店主は引退しても、店まで終わらせてよいのか
飲食店の価格が上がり続けている。
一昔前まで500円ほどで食べられていたランチが、今では1,000円を超えることも珍しくない。
原材料費だけでなく、光熱費や人件費、物流費など、店を経営するために必要なあらゆる費用が上昇している。飲食店の経営状況を考えれば、値上げはやむを得ないことだと思う。
その一方で、今も以前と変わらない安さとボリューム、そして安心できる味を守り続けている店も、少なからず残っている。
先日も、そんな昔ながらの店で食事をした。
華やかさがあるわけではない。流行を追いかけているわけでもない。しかし、何度食べても飽きない、安心できる味がある。
「やっぱり、いい店だな。ずっと続いてほしいな」
そう思いながら厨房を見ると、大将はかなりのお年に見えた。
店内にはほかにも働いている人がいたが、おそらくアルバイトだろう。注文を取ったり、料理を運んだり、会計をしたりする人はいる。しかし、料理の中心にいるのは、やはり大将である。
その姿を見ているうちに、別のことが気になり始めた。
大将は、あと何年この店を続けられるのだろう。
この店には、後継者がいるのだろうか。
今食べているこの料理を、僕はあと何回食べられるのだろう。
美味しい料理を前にしながら、まだ営業している店がなくなる日のことを考えてしまった。
「今日何食べよう?」を作って気づいたこと
最近、僕は「今日何食べよう?」というオリジナルの飲食店検索サイトを作った。
今日は何を食べようかと思ったときに、自分がこれまで行った店や、これから行きたい店の中から、場所や料理の種類で検索するためのサイトである。
薬院の近くでとんかつを食べたい。天神で親子丼を食べたい。そんなときに、自分の持っている飲食店情報の中から探せるようにした。
ところが、店の情報をあらためて整理していると、思っていた以上に多くの店が閉店していることに気づいた。
その中には、長年「安くて美味しい店」として、地元の人たちに親しまれてきた店も少なくなかった。
飲食店は入れ替わりの激しい業界である。新しい店ができる一方で、お客様が減り、商売として成り立たなくなって閉店する店もある。
しかし、昔ながらの人気店の場合、必ずしもお客様から求められなくなったから閉店するわけではない。
今も常連客が通い、昼時には店がにぎわい、商品も支持されている。それでも、店主が高齢になり、後継者がいなければ店は閉まってしまう。
売れないからではない。
求められているのに、なくなってしまうのである。
昔ながらの安さは、簡単には引き継げない
こうした店の店主には、高齢の方が多いように感じる。
現在80歳を超えている方々の多くは、幼少期に戦後の貧しい時代を経験している。
食べ物が十分になかった時代を知っているからこそ、
「安い値段で、美味しいものを食べさせたい」
「せっかく来てくれたのだから、お腹いっぱいになって帰ってほしい」
という思いを強く持っている人も少なくないのではないか。
もちろん、すべての店主がそうだとは言えない。しかし、昔ながらの店の料理を見ていると、単に利益を計算して量や価格を決めているだけではないように感じることがある。
原材料費が上がっても、簡単には値上げしない。量も減らさない。長年通ってくれているお客様の顔が浮かべば、価格を変えにくいということもあるだろう。
一方で、そうした安さを維持できるのは、店主の思いだけが理由ではない。
長年同じ場所で営業してきた店には、土地や建物を所有し、家賃がかからないケースもある。店を始めた頃には外食市場が大きく伸び、非常によく儲かった時期があった店もあるだろう。その時代に築いた蓄えがあり、現在は年金を受け取りながら店を続けている人もいる。
つまり、僕たちが喜んでいる「安さ」は、現在の店の売上と利益だけで成り立っているとは限らない。
店主が長い人生の中で築いてきた資産や、現在の生活環境、そして自分の利益よりもお客様に腹いっぱい食べてもらいたいという思いによって支えられている部分もある。
だから、若い人が同じ店をそのまま引き継ごうとしても、簡単には成り立たない。
新たに店を経営する人には、家賃や設備資金の返済が発生する。従業員を雇えば、適正な給料や社会保険料も支払わなければならない。当然、自分や家族の生活費も、店の利益から確保する必要がある。
先代と同じ価格、同じ量、同じやり方を守ろうとすれば、後継者が生活できなくなる可能性がある。
その意味では、昔ながらの「安くて美味しい店」は、現在の若い人が努力すれば再現できる、単純なビジネスモデルではない。
店主が生きてきた時代や人生まで含めて、初めて成り立っている店なのである。
商売にはなっていても、事業になっていない
しかし、こうした店の一番の問題は、店主が高齢であることでも、価格が安すぎることでもないと思う。
