島原城を訪れて
先日、長崎県の島原城を訪れました。白い壁と美しい石垣が印象的な城で、城内の資料館にはキリシタン関連の展示が数多く並んでいました。島原の乱で使われた武器や、当時のキリシタンの生活を示す資料、そして殉教者たちの記録。これらの展示を見ながら、私は当然のように「ここはキリシタン大名の城だったのだろう」と思い込んでいました。
しかし、よく調べてみると、これは大きな誤解でした。島原城とキリシタンの関係は、私が想像していたよりもずっと複雑で、考えさせられるものだったのです。
島原城の本当の歴史
島原城は、1618年から1624年にかけて松倉重政によって築城されました。松倉氏は、キリシタン大名どころか、むしろキリシタンを厳しく弾圧した藩主だったのです。
その前に島原半島を治めていたのは有馬氏でした。有馬晴信は確かに有名なキリシタン大名で、天正遣欧少年使節の派遣にも関わった重要な人物でした。しかし、彼の居城は島原城ではなく、日野江城でした。つまり、島原城そのものは、キリシタン弾圧を行った松倉氏が建てたものだったのです。
松倉氏の過酷な年貢の取り立てとキリシタン弾圧は、後の島原・天草一揆(島原の乱)の原因の一つとなりました。皮肉なことに、島原の乱が起こった時、幕府軍の本陣は島原城に置かれました。つまり、島原城は鎮圧する側の拠点として使われたのです。
この事実を知った時、歴史の複雑さを改めて感じました。展示が充実していたからといって、その城がキリシタンに味方していたとは限らない。むしろ対立する側だったかもしれないのです。
キリシタン大名について
ところで、キリシタン大名について少し混乱していたことがありました。黒田官兵衛(如水)や長政もキリシタン大名だと思っていたのですが、これも正確ではありませんでした。
黒田官兵衛については、晩年に「シメオン」という洗礼名を持っていたとする史料があり、キリシタンだった可能性が指摘されています。しかし、これについては史料によって記述が異なり、歴史家の間でも意見が分かれています。確実にキリシタンだったとは断定できない状況です。
一方、息子の黒田長政は、キリシタンではありませんでした。むしろキリシタンに否定的で、江戸幕府の禁教政策に従う立場でした。
確実にキリシタン大名だったのは、大友宗麟(豊後、洗礼名フランシスコ)、大村純忠(肥前、洗礼名ドン・バルトロメオ)、有馬晴信(島原、洗礼名ドン・プロタジオ)、小西行長(肥後南部、洗礼名ドン・アウグスティノ)、高山右近(洗礼名ジュスト)などです。
歴史を学ぶ時、こうした細かな事実関係を正確に把握することの難しさを感じます。
徳川幕府の禁教政策の真意
徳川幕府がキリスト教を禁じた理由について考えてみると、単純な宗教弾圧とは言い切れない面があります。確かに宗教統制の側面もありましたが、より重要だったのは植民地政策への警戒だったのではないでしょうか。
当時、スペインやポルトガルは宣教と貿易を通じて東南アジアなどを植民地化していました。宣教師が先遣隊として入り込み、現地に教会を建て、キリシタン大名を作り出し、最終的には軍事力で制圧するというパターンです。幕府は、キリシタン大名が宗教的忠誠心によって外国勢力と結びつくことを恐れていたのです。
つまり、禁教政策には確かに外交・安全保障上の合理的な側面がありました。ただし、だからといって弾圧の事実がなくなるわけではありません。島原の乱での3万7千人の犠牲者、26聖人の殉教、踏み絵、隠れキリシタンの存在など、膨大な史料が弾圧の実態を記録しています。
「公式の歴史」への疑問
歴史を学んでいると、時々「本当にこれが事実なのだろうか」という疑問を感じることがあります。
例えば、竹内文書という古代文書があります。これには、古代にキリストが日本に来ていたという記述があるとされています。また、青森県新郷村には「キリストの墓」なるものも存在します。しかし、これらは学術的には偽書・民間伝承とされています。
竹内文書は1920年代に竹内巨麿が公開したとされる文書ですが、古代には存在しなかった概念や用語が含まれており、明らかに近代以降の知識に基づいた内容が見られます。「神代文字」と呼ばれる文字も、江戸時代に創作されたものと考えられています。
でも、ここで考えてしまうのです。もし本当に隠蔽されている歴史があったらどうでしょう。都合の悪い誰かが事実を隠している可能性はないのでしょうか。
ただ、冷静に考えると、もしキリストの日本来訪が事実なら、それは世界史を書き換える大発見です。発見者は名誉と評価を得られるはずなのに、なぜ世界中の研究者がその隠蔽に協力するのでしょうか。日本だけでなく、海外の独立した研究機関も同様の結論に達しています。
検証可能な証拠がないことを「隠蔽の証拠」とする論理は、反証不可能であり、建設的な議論から遠ざかってしまいます。
歴史と権力の関係
とはいえ、「公式の歴史」が常に正しいとも限りません。古事記や日本書紀についても、これらが政治的意図を持って編纂されたことは歴史学でも広く認識されています。天皇の正統性を示すため、ヤマト政権に都合よく編集された面があることは確かです。
