序章:約束の海へ
ついに、実現した。
長年の夢だった、世界最大のサンゴ礁地帯「グレートバリアリーフ」でのスキューバダイビング。
飛行機の窓から見下ろした時から、その海は別格の青さを湛えていた。だが、海面の上から見る景色と、その懐に抱かれる体験は全くの別物だ。僕は今、オーストラリア・ケアンズの港に立ち、高鳴る鼓動を抑えながら、その「聖域」へと向かう船に乗り込んだ。
ケアンズから船を走らせること約90分。 目指すは、外洋に位置する「ムーア・リーフ」と「フリン・リーフ」。
エンジン音が止まり、静寂が訪れる。船上から覗き込む海面は、太陽の光を浴びて宝石のように煌めいていた。この下に、宇宙からも見えるという唯一の生命体、グレートバリアリーフの森が広がっているのだ。
機材を背負い、レギュレーターを咥える。一歩前に踏み出し、青の世界へとエントリーする。その瞬間、僕は重力という地球の鎖から解き放たれ、ただの「個」として海に溶け込んだ。
第1章:生命の万華鏡、サンゴの森
今回はムーア・リーフで2本、フリン・リーフで1本、計3本のダイビングを行った。
潜行を開始してすぐに、圧倒的な光景が目に飛び込んでくる。それはまさに「サンゴの森」だった。枝状、テーブル状、キャベツ状……ありとあらゆる形をしたサンゴが、視界の限りに広がっている。その色彩の豊かさは、地上のどんな花畑よりも鮮烈で、生命力に満ち溢れていた。
そこで繰り広げられていたのは、生命の祝祭だ。
まず目を奪われたのは、硬い岩のような甲羅を持つウミガメ、「タイマイ」の食事風景だった。彼らはサンゴの隙間にあるカイメンなどを、その嘴のような口で器用に啄んでいる。僕が近づいても逃げる様子もなく、ただ淡々と、生きるための営みを続けている。「バリッ、ボリッ」という音が聞こえてきそうなほどの迫力だ。
視線を上げれば、鮮やかな黄色に青いラインが入ったフエダイ(スナッパー)の群れが、まるで金色の川のように流れていく。彼らの一糸乱れぬ動きは、巨大な一つの生き物のようにも見えた。
そして、サンゴの森の主役たち。イソギンチャクの触手の間からは、あの「ニモ」のモデルとなったクラウンアネモネフィッシュが顔を覗かせる。オレンジと白のコントラストが、青い海の中で愛らしく映える。さらに、このグレートバリアリーフ固有種であるカクレクマノミの仲間たちも、それぞれのテリトリーを守るように泳いでいた。
優雅に中層を泳ぐアオウミガメとも遭遇した。手足を翼のように広げ、水流に乗って滑空するその姿は、海中の鳥そのものだ。時折こちらを一瞥するその瞳には、太古の昔から受け継がれてきた海神の知恵が宿っているように見えた。
圧巻だったのは、巨大なナポレオンフィッシュ(メガネモチノウオ)だ。その独特なコブと分厚い唇、そして鮮やかな緑や青の幾何学模様。彼らは「海の王」のような貫禄で、悠然と僕の目の前を通り過ぎていった。岩のように静かに鎮座する巨大なシャコガイの姿も、この海が育んできた時間の長さを物語っているようだった。
第2章:沖縄とグレートバリアリーフ、それぞれの「青」
僕はこれまで、沖縄の海にも何度も潜ってきた。 正直に言えば、水の「透明度」だけで語るなら、沖縄の離島、特に慶良間諸島や宮古島の「ケラマブルー」「ミヤコブルー」の方が勝るかもしれない。あの突き抜けるようなクリアな青は、世界でもトップクラスだ。
しかし、グレートバリアリーフには、透明度という物差しでは測れない「ダイナミックさ」がある。 サンゴの密度、種類の多さ、そしてそこに息づく魚影の濃さ。それは「きれい」という言葉よりも「凄み」という言葉が似合う。生命のエネルギーが飽和し、爆発しているような感覚だ。沖縄が「癒やしの海」だとするならば、グレートバリアリーフは「生命の海」だ。地球という惑星が生きていることを、肌で、視覚で、全身で感じさせられる圧倒的なスケール感。それは確かに、他とは比べ物にならない体験だった。
第3章:魚たちの幸福論
美しいサンゴの周りを回遊しながら、ふと、ある想念が頭をよぎった。
目の前で忙しなく泳ぐ小さなスズメダイたち。彼らは生まれてから死ぬまで、おそらくこの一つのサンゴの根から離れることなく一生を終えるのだろう。彼らにとって、この半径数メートルの世界が「宇宙」のすべてだ。
一方で、大海原を数千キロも旅する回遊魚もいる。あるいは、突然の嵐やサイクロンによってサンゴが破壊され、住処を追われ、見知らぬ海域へと環境を変えざるを得なくなる魚もいるだろう。
一生を同じ場所で平穏に過ごす魚と、荒波に揉まれながら環境を変えていく魚。 果たして、どちらが幸せなのだろうか?
