福岡の経営コンサルタント|笑顔商店

桜に負けていないか

「気が違う人を真似するな」という教えの本質

今年も桜が咲く季節がやってきた。
ネットを開けば、桜ニュースならぬ、いま何分咲きか、いつ頃満開になるのか、花見に行くならどこがよいのか、そんな情報がたくさん出てくる。

そして人は、会えば自然と桜の話をする。
今年は遅いね。
もうすぐ咲きそうだね。
花見には行った?
来週は雨が降るみたいだから、散ってしまうかもしれないね。

誰かにそうしようと決められているわけでもないのに、桜は自然と会話の中に入ってくる。普段は仕事の話をしている人も、家庭の話をしている人も、この時期になると不思議なくらい桜を介して言葉を交わす。

それだけ桜は、人を惹きつける存在なのだと思う。

ただ綺麗な花なら他にもある。バラもあるし、ひまわりもある。それでも桜だけは、ここまで人の関心を集め、会話のきっかけにまでなる。なぜなのだろうかと考えると、桜は単なる花ではなく、時間そのものを感じさせる存在だからではないかと思う。

つぼみが膨らみ、咲き始め、満開になり、そして散っていく。その一連の流れを、誰もが短い期間の中で体験できる。しかも満開の時期は本当に短い。だから人は「今見なければ」と思う。さらに桜は、散り際が美しい。終わりであるはずの瞬間に、かえって人の心を強く掴む。だからこそ人は、咲き始めだけでなく、満開も、散り始めも、散り際までも気にするのだと思う。

昔、師匠からこう言われたことがある。

「お前たちは桜に負けていないか?」
「桜以上に人を魅了することができているか?」

当時の私は、その意味がよくわからなかった。花と自分を比べるという発想自体がなかったからだ。ただ、年齢を重ねたいま振り返ると、あれはずいぶん厳しく、そして本質を突いた問いだったのだと思う。

桜は何もしていない。
営業もしない。
宣伝もしない。
無理に自分を大きく見せようともしない。

ただ、桜として咲いているだけだ。

それでも人が集まる。人が見に行く。人が話題にする。人が時間をつくる。これ以上の影響力があるだろうか。そう考えると、師匠の問いの意味が少しずつ見えてくる。

師匠はさらにこう言っていた。

「人に影響力を与える人間になりなさい」
「自分が生まれながらにもっている気質を、正しく活かしなさい」

さらに印象的だったのが、次の言葉だ。

「真似をするならば、自分と同じ気質の人を真似よ」
「気が違う人の真似をするな」
「それが本当の意味での“気違い”だ」

もちろん、ここでいう“気違い”は、いわゆるクレージーという意味ではない。自分の気の流れ、自分の本質、自分の気質と違う方向へ無理に自分を曲げるな、という意味だったのだと思う。

若い頃の私は、この言葉の重みを本当の意味では理解していなかった。人は成長するために、優れた人を真似るものだと思っていたからだ。成功している人のやり方を学び、その型を取り入れれば、自分も成長できる。実際、それは半分正しい。学びは真似ることから始まる。型を知ること、基本を知ること、再現してみることは、とても大切だ。

ただ、問題は誰を真似るかなのである。

人はつい、結果だけを見て真似る相手を選ぶ。話が上手い人、営業が強い人、目立つ人、存在感がある人、カリスマのある人。だが、その人がその人として輝いているのは、その人のやり方が優れているからだけではない。そのやり方が、その人の気質と一致しているからだ。

ここを間違えると、人は苦しくなる。

私は、このことを自分自身の体験として知ることになった。

私はもともと、目立つ気質を持っているのだと思う。人前に立つこと、何かの中心にいること、存在が自然と人の目に入ること、そういうところにエネルギーが乗るタイプなのだと思う。

けれど、子どもの頃の私は、それが嫌で仕方なかった。

目立つと浮く。
目立つと何か言われる。
目立つと叩かれるかもしれない。
目立つと面倒なことが増える。

そんな感覚がどこかにあったのだと思う。だから私は、できるだけ目立たないようにしていた。前に出ないようにしていた。なるべく周囲に溶け込もうとしていた。空気を読んで、自分を消す方向にエネルギーを使っていた。

いま振り返ると、その頃の自分はとても運が悪かったと思う。

もちろん、何か大きな不幸が続いたという話ではない。けれど、なぜか噛み合わない。なぜか流れに乗れない。なぜかチャンスが来ない。大きく失敗しているわけではないのに、なぜかうまくいかない。そんな感覚がいつもあった。