「勝者が歴史を書く」という言葉があるように、どの時代でも為政者は自己正当化のために歴史を利用してきました。バチカンの秘密文書館(現在は「バチカン使徒文書館」と改称)にも、未公開の史料が多数あることは事実です。
ただし、日本でも戦後、正倉院文書、各藩の記録、寺社の古文書など、膨大な史料が研究されてきました。宮内庁も徐々に史料公開を進めています。「西洋は公開するが日本はしない」というのは、やや単純化しすぎかもしれません。
重要なのは、「自分が信じたいもの」と「検証可能な事実」を区別する姿勢ではないでしょうか。
様々な異説の存在
世の中には様々な歴史の異説が存在します。例えば、キリストが十字架で処刑されずに替え玉だったという説もあります。実は、この考え方はイスラム教では教義の一部となっています(クルアーン4章157-158節)。古代のグノーシス主義にも類似の考えがありました。
新郷村の「キリストの墓」が詐欺にならない理由は、それが「歴史的事実」として宣伝されているのではなく、「伝説」「民間伝承」として紹介されているからです。日本各地にある「弁慶の足跡」や「義経伝説」と同じように、地域の人々が大切にしている物語なのです。
伝承や民話を地域が維持することと、歴史的事実を主張することは別のことです。人々がその物語に意味を見出し、文化遺産として大切にしているということなのでしょう。
本当に大切なこと
ここまで歴史の様々な側面について考えてきましたが、実は最も大切なことは歴史の細かな真偽ではないかもしれません。
キリストが日本に来ていようが来ていまいが、それ自体はどちらでも良いことです。本当に重要なのは、宗教的な「違い」へのこだわりが対立を生み、戦争につながってしまうことをやめることではないでしょうか。
もし宗教の根源が同じだとわかれば、無意味な宗教戦争はなくなるかもしれません。「自分たちこそが正しい」という絶対視が、対話を不可能にしてきました。もっと柔軟に、寛容に、共通点を見出す姿勢が必要だと思います。
宗教戦争によって、どれだけ多くの命が失われてきたでしょうか。民族対立、イデオロギーの衝突で、どれだけの人々が苦しんできたでしょうか。捉われを捨てれば、こうした争いは起こらないはずです。
宗教間対話と共存
実際に、世界では宗教間対話(インターフェイス・ダイアローグ)の動きが進んでいます。バチカン第2公会議以降、カトリック教会は他宗教に対してより開放的な姿勢を示すようになりました。仏教とキリスト教の対話、イスラムと他宗教の平和共存の試みも各地で行われています。
日本の神仏習合のような、複数の信仰が共存してきた歴史も再評価されています。江戸時代まで、多くの日本人は神道と仏教を自然に受け入れてきました。一つの絶対的な真理にこだわらない、柔軟な宗教観があったのです。
しかし、ここで立ち止まって考える必要があります。私たちは「歴史的事実を正確に理解した上で」と簡単に言いますが、その「歴史的事実」とは本当に何なのでしょうか。誰がそれを決めるのでしょうか。
時の権力者や、いわゆる御用学者が「これが事実だ」と言ったことが、必ずしも真実とは限りません。私たち一般人には、古文書の原本を直接確かめる手段もなければ、遺跡を自分で発掘することもできません。結局のところ、誰かが「検証した」と主張する情報を信じるしかないのです。
では、何が事実で何が事実でないのか。その判断基準はどこにあるのでしょうか。学術的コンセンサスと言われるものも、時代によって変わることがあります。かつて「定説」とされていたことが覆されることもあります。私たちは、判断が非常に難しい時代に生きているのかもしれません。
それでもなお大切なのは、「自分だけが正しい」という思い込みを持たないことではないでしょうか。歴史の真実は簡単には見極められないかもしれません。しかし、だからこそ謙虚に学び、相手の立場を理解しようとする姿勢が重要です。違いを認めた上で、共通の人間性を見出すこと。対話を重ねること。これが、より深い平和につながるのではないでしょうか。
結び:島原城が教えてくれたこと
島原城を訪れたことで、歴史の複雑さと、平和の尊さについて深く考えることができました。キリシタン大名の城だと思い込んでいた私の誤解から始まって、歴史認識の問題、そして最終的には世界平和への願いまで、思考が広がっていきました。
島原城の展示を見て、キリシタン弾圧の悲劇を知ったからこそ、二度とこのような争いを繰り返してはいけないと感じました。宗教的な違いや歴史認識の差はあっても、それを乗り越えて共存する道を探ることが大切です。
歴史から学ぶべきは、「誰が正しくて誰が間違っていたか」ではなく、「どうすれば平和を築けるか」ということかもしれません。違いを認めながらも、共通の人間性を見つめ、捉われを超えた未来を作っていく。それが、島原城が私に教えてくれた大切なメッセージでした。
島原半島を後にしながら、世界各地で今も続く宗教的・民族的対立が、一日でも早く終わることを心から願いました。歴史の真実を探求することと、平和を希求すること。この両方を大切にしながら、歩んでいきたいと思います。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役