに超える。
時代も変わる。
暮らしも変わる。
価値観も変わる。
それでも、その藤はそこにあり続けた。
もちろん、ただ放っておいて300年生きてきたわけではないだろう。
藤はつる性の植物である。
美しく咲かせるためには、棚が必要であり、剪定が必要であり、日々の手入れが必要である。
台風もあっただろう。
病気もあったかもしれない。
枯れそうになったこともあったかもしれない。
それでも残ってきた。
ということは、そこには必ず、人の手があったということである。
守る人がいた。
手入れをする人がいた。
次の世代に残そうとする人がいた。
地域の宝として、大切に受け継いできた人たちがいた。
そう考えると、あの紫の花は、ただの花ではない。
300年の時間が花になっている。
地域の人たちの思いが花になっている。
守り継ぐという営みが花になっている。
だから、人の心を打つのだと思う。
仕事でクライアント先へ向かう途中、ナビの案内に従っていたら、まるで導かれるように藤の名所の近くを通ることになった。
周囲にも藤の花が咲いていて、その紫の美しさに心を奪われた。
それだけで十分だった。
人は、意図して何かを見に行くこともある。
有名な場所に行き、写真を撮り、情報として記録する。
それももちろん楽しい。
しかし、ときどき、こちらが選んだというより、向こうから出会いに来てくれたように感じる景色がある。
今回の藤は、私にとってそんな感じだった。
仕事へ向かう途中だった。
ナビの案内で通った道だった。
しかし、その道の先に、紫の藤が咲いていた。
あとで知ったが、藤の花言葉には「歓迎」という意味があるという。
それを知ったとき、少し驚いた。
もしかすると、私は本当に藤の花に歓迎されたのかもしれない。
もちろん、そんなことを理屈で証明することはできない。
「たまたま」と言えば、たまたま。
「偶然」と言えば、偶然。
「ナビの案内だった」と言えば、それまでである。
しかし、その偶然に意味を見出すことで、人は少し豊かになれる。
私は、その日、藤の花にこう言われたような気がした。
自分の色で咲いていい。
ただし、品よく、謙虚に咲きなさい。
そう考えたとき、自分自身のことにもつながってきた。
私は九星気学でいうと、九紫火星である。
九紫火星の「紫」。
そして、今回出会った藤の「紫」。
これもまた、偶然といえば偶然である。
しかし、何か縁のようなものを感じる。
九紫火星には、火、光、美、直感、表現、知性、精神性、名誉といった象意があるとされる。
火は暗闇を照らす。
光は人の目に触れる。
美は人の心を動かす。
表現は内側にあるものを外へ出す。
つまり、九紫火星には「目立つ」「照らす」「表現する」という性質がある。
しかし、目立つことは、時に難しい。
人前に出ることに抵抗がある人もいる。
自分の光を出すことを、どこか恐れてしまう人もいる。
本当は目立つ役割を持っているのに、目立たないように生きてしまう人もいる。
しかし、本来持っているものを抑え続けると、運は滞る。
自分の役割を生きていないからである。
花は、自分の色で咲くしかない。
桜は桜として咲く。
梅は梅として咲く。
藤は藤として咲く。
藤が桜になろうとしても無理である。
桜が藤のように垂れ下がって咲こうとしても、それは違う。
それぞれに、咲き方がある。
人も同じである。
自分に与えられた色がある。
自分に与えられた性質がある。
自分に与えられた役割がある。
九紫火星であるなら、やはりどこかで光を放つ役割があるのかもしれない。
美しいものを伝える。
人の心を照らす。
見えない価値を言葉にする。
混沌としたものに光を当てる。
ただし、そこで大切なのは、藤のような品格である。
目立つことと、威張ることは違う。
華やかであることと、軽薄であることは違う。
自分を表現することと、自分を誇示することは違う。
藤は、その違いを教えてくれる。
藤は鮮やかに咲いている。
決して地味ではない。
むしろ、見事なほどに人の目を引く。
しかし、その姿には気品がある。
静けさがある。
奥ゆかしさがある。
だから、人は藤の前で立ち止まる。
強く主張されているわけではない。
売り込まれているわけでもない。
それなのに、人は惹きつけられる。
これは、経営にも通じる話かもしれない。
本当に長く愛される会社は、ただ目立てばいいわけではない。
派手な広告を打てばいいわけでもない。
大きな声で自社の強みを叫べばいいわけでもない。
もちろん、伝えることは大切である。
良いものを持っていても、伝わらなければ存在しないのと同じである。
しかし、伝え方には品格が必要である。
売り込みすぎると、人は離れる。
自慢が過ぎると、信用を失う。
実力以上に大きく見せようとすると、どこかで無理が出る。
一方で、積み重ねてきたものがあり、丁寧に守ってきたものがあり、そこに誠実な思いがある会社は、自然と人を惹きつける。
まるで、藤の花のように。
300年守られてきた藤は、一年だけ派手に咲いて終わりではない。
毎年、季節が来るたびに咲く。
地域の人がそれを楽しみにする。
訪れる人が足を止める。
また来たいと思う。
これは、短期的な流行とは違う。
長く続くものには、必ず理由がある。
そこには、手入れがある。
守る人がいる。
受け継ぐ人がいる。
そして、その価値を感じ取る人がいる。
藤の花は、目に見える花の美しさと、目に見えない時間の蓄積が重なっている。
だから、美しい。
人も、会社も、人生も、同じではないだろうか。
表に見える成果だけではなく、その裏にある日々の積み重ね。
見える売上だけではなく、見えない信頼。
見える肩書きだけではなく、見えない在り方。
見える華やかさだけではなく、見えない謙虚さ。
それらが重なったとき、本当の品格になる。
今回、藤の花を見て感じたのは、まさにそのことだった。
紫の鮮やかさ。
垂れ下がる花房。
300年という時間。
花言葉の「歓迎」。
九紫火星としての自分との不思議な縁。
それらが一つにつながったとき、私はただ花を見たのではなく、何かを受け取ったような気がした。
人生には、ときどき自然が先生になる瞬間がある。
本を読んで学ぶこともある。
人の話を聞いて気づくこともある。
仕事の経験から学ぶこともある。
しかし、花や木や風景から教えられることもある。
今回の藤は、まさにそうだった。
柳川市のクライアント先へ向かう途中。
ナビの案内でたまたま通った道。
その道中で出会った藤の花。
紫の気品をまとい、静かに頭を垂れる花。
300年という時間を超えて、今も人を迎え入れる花。
もしかすると、本当に歓迎されていたのかもしれない。
そう思うと、あの日見た藤の紫が、より一層深く心に残る。
花は何も語らない。
けれど、語らないからこそ、こちらの心に静かに届くものがある。
藤の花に歓迎された日。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役