序章:旅の始まりは最高の仲間と共に
山口県、萩。これまで3、4回は訪れたことがある、私にとっては馴染みのある場所だ。しかし、先日朋友たちと訪れた1泊2日の旅は、これまでのどの訪問とも比較にならないほど、深く、濃密な時間となった。旅を終えた今、つくづく感じるのは「誰と行くか」で旅の質は劇的に変わるということだ。
今回の旅は、単なる観光ではなかった。幕末から昭和にかけて日本の近代化を牽引した巨人たちの息吹を、肌で感じる「研修」と呼ぶにふさわしいものだった。吉田松陰が自らの足で世界を見ようとしたように、我々もまた、自らの足でその地を訪れ、その空気を感じ、そこに生きる人々の声に耳を傾けた。
現代は、指先一つで瞬時に情報が手に入るネット社会だ。それは計り知れないほど便利である一方、フェイクニュースや偏った情報が溢れ、真実を見極めるためにかえって多大なコストを要する時代でもある。そんな時代だからこそ、現地に赴き、現物を見て、そこに住む人から直接話を聞く「一次情報」の価値は、計り知れないほど大きい。今回の旅では、まさにその価値を全身で享受することができた。朋友たちが繋いでくれた素晴らしいご縁に、まずは心からの感謝を捧げたい。
第一章:日産創業者・鮎川義介翁の原点(山口市)
旅の始まりは、日産コンツェルンの創始者である鮎川義介翁の生誕地からだった。山口市大内村、そこは日本の産業史に巨大な足跡を残した人物が産声を上げた場所だ。
驚いたことに、生誕の碑は静かな住宅地の中、一軒の民家の敷地内にひっそりと建っていた。我々が訪れると、その家にお住まいの91歳になられるというご婦人が出てこられ、にこやかに鮎川義介翁について説明をしてくださった。印刷された資料を読むだけでは決して得られない、温かみのある「生きた言葉」。この予期せぬ出会いこそ、旅の醍醐味であり、現地を訪れることの価値を象徴していた。
この山口という土地から、日本の産業を創る鮎川義介と、近代国家の礎を築いた大叔父・井上馨という、二人の巨人が生まれたという事実に、歴史の不思議な縁を感じずにはいられなかった。
鮎川義介は、明治の元勲・井上馨という強力な後ろ盾がありながら、その力に頼ることを潔しとしなかった。井上馨から「うちの家系は政治家が多いから、お前は実業家になれ」と言われその道に進むが、彼の信念は常に「現場」にあった。多くの金持ちの姿を見ても「自分は決して金持ちになるまい」と誓い、東京帝国大学を卒業後は、その身分を隠して芝浦製作所(現・東芝)に一職工として入社する。アメリカで最新の鋳造技術を学ぶ際も、またも身分を隠して一労働者として修行を積んだという。すべては、机上の空論ではない、現場の真実を知るためだった。
この「現場第一主義」の精神こそが、後に戸畑鋳物を創業し、日立製作所、日産自動車、日本水産といった巨大企業グループを一代で築き上げた原動力となったのだろう。
その後、我々は鮎川義介と井上馨が眠る洞春寺を訪れた。ここは毛利元就・輝元親子の菩提寺でもある、歴史の重みが深く刻まれた場所だ。静寂に包まれた境内で住職からお話を伺い、時代を動かした巨人たちの魂に静かに想いを馳せた。さらに、井上馨が名付けたという料亭「菜香亭」では、特別な計らいで、普段は公開されていない鮎川義介翁の貴重な資料を拝見することができた。これら一つ一つの体験が、朋友の人脈という素晴らしいご縁の賜物であることは言うまでもない。一人で計画した旅では、決してこれほど深く、本質に触れることはできなかっただろう。
【コラム】日本の産業を創った男・鮎川義介
基本情報: 1880年11月6日、山口県生まれ。実業家、政治家。日産コンツェルンの創始者。
現場第一主義: 東大卒業後、職工として東芝に入社。渡米時も労働者として働き、可鍛鋳鉄技術を習得。この姿勢は、名門出身でありながら驕ることなく、常に本質を追求する鮎川の人物像を物語っている。
日産コンツェルンの形成: 1910年に戸畑鋳物を創業。1928年に義弟から久原鉱業を引き継ぎ「日本産業株式会社(日産)」を設立。最盛期には日産自動車、日立製作所など141社を傘下に収める巨大コンツェルンを築いた。
満州への進出と河豚計画: 満州重工業開発の総裁に就任。また、ドイツ系ユダヤ人を満州に移住させ、アメリカのユダヤ資本を導入しようという壮大な「河豚計画」を構想したことでも知られる。
戦後の活動: 戦後、準A級戦犯容疑で収監されるも、釈放後は参議院議員を務めるなど日本の復興に尽力。「日本の産業基盤を支えるのは中小企業である」との信念から、中小企業振興に情熱を注いだ。