当時の私は、それを単純に「自分は運が悪いのだ」と思っていた。

しかし今ならわかる。それは運が悪かったのではなく、自分の気質を使っていなかっただけなのだ。

目立つ気質を持っているのに、目立たないようにしていた。自分のエネルギーが出る方向を、自分で塞いでいた。その状態で、流れが良くなるはずがない。自分に合った場所にも立たないし、自分に合った役割も引き受けないのだから、運が開けるわけがないのである。

その後いろいろな経験をする中で、私は少しずつ「目立つことは当たり前」と思うようになった。無理やり変えたわけではない。ただ、自分はそういう気質なのだと認めるようになっただけだ。

すると、不思議なほど流れが変わった。

人に見つけてもらえるようになった。
声がかかるようになった。
自然と前に出る役割が増えた。
物事のつながりが良くなった。

いわゆる「運が良くなった」と感じる状態になったのである。

ここで私はひとつのことに気づいた。
運とは、ただの偶然ではなく、気質の使い方の結果でもあるのではないか、ということだ。

自分の気質を抑えていると、本来出るはずのエネルギーが出ない。自分に合った位置にも立たない。役割も果たさない。だから流れに乗れない。逆に、自分の気質を受け入れて正しく使うと、本来の場所に立ち、本来の役割を果たすようになる。すると人や機会や流れが自然につながっていく。それを人は「運が良い」と感じるのではないだろうか。

この視点で師匠の言葉を考えると、「気が違う人の真似をするな」という教えの意味が、ずいぶん現実的に見えてくる。

自分と違う気質の人を真似ると、最初はうまくいくこともある。努力をすれば、ある程度までは形になる。評価もされるだろう。周囲から「すごいですね」と言われることもあるかもしれない。だが、それが自分の本質とずれている場合、どこかで無理が出る。

疲れる。
続かない。
再現性がない。
表面だけになる。
あるいは、うまくいっているように見えても、心のどこかが満たされない。

なぜそうなるのか。
それは、エネルギーの源が外側にあるからだ。

認められたい。
評価されたい。
嫌われたくない。
期待に応えたい。

そうした外側の圧力で頑張っているものは、あるところで燃料が切れる。

しかも厄介なのは、後天的に身につけた能力ほど、一見うまくいっているように見えることだ。だから本人も周囲も、それが本当にその人の才なのか、それとも無理をして身につけた技術なのか、見分けにくい。

だが、レベルの高い世界に行くと、その差ははっきりと表れる。

そこでは、誰もが努力している。
そのうえで、自分の本質と一致した武器を持っている人が強い。

だから、無理して身につけた能力だけで勝負してきた人は、どこかで頭打ちになる。今までだって十分に頑張ってきたのに、さらにその先を求められたとき、もうこれ以上は無理だと感じる。茫然とする。自分はここまでなのかもしれない、と思ってしまう。

一方で、自分の気質に根ざした人は違う。苦労がないわけではない。努力しなくていいわけでもない。だが、深めるほどに面白くなり、上に行くほどに燃えてくる。もっとやりたい、もっと磨きたい、もっと深く知りたい、そういう感覚が自然に出てくる。

これが、天賦の才能の強さなのだと思う。

天賦の才能というと、最初からわかりやすく優れているもののように思われがちだ。だが実際には、最初は欠点に見えることも多い。静かすぎる、理屈っぽい、繊細すぎる、マイペースすぎる、目立ちすぎる。そうしたものは、社会の中では「直した方がいいもの」として扱われることがある。

だが、そこにこそ、その人の才が眠っている場合がある。

私で言えば、「目立つ」という気質は、子どもの頃の私には欠点に見えていた。だから抑え込もうとした。けれど、それを受け入れて使うようになったとき、流れは変わった。

桜も同じなのかもしれない。

桜がもし、自分は目立たない方がいいと思っていたらどうだろうか。ひっそりと咲いて、なるべく人目につかないようにしていたらどうだろうか。きっと、あれほど人を魅了する存在にはならなかっただろう。

桜は桜として咲いている。
ただ、それだけで人を惹きつける。

影響力とは、多くの人に知られることでもなければ、派手に見せることでもない。その人でしか出せないものを、その人らしい形で出しているかどうか、そこにあるのだと思う。

だから最後に、もう一度問いを置きたい。

あなたはいま、誰を真似しているだろうか。
その人は、本当にあなたと同じ気質の人だろうか。
そしてあなたは、自分の気質を正しく使えているだろうか。

今年も桜が咲く季節がやってきた。
そして桜は、何も言わずに、ただ自分として咲いている。

人を魅了するとは、案外そういうことなのかもしれない。
他の誰かになろうとすることではなく、自分の気質を受け入れ、それを正しく使い、自分として咲くこと。 桜に負けていないか。
この問いは、いまの私には、以前よりずっと重く響く。

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髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役