プロローグ:南半球の朝、7時間半の移動の先にあるもの
成田空港を飛び立ち、約7時間30分。 夜の帳が下りた日本を背に、南へと向かう空の旅を終えると、そこには圧倒的な光の世界が待っていた。
今、私はオーストラリアの北東部、クイーンズランド州にあるケアンズに来ている。
機内で少し仮眠を取った程度だが、体は驚くほど軽い。それもそのはず、ここケアンズと日本の時差はわずか1時間。日本の方が1時間遅れている計算になるが、生活のリズムを崩すような時差ボケとは無縁だ。この「時差のなさ」は、心身のコンディションを整える上で非常に大きなメリットだと感じる。
ホテルのカーテンを開けると、視界いっぱいに広がるのは、抜けるような青い空と、穏やかに輝く海。 眼下には、熱帯雨林の緑と海の青が織りなすコントラストが広がっている。
「のどかだ」
思わず口をついて出たその言葉は、単なる景色の描写ではない。私の心の奥底にあった澱(おり)のようなものが、この景色を見た瞬間にスーッと溶けていく感覚があったからだ。今日は、この街の朝の風景と、そこで感じた「日本との違い」、そして私たちがこれから大切にすべき「豊かさ」について、少し筆を走らせてみたいと思う。
第1章:吸い殻一つない海岸線が語る「民度」と「誇り」
早朝、まだ街が動き出す前の清々しい空気の中、私は海岸沿いを散歩することにした。 海からの風は、湿気を含んでいるものの決して不快ではない。むしろ、肌を優しく包み込むような柔らかさがある。
海岸沿いには、「エスプラネード」と呼ばれる遊歩道が整備されている。 歩き始めてすぐに気がついたことがある。それは、足元の清潔さだ。
日本の海岸や公園を歩いていると、残念ながらペットボトルのゴミや、吸い殻が落ちている光景を目にすることが多い。特に観光地や繁華街近くの海岸では、朝の散歩が「ゴミを目にする時間」になってしまうことさえある。
しかし、ここケアンズの海岸線には、それがほとんどないのだ。 特に驚いたのは、タバコの吸い殻が皆無だったことである。
大袈裟ではなく、本当に一つも落ちていない。 芝生の緑と、遊歩道の茶色い舗装、そして海の青。視界に入る色彩の中に、「人工的なゴミ」というノイズが一切混じらない。このことが、これほどまでに散歩の質を高めるものだとは、実際に歩いてみるまで気づかなかった。
これは単に「掃除が行き届いている」というレベルの話ではないように思う。 ここに住む人々、そしてここを訪れる人々が、この環境に対して敬意を払い、誇りを持っている証拠ではないだろうか。「美しい場所を、美しいままにしておきたい」という無言の合意形成が、この街全体に浸透しているのを感じる。ゴミがない空間は、人の心まで浄化する。 足元に気を取られることなく、ただ海を眺め、空を見上げることができる。この「視線の自由」こそが、散歩の醍醐味であり、思考を深めるための重要な要素なのだ。
第2章:エスプラネードの風景 —— 誰もが主人公になれる場所
海岸沿いには美しく手入れされた芝生が敷き詰められている。 朝日を浴びながら、その芝生の上でただ座って海を眺めている人がいる。 ヨガマットを広げ、太陽に向かってポーズをとる人がいる。 本を読んでいる人もいれば、ただ目を閉じて風を感じている人もいる。
誰もが、思い思いのスタイルで「朝」を楽しんでいる。
遊歩道に目を向けると、ランニングウェアに身を包み、軽快なペースで走り抜けていくランナーたち。 大型犬を連れて、ゆっくりと散歩を楽しむ老夫婦。 そして私のように、ただ景色を楽しみながらウォーキングをする旅行者。
それぞれのペースが尊重され、誰も他人の邪魔をしていない。 すれ違う時には、軽く目礼をしたり、ニッコリと微笑みあったりする。「Have a nice day」という声が聞こえてきそうな、穏やかな空気が流れている。
しばらく歩くと、巨大なプールが見えてきた。「エスプラネード・ラグーン」だ。 海沿いに作られたこの人工のラグーンプールは、なんと無料で開放されているという。
朝の早い時間だが、すでに何人かが泳いでいるのが見える。 真剣に泳ぎ込む人というよりは、水に身を委ねてリラックスしている人が多い。 地元の人に聞くと、休日になればここは子供たちや家族連れで大賑わいになるそうだ。砂浜が作られ、まるで本物のビーチのようなこの場所が、誰にでも平等に、無料で提供されている。
この「無料」という意味は大きい。 お金を持っている人も、そうでない人も、子供も大人も、旅行者も地元民も、等しくこの美しい水辺を楽しむ権利があるということだ。行政が「市民の憩い」を最優先事項として捉え、インフラとして整備している姿勢が垣間見える。