経営哲学: 「事業は創作であり、芸術である」という言葉を残し、単なる利益追求ではなく、社会への貢献を重視した。
第二章:明治の元勲・井上馨翁の足跡(山口市)
鮎川義介の人生に大きな影響を与えた大叔父、井上馨。我々は彼の旧宅跡である井上公園にも足を運んだ。山口市湯田温泉にあるこの公園は、長州ファイブの一人として日本の夜明けを切り拓き、後に大蔵大臣などを歴任した井上馨の功績を偲ぶ場所だ。
公園内には、幕末史の重要な一場面である「七卿落ち」で、京から追放された三条実美ら七人の公卿が一時滞在した「七卿潜居の間」が復元されている。また、井上馨が暴漢に襲われた際に命を救った医師・所郁太郎の銅像も建っており、幕末の緊迫した空気と、志士たちの絆の深さを感じさせた。
井上馨は、鮎川義介に実業家の道を指し示し、その創業を支援した。しかし、鮎川が三井財閥への就職を断り、自らの力で道を切り拓いていく姿を、井上はどう見ていただろうか。時代を動かす者たちの、厳しくも温かい師弟関係、あるいは血の繋がりを超えた魂の交流がそこにはあったのかもしれない。
【コラム】近代日本のデザイナー・井上馨
基本情報: 1836年1月16日、周防国(現・山口市)生まれ。明治時代の政治家・実業家。通称は聞多(ぶんた)。
長州五傑: 尊王攘夷の風が吹き荒れる中、伊藤博文らと共にイギリスへ密航留学。西洋の国力を目の当たりにし、開国論へと転じる。この経験が、後の彼の政治活動の原点となった。
明治政府の重鎮: 外務大臣、大蔵大臣など政府の要職を歴任。特に外務大臣時代は、不平等条約の改正に心血を注いだ。
鹿鳴館外交: 条約改正交渉を有利に進めるため、鹿鳴館を建設し、極端な欧化政策を推進。これは結果的に国民の反発を買い失敗に終わるが、日本の近代化への彼の強い意志の表れであった。
財界のフィクサー: 「三井の番頭」と称されるほど財界、特に三井財閥に絶大な影響力を持った。政治と経済の両輪から日本の近代化を推し進めた人物である。
第三章:吉田松陰先生の「志」に魂を揺さぶられた一日(萩市)
山口市での探訪を終え、我々は次なる目的地、明治維新胎動の地・萩へと向かった。この旅の核心は、やはり吉田松陰先生の足跡を辿ることにあった。最初に訪れたのは、萩市椿東にある松陰先生の生誕の地だ。
小高い丘の上に、家の間取りを示す敷石だけが残るその場所は、想像以上に質素だった。「こんなにも慎ましい場所で、あの烈火のごとき情熱と、国を憂う高い志が育まれたのか」。そう思うと、人の偉大さ、そして何かを成し遂げる力というものは、家柄や財産などとは全く無関係であることを改めて思い知らされた。要は「志」なのだと。
その「志」の神髄に触れることができたのが、松陰神社とその宝物殿「志誠館」だった。朋友の尽力により、我々は正式参拝を許され、さらに上田名誉宮司から直々に講話を賜るという、望外の栄誉に浴することができた。普段は入ることが許されない「立志殿」にも通していただき、松陰先生や松下村塾について、深く、心に響くお話を伺った。
志誠館には、松陰先生が遺された数々の書が展示されている。その一つ一つから伝わってくるのは、いかなる困難にあっても決して揺らぐことのない、高く、純粋な志だ。特に、処刑を前にして門下生たちに宛てた手紙の一節は、私の胸を強く打った。 「自分は自分にできるだけのことは全てやった。この身がどうなろうと悔いはない。あとはお前たちが、この国をどうするかだ」 30歳という若さで死を迎えなければならなかった無念さよりも、後に続く者たちへの熱い期待と信頼がそこにはあった。松陰先生の肉体は滅んでも、その魂は高杉晋作や久坂玄瑞といった松下村塾の塾生たちに確かに受け継がれ、明治維新という未曾有の大事業を成し遂げる原動力となったのだ。リニューアルされた歴史館も訪れた。70体以上もの蝋人形で松陰先生の生涯が再現されており、非常に分かりやすく、その激動の人生を追体験することができた。
【コラム】明治維新の精神的指導者・吉田松陰
基本情報: 1830年8月4日、長州藩士・杉家の次男として生まれる。思想家、教育者。
早熟の天才: 9歳で藩校・明倫館の師範となり、11歳で藩主への御前講義を行うなど、幼い頃からその才能は際わっていた。
海外への情熱と挫折: ペリー来航に衝撃を受け、海外の知識を吸収すべく密航を企てるも失敗(下田踏海事件)。この事件により投獄される。