この問いは、そのまま僕たち人間にも当てはまる。
生まれた土地で育ち、そのコミュニティの中で一生を終える人。海を見たことすらない人。 一方で、バックパック一つで世界中を旅し、多様な文化に触れる人。 あるいは、地震や津波、火災、戦争といった不可抗力によって、愛する故郷を追われ、まったく新しい環境での生活を余儀なくされる人。
「何も知らない方が幸せだ」という言葉がある。「井の中の蛙」は、大海の荒波を知らないからこそ、平穏でいられるのだと。情報の洪水を遮断し、狭い世界で生きるこそが至上の幸福だと説く人もいる。
だが、僕はそうは思わない。
海の中で、煌めく魚たちを見つめながら、僕は強く確信していた。 「知ること」「動くこと」こそが、生命の輝きを増すのだと。
第4章:移動距離と幸福度の相関関係
最近目にしたある研究データを思い出す。 「人間の幸福度は、移動距離に比例する」という説だ。 日々同じルート、同じ景色、同じ人間関係の中で生きるよりも、遠くへ行き、見たことのない景色に出会い、多様な価値観に触れる人の方が、脳が活性化し、主観的な幸福感が高いという。
物理的な距離だけではない。心の移動距離もまた、幸福の尺度だ。
確かに、環境を変えることは怖い。未知の世界へ飛び込むことはストレスを伴う。嵐に遭うかもしれないし、外敵に襲われるかもしれない。サンゴの陰に隠れていた方が、生存確率は高いかもしれない。
それでも、旅に出る。 なぜなら、旅とは単なる観光や娯楽ではないからだ。
旅とは、「自分の光」を見つけるための行為だ。
見知らぬ土地の空気を吸い、異文化の洗礼を受け、圧倒的な大自然の前に立ち尽くすとき、僕たちは普段まとっている「肩書き」や「役割」という殻を脱ぎ捨てることになる。裸の魂になったとき、初めて見えてくるものがある。自分が何に感動し、何に畏れ、何を美しいと感じるのか。
その「気づき」こそが、自分の内側にある光だ。 外の世界を知れば知るほど、逆説的に、僕たちは自分の内面を深く知ることになる。人生とは、自分探しの旅そのものなのだ。
第5章:海中で見つけた答え
レギュレーターから吐き出された泡が、銀色のカーテンとなって海面へと昇っていく。 「ボコボコ……」という呼吸音だけが響く静寂の世界。
この海の中を見る感動は、何物にも代えがたい。 地上にはない無重力感。青一色に染まる視界。言葉を交わせないもどかしさと、だからこそ研ぎ澄まされる感覚。
一度この世界を知ってしまったら、もう後戻りはできない。 まるで禁断の果実を口にしたかのように、あるいは強力な引力に魂を引かれるように、またこの青に戻ってきたいと願ってしまう。これを「病みつき」と言うのなら、僕は喜んでその病に冒されよう。
そして、水深15メートルの海底で、僕は自分自身に問いかける。
「僕は今、海の中まで来て、何を探しているのだろう?」
珍しい魚を見たいから? 美しいサンゴを見たいから? もちろんそれもある。だが、それだけではない気がする。
僕は、海という巨大な「非日常」に身を置くことで、輪郭が曖昧になった「自分」という存在を確かめに来ているのではないだろうか。 陸上でのしがらみや、社会的な評価から切り離された、ただの生命体としての自分。 魚たちと同じように、ただ「今、ここ」に生きている自分。
グレートバリアリーフの圧倒的な生命の奔流の中で、僕はちっぽけな存在だ。しかし、そのちっぽけな自分が、この巨大な生態系の一部であるという事実に、震えるほどの感動を覚える。
終章:終わりなき旅路
船がケアンズの港に戻る頃、西の空は茜色に染まっていた。 心地よい疲労感と共に、僕の心は満たされていた。
あのサンゴの森で見た魚たちは、今頃どうしているだろうか。 夜の海で眠りについているのだろうか。それとも、まだ見ぬ獲物を追っているのだろうか。
彼らが嵐を乗り越え、環境の変化に適応して生き抜くように、僕もまた、人生という大海原を泳ぎ続けていく。 定住することの安らぎよりも、移動することの刺激と発見を選びながら。
海の中までも自分探しをしているのか、と問われれば、答えは「イエス」だ。 場所がどこであれ、深海であれ、高山であれ、僕が移動し続ける限り、その先々で新しい自分に出会えるのだから。
グレートバリアリーフ。 この美しい「青」の記憶は、僕の人生という旅路において、ひときわ強く輝く道標となった。
次にまた海に潜るとき、僕はどんな自分に出会えるだろうか。 旅は、まだ終わらない。いや、終わることなどないのだ。
(著者より) もし、あなたが一歩踏み出すことを躊躇っているなら、思い出してほしい。 魚たちも、人間も、環境を変えることでしか見えない景色があることを。 あなたの「光」を見つける旅が、素晴らしいものになりますように。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役