公園のエリアに目を向けると、地元の子供たちが楕円形のボールを追いかけていた。ミニラグビーのようなスポーツだろうか。 オーストラリアといえばラグビー強豪国。幼い頃からこうして芝生の上で、泥だらけになって走り回る環境があることが、あの屈強なワラビーズ(オーストラリア代表)を生む土壌になっているのかもしれない。
その横では、公園に設置された健康遊具で黙々とトレーニングに励む大人の姿もある。 ジムに通うのではなく、青空の下、海風を感じながら体を鍛える。その表情は真剣そのものだが、どこか楽しげだ。
ここにあるのは、お金をかけて作り出したエンターテインメントではない。 自然と調和し、人間が本来持っている「動く喜び」「集う喜び」を満たすための舞台だ。 みんな、朗らかに、のんびりとしている。
そこには、日本、特に都会の朝に漂うような「焦燥感」や「義務感」は微塵もない。 「しなければならないこと」に追われるのではなく、「したいこと」を自然体で楽しむ。そんなライフスタイルが、この風景の根底には流れている。
第3章:日本のような「せかせか」がない世界
ケアンズの街全体を包む空気感を一言で表すなら、「No Worries(心配ないよ、なんとかなるさ)」というオーストラリア独特のフレーズそのものだ。
日本のように、誰もが時計を見ながらせかせかと歩いていない。 信号待ちでイライラしている人もいない。 店員さんも、客とのおしゃべりを楽しみながら、ゆったりと仕事をしている。
効率性や生産性を追求することは、ビジネスにおいて確かに重要だ。私は普段、コンサルタントとして企業の生産性向上を支援する立場にある。だからこそ、日本の「時間の正確さ」や「勤勉さ」の価値も痛いほど理解している。
しかし、ここケアンズに身を置くと、その「効率至上主義」が時に人の心をどれほど磨耗させているかに気づかされる。 「少しぐらい遅れても、世界は終わらない」 「効率よりも、今のこの会話を楽しむことの方が大切だ」 そんな価値観が、ここでは当たり前のように肯定されているのだ。
この「余白」のある空気感が、人間本来のバイオリズムを取り戻させてくれる。 張り詰めた糸を緩め、深呼吸をする。 そんな当たり前のことが、日本では贅沢な行為になってしまっているのかもしれない。
第4章:ケアンズで出会った大阪の青年と、インバウンドの皮肉
散歩の途中、地元のカフェでコーヒーを買った際、一人の若い日本人男性と知り合った。 ワーキングホリデーでこちらに来ているという彼は、日焼けした笑顔が印象的な好青年だった。
「ケアンズは本当に日本人が多いですよ」と彼は笑う。
聞けば、彼はここに来る前、大阪に住んでいたという。 「大阪にいた頃は、インバウンドのお客さんがすごくて。毎日英語ばかり話してましたよ。ドラッグストアでバイトしてたんですけど、日本人のお客さんより外国人の方が多いくらいで」
彼は少し皮肉めいた笑顔で続けた。 「で、もっと英語環境に身を置こうと思ってオーストラリアに来たんです。でも、ここケアンズは観光客も在住者も日本人が多くて。結局、大阪にいた時よりも日本人相手に日本語を話す機会の方が多いかもしれません」
冗談めかしに言う彼の言葉には、現代のグローバル化の面白さと、日本人が求めるものの本質が隠されているように感じた。
大阪という日本を代表する大都市が、インバウンドの波に飲まれ、ある種の「外国」のようになりつつある一方で、異国の地であるケアンズに、日本人が「日本的な安らぎ」と「日本にはない開放感」を求めて集まってくる。
彼が言うように、多くの日本人、特に東京や大阪といった大都市で働く人々は、無意識のうちに「癒し」を求めているのだろう。 それは沖縄に向かう心理と同じかもしれない。 コンクリートジャングルで戦い、満員電車に揺られ、数字と時間に追われる日々。そこから一時的にでも逃れ、人間らしい時間を取り戻したいという渇望。
言葉が通じる安心感がありながら、圧倒的な自然と「せかせかしていない時間」がある場所。 ケアンズが日本人にとって人気のデスティネーションであり続ける理由は、単に近いから、時差がないから、という物理的な理由だけではない。 現代の日本人が失いつつある「精神的なサンクチュアリ(聖域)」としての機能が、この街にはあるのだ。
第5章:北欧の記憶と、幸福度ランキングの正体
ふと、数年前に訪れた北欧での記憶が鮮明に蘇ってきた。