松下村塾: わずか2年半という短い期間ながら、自宅敷地内に松下村塾を開き、身分を問わず多くの若者たちを教育した。高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、後の明治維新を担う多くの人材を輩出した。
革新的な教育: 塾生たちを「君」と呼び、自らを「僕」と称するなど、互いを尊重し、対話を重視する教育スタイルを実践。知識の詰め込みではなく、「志を立て、どう生きるか」を説き続けた。塾生78人の人物評を遺しており、それが驚くほど的確だったという。
安政の大獄: 幕府の政策を批判し、老中暗殺計画を立てたとして投獄され、1859年、江戸伝馬町の牢屋敷で斬首刑に処された。辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」はあまりにも有名。
第四章:萩の学び舎と城下町を歩く
旅は、萩の歴史を今に伝える他の名所へと続く。
明倫学舎は、藩校・明倫館の跡地に建てられた日本最大級の木造校舎だ。300年にわたる萩の教育の歴史がここに凝縮されている。館内で見た、地元の小学生たちが松陰先生の言葉を朗々と暗唱している映像は、非常に印象的だった。幼い頃から郷土の偉人の教えに触れる。これほど素晴らしい教育はないだろう。この地から、未来の日本を担う人材が育っていくに違いない。萩の城下町は、「江戸時代の地図がそのまま使える」と言われるほど、当時の町並みが奇跡的に保存されている。毛利輝元が築いた城下町の区割りがそのまま残り、武家屋敷の土塀と夏みかんが織りなす風景は、まるでタイムスリップしたかのような感覚にさせてくれる。今回は駆け足での散策となったが、次回はもっと時間をかけて、この世界遺産の街並みをゆっくりと味わいたいと思った。
【コラム】萩の歴史的建造物群
明倫学舎: 藩校「明倫館」の流れを汲む教育の殿堂。国の登録有形文化財である本館は、木造校舎として日本最大級の規模を誇る。吉田松陰も教鞭をとった明倫館の精神は、今もこの地に息づいている。
萩の城下町: 2015年に世界文化遺産登録。堀内地区や平安古地区の武家屋敷群、菊屋横町などの町人地の風景が、400年前の姿を今に伝える。「まちじゅうが博物館」と称される、生きた歴史都市。
洞春寺(山口市): 大内氏、毛利氏という山口の支配者の変遷を見守ってきた古刹。毛利元就・輝元の菩提寺であり、鮎川義介・井上馨の墓所でもある。
菜香亭(山口市): 明治10年創業の料亭で、井上馨が命名。伊藤博文や山県有朋など明治の元勲たちが集い、国事を論じた「山口の迎賓館」。市民運動により保存・移築され、現在は観光交流施設として公開されている。
終章:旅の終わりに思うこと – 志を継ぐということ
1泊2日の濃密な旅を終え、私は改めて「志を継ぐ」ということの重みを考えていた。松陰先生の「志」は、松下村塾の塾生たちに受け継がれ、明治維新を成し遂げた。その流れは、同じ山口県出身である安倍晋三元首相にも通じているように思う。
そして今、安倍元首相の遺志を継ぐと公言する高市早苗氏が、多くの民意に押される形で自民党総裁に選ばれた。派閥力学ではなく、国民の声が政治のトップリーダーを選んだという事実は、日本の政治にとって大きな一歩かもしれない。YouTubeなどで見る彼女の言葉には、多くの国民が元気や勇気をもらっているのではないだろうか。
もちろん、本当の勝負はこれからだ。問題が山積するこの日本に、どれだけ深くメスを入れ、改革を進めてくれるのか。我々は期待を持って見守りたい。そして、彼女に続く政治家が、次から次へと現れることを切に願う。それこそが、吉田松陰先生が夢見た「草莽崛起(そうもうくっき)」、つまり、身分や地位に関係なく、志ある人々が立ち上がって国を良くしていくという思想の現代的な実現なのかもしれない。そうして初めて、日本は本当に良い方向へ変わっていくのではないだろうか。
この旅は、多くの学びと感動を与えてくれた。それは、朋友たちが長年かけて築き上げてきた人脈と、そのご縁があったからこそ得られた、かけがえのない財産だ。松陰先生が世界を自分の足で見て、感じ、動いたように、これからも自分の足で動き、自分の目で見て、自分の心で感じることを大切にしていきたい。情報が溢れる現代だからこそ、その価値はますます高まっている。素晴らしい仲間と共に、日本の原点と未来に想いを馳せた二日間。この旅で得た熱い志を胸に、明日からの日々をまた力強く歩んでいこうと思う。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役