一番の問題は、店主がいなくても回る仕組みをつくってこなかったことである。
仕込み、調理、仕入れ、味の調整、お客様への対応、スタッフへの指示まで、すべてが店主の経験と勘に依存している。
ほかに働いている人はいても、店主が休めば店を開けられない。店主が厨房に立てなくなれば、料理を提供できない。店主が辞めれば、そのまま閉店する。
僕は、こうした状態を、
「商売にはなっているが、事業にはなっていない」
と考えている。
お客様がいて、商品が売れ、利益を得ているのだから、商売としては成立している。長年地域で支持されてきたのだから、商売としては大成功と言ってもよい。
しかし、その商売が店主の技術、経験、人柄、体力、資産などと完全に一体化していれば、ほかの人に渡すことができない。
店主が働いている間だけ成り立つものは、店主個人の商売である。
店主がいなくなっても、お客様が求める価値を提供し続けられる形になって、初めて事業になるのだと思う。
問題は、単に調理マニュアルがないことではない。
店主個人が営んできた商売を、ほかの人が引き継げる事業へ変換してこなかったことなのである。
店主が引退することと、店を終わらせることは違う
僕は、少し極端な言い方かもしれないが、市場から支持されている商品や店を、店主側の都合だけで勝手に辞めることは、犯罪に近いと思っている。
これは、法律上の犯罪だと言っているわけではない。
また、高齢になった店主に、死ぬまで働き続けてほしいという意味でもない。
長年働いてきた店主が、どこかで引退するのは当然である。体力的にも精神的にも限界はある。近年の原材料高や制度変更への対応まで考えれば、「もう、ここまででいいかな」と思う気持ちも理解できる。
しかし、店主が引退することと、お客様から支持されている店まで終わらせることは、同じではないはずだ。
店を始めたとき、その店は店主個人のものだったかもしれない。
ところが、長年営業を続け、多くのお客様から支持されるようになると、店は少しずつ店主だけのものではなくなっていく。
その店を目当てにお客様が訪れる。家族で通い、親から子へ、子から孫へと利用する人も出てくる。
そこで働き、生活を支えている人がいる。食材や商品を納める取引先がいる。店があることで人の流れが生まれ、周辺の店にもお客様が訪れる。
そして、いつしかその店は、地域の風景の一部になっていく。
店の暖簾には、店主の努力だけでなく、お客様や従業員、取引先、地域との関係が積み重なっている。
それだけの価値を築いた店を、
「自分の店だから、自分が辞めるときに終わらせる」
と考えてよいのだろうか。
市場から支持された商品やサービスには、店主の個人的な所有物という側面を超えて、社会的な価値が生まれている。
だから僕は、支持されている事業を持つ経営者には、その価値を次へ渡す責任があると考えている。
足りないのは、継続させる覚悟ではないか
昔ながらの店主に、覚悟がなかったわけではない。
早朝から仕込みを行い、毎日店を開け、何十年もお客様に料理を提供し続けてきた。その覚悟は、並大抵のものではない。
雨の日も暑い日も、体調がすぐれない日も、店を開けてきた人は多いだろう。
ただ、その覚悟は、
「自分が元気な間、この店を続ける」
ところまでだったのかもしれない。
「自分がいなくなった後も、お客様に価値を届け続ける」
ところまでは、自分の責任として考えてこなかった店主も多いのではないか。
店を始めるとき、多くの人は自分が働くことを前提にしている。
自分の料理を食べてもらいたい。自分の店を持ちたい。自分と家族が生活できる商売をつくりたい。
それ自体は決して悪いことではない。
しかし、商売が成長し、多くのお客様から支持されるようになれば、経営者に求められる責任も変わってくる。
自分が頑張って店を続けるだけでなく、自分がいなくても価値を提供できる形をつくる必要が生まれる。
調理や仕込みを教えられる形にする。仕入れ先との関係や、原価、店を運営するうえでの判断基準を共有する。
従業員に仕事だけを任せるのではなく、店を経営できる人材へ育てる。後継者が適正な報酬を受け取りながら、利益を残せる価格や収益構造へ変えておく。
家族や従業員に後継者がいなければ、その店のファンの中から、継ぎたい人を探してもよい。
個人での承継が難しければ、ほかの飲食企業の傘下に入り、M&Aによって暖簾を託す方法もある。
後継者を探すことも、仕組みをつくることも、店主が元気なうちにしかできない。
店を開けられなくなってから買い手を探しても、技術や仕入れ先、従業員、お客様は急速に離れていく。
閉店を決めてからでは遅いのである。
後継者は、先代と同じでなくてよい
事業を継ぐというと、先代と同じ思いを持ち、同じ味や価格、やり方を守らなければならないと考えがちである。
しかし、僕はそうは思わない。
後継者が、先代と同じ思いを持つ必要はない。