当時、私は世界幸福度ランキングで常に上位を独占している北欧諸国の秘密を知りたくて、現地の人にこんな質問をしたことがある。 「あなたたちにとって、一番楽しい『遊び』は何ですか?」
最新のゲームでも、派手なショッピングでもない。彼らは口を揃えてこう言ったのだ。 「散歩(ウォーキング)だよ」と。
正直に告白すれば、当時の私はその答えを聞いて「ありえない」と思った。 せっかくの休日に、ただ歩くだけ? それが一番の楽しみ? 当時の私には、それが退屈で、刺激のない生活のように思えてしまったのだ。もっと分かりやすい「消費する喜び」や「獲得する興奮」こそが楽しみだと思っていたのかもしれない。
しかし、今ならわかる。痛いほどに、わかる。
ここケアンズの海岸線を歩きながら、私はあの時の北欧の人々の言葉を反芻している。 彼らが言っていたのは、単なる運動としての「歩行」ではなかったのだ。 森の匂いを嗅ぎ、風の音を聞き、季節の移ろいを肌で感じる。自然という巨大な生命の一部であることを再確認する時間。それこそが、人間にとって最高の贅沢であり、心の充足(ハピネス)をもたらす源泉なのだと。
北欧の深い森も、ケアンズの輝く海も、本質は同じだ。 自然と触れ合う喜びを知っていること。それが、幸福度を高める最もシンプルな答えだったのだ。
第6章:日本の海岸線と、私たちが目指すべき「心のインフラ」
ふと、日本のことを思う。 日本は島国であり、世界に誇るべき美しい海岸線を数多く持っている。 北は北海道の荒々しくも雄大な海から、南は沖縄の透き通るような珊瑚の海まで。その多様性と美しさは、決してオーストラリアに引けを取らないはずだ。
しかし、その「活用法」についてはどうだろうか。
日本の海岸の多くは、漁港として産業利用されているか、あるいは夏だけの海水浴場として限定的に使われていることが多い。あるいは、テトラポットで埋め尽くされ、人が近づけないようになっている場所もある。
ケアンズのエスプラネードのように、「ただ歩くため」「ただ海を見るため」だけに美しく整備され、ゴミひとつなく管理されている場所が、日本にどれだけあるだろうか。
もちろん、日本には日本の地形的な事情や、台風、防災といった観点からの制約があることは承知している。 だが、もし日本各地の海岸線に、このケアンズのような「のどかな環境」を意図的にデザインすることができたなら。 無料のプールがあり、芝生があり、ゴミがなく、誰もが安全に朝の散歩を楽しめる場所。
そんな空間が増えれば、私たちの心はもっと豊かになるのではないだろうか。
経済的な豊かさは、GDPや株価で測ることができる。 しかし、本当の豊かさとは、「朝、海を見ながら安心して散歩ができること」や、「ゴミのない芝生で子供たちが裸足で駆け回れること」、そして「見知らぬ人同士が笑顔を交わせる心の余裕があること」ではないだろうか。ケアンズののどかな朝は、私にそんな問いを投げかけてくる。
エピローグ:持ち帰るべきお土産
今回の滞在で私が持ち帰るべき最大のお土産は、マカダミアナッツでもコアラのぬいぐるみでもない。 この「朝の感覚」だ。
海からの風を感じ、自分の足で歩き、思考を巡らせる時間。 誰かの目を気にすることなく、自分自身と対話する時間。
日本に戻れば、また忙しい日々が待っている。 経営者の方々の悩みに寄り添い、解決策を模索し、飛び回る毎日が始まる。 しかし、心の中にこのケアンズの青い空と、ゴミ一つない美しい遊歩道のイメージを持っておきたいと思う。
せかせかとした日常の中に、意図的に「ケアンズ的な時間」を作り出すこと。 オフィスの近くの公園でもいい、週末の河川敷でもいい。 ゴミを拾い、背筋を伸ばし、空を見上げる。
そして、私の仕事であるコンサルティングを通じても、伝えていきたいと思う。 企業が成長することも大切だが、そこで働く人々の心が豊かでなければ、真の成功とは言えないのではないか、と。 社員が朝、朗らかに挨拶できるような環境作り。効率だけでなく、余白を大切にする組織文化。 そういった「心のインフラ」を整えることが、結果として企業の永続的な発展につながるのだということを、この街は教えてくれている気がする。
太陽が高くなってきた。 海の色が、朝の淡いブルーから、力強いエメラルドグリーンへと変わっていく。
今日もまた、素晴らしい一日になりそうだ。 こののどかな朝に感謝しつつ、もう少しだけ、この風に吹かれていようと思う。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役