生まれた時代も育った環境も違うのだから、同じ思いになる方が難しい。
戦後の食糧難を経験した店主が、「安く腹いっぱい食べさせたい」と考える。一方、豊かな時代に育った後継者が、食材の質や健康、働く人の待遇、持続可能な経営を重視する。
どちらが正しいという話ではない。
時代が違えば、商売に込める思いも変わる。
価格も変えてよい。提供方法や店の運営方法も変えてよい。僕は、味さえ変えてよいと思っている。
同じお客様であっても、年齢や生活環境が変われば、好みの味は変わる。社会全体の嗜好も、時代とともに変化する。
先代と同じ味を守り続けることが、必ずしもお客様のためになるとは限らない。
大切なのは、先代と同じことをすることではない。
「お客様は、この店の何を求めているのか」
を見極め、それに応え続けることである。
一蘭とふくやが受け継いだもの
ラーメンの一蘭は、その代表的な成功例だと思う。
現在の吉冨学社長は、ラーメン店を営んでいた老夫婦と出会い、その店の暖簾を引き継いだ。それが、現在につながる一蘭の第1号店となった。
しかし、昔の店をそのまま保存したわけではない。
豚骨ラーメンに絞り込み、味集中カウンターや記入式の注文方法などを導入した。個人店だった一蘭を、店主一人の経験や勘だけに頼らず、多くの店舗で価値を提供できる事業へ作り直していった。
先代のやり方を守ったのではない。
暖簾についていたお客様が求める価値を見極め、それを新しい時代に合う形へ変えたのである。
明太子の「ふくや」にも、象徴的な話がある。
創業者の川原俊夫氏は、後継者に「味を守るな」と伝えていたという。
老舗だからと昔の味を固定するのではなく、時代に合わせて味を変えなさいという教えである。
実際に、ふくやはお客様の声や味の傾向を確認しながら、塩分濃度を下げたり、無着色にしたりして、時代の変化に対応してきた。
昔と同じ味を守ることが伝統なのではない。
その時々のお客様に、「美味しい」と思ってもらうことを守る。
味は変わっても、お客様に向き合う姿勢は変わらない。
ふくやが受け継いだのは、レシピそのものではなく、「お客様が一番美味しいと思うものを提供する」という商売の本質だったのだと思う。
伝統とは、本質を次の時代へ渡すこと
伝統を継ぐとは、昔の形をそのまま保存することではない。
その店を形づくっているものを一つひとつ見直し、余分なものを削りながら、
「お客様は、この店の何を求めているのか」
という本質を突き詰める。
安さなのか。量なのか。味なのか。店主との会話なのか。昔から変わらない安心感なのか。
あるいは、それらを含めた「この店で食べる時間」そのものなのかもしれない。
その本質が分からなければ、何を残し、何を変えてよいのかも分からない。
逆に、本質が分かれば、価格や味、調理方法、店舗の形は変えられる。
昔ながらの安さを守るために、後継者が十分な収入を得られず、店が数年でなくなってしまうのであれば、それは承継とはいえない。
価格を上げても、後継者が適正な報酬を受け取り、店として利益を残しながら、お客様が満足する価値を提供し続けられる方がよい。
形を守ることにこだわり、店そのものをなくしてしまえば、本質まで失われる。
その店が本当に守るべき価値を残しながら、商品や価格、味、提供方法、働き方を、その時代に合う形へ作り直す。
そこまでできて初めて、店主個人の商売が、次の世代へ続く事業になる。
店主と一緒に、店まで引退させないために
多くの人に支持される店をつくることは簡単ではない。
新しく飲食店を始める人が最も苦労するのは、お客様を集め、信用を得ることである。
昔ながらの人気店には、それがすでにある。
地域で知られた店名がある。長年支持されてきた看板商品がある。常連客がいる。仕入れ先との関係がある。
そして、「あの店なら間違いない」という信用がある。
それは、決算書には十分に表れないかもしれないが、大きな事業資産である。
だからこそ、店主の引退とともに、そのすべてを消してしまうのは、あまりにも惜しい。
僕たち客は、「安くて美味しい。ずっと続いてほしい」と言う。
しかし、本当に続いてほしいのであれば、昔の価格や味をそのまま求めるだけではいけない。
次の経営者が無理なく続けられる価格を受け入れることも必要だろう。先代とは違う味や店の形になったとしても、その店が提供してきた本質的な価値が残っているなら、それを新しい伝統として受け入れる必要もある。
そして経営者には、自分が元気な間に、その価値を次へ渡す準備を始める覚悟が求められる。
商売を始めるとは、自分が働く場所をつくることだけではない。
お客様から支持されたとき、その価値を自分がいなくなった後へ渡す責任まで引き受けることではないだろうか。
店主は、いつか引退してよい。
しかし、お客様から求められている店まで、店主と一緒に引退させないでほしいと、僕は強く願う。
