占いは、未来を知るためだけではない――より良い決断をするための知恵

占いというと、どんなイメージを持つだろうか。

「今年の運勢は?」
「恋愛運は?」
「金運は上がる?」

今では、そんなイメージが強いかもしれない。

でも、占いの歴史を考えてみると、本来の役割はもっと大きかったのではないかと思う。

建築や農業などと同じように、占いも人類最古級の仕事の一つではないだろうか。

なぜ、そんな昔から占いが必要だったのか。

それは、人間がいつの時代も、

「これから、どうすればいいのか」

を決めなければならなかったからだと思う。

未来が見えない中で、いつ動くのか、どこへ向かうのか、誰と組むのか、戦うのか、待つのか。

その判断材料の一つとして使われてきたものが、占いだったのではないだろうか。

国家の重要な決断にも占いが使われていた

古代ギリシャには、デルフィという神託で有名な場所がある。

そこには各地から人々が訪れ、個人の相談だけでなく、戦争や政治、新しい都市をどこにつくるかといった国家の重要な判断についても神託を求めたという。

実は僕自身も、以前デルフィを訪れたことがある。

そのとき、なぜかとても不思議な感覚を覚えた。

「もしかすると、かつて自分はこの場所にいたのではないか。」

もちろん、それを証明することはできない。ただ、初めて訪れた場所なのに、どこか懐かしいような、以前から知っていたような感覚があった。

今振り返ると、僕が占いや運命學に強く惹かれていることと、あのときデルフィで感じたものは、どこかでつながっているのかもしれないと思う。

ソクラテスやアリストテレス、アレクサンドロス大王など、古代ギリシャを代表する思想家や為政者とも深い関わりを持った場所である。プラトンの思想の中でも、デルフィの神託は重要な位置を占めている。

つまり、当時の占いは単なる娯楽ではなかった。

国の進路を決める意思決定にも使われていたのである。

アレクサンドロス大王にも、ペルシア遠征を前にデルフィを訪れ、神託を求めたという有名な伝承が残っている。

もちろん、占いだけで国家を動かしていたわけではないだろう。

軍事力も見る。相手の状況も調べる。政治情勢も考える。

それでも最後に、まだ見えていない未来について判断しなければならない。

その最後の意思決定に、神託が使われていた。

禁止されても、人々は暦を求めた

日本でも、昔から暦や方位、吉凶などが、人々の生活や重要な決断に深く関わってきた。

明治になると、陰陽道は公的な制度から排除され、暦からも吉凶などの情報が取り除かれていった。

ところが、それで人々が必要としなくなったわけではない。

吉凶や旧暦などを載せた非公認の「おばけ暦」が、取り締まりの目をくぐりながら秘密裏に作られ、大量に流通したという。

これが、僕はとても面白いと思う。

正規には手に入らなくても、それでも欲しい。

人々は、いわば闇でまで暦を求めたのである。

それだけ、

いつ動けばよいのか。
どちらへ行けばよいのか。
今は進む時なのか、待つ時なのか。

という情報が、生活の判断材料として必要だったのではないだろうか。

結婚する日、家を建てる時期、どの方角へ動くか。

昔の人にとっては、暮らしや家族の将来を左右する大きな決断だったはずだ。

その需要は消えず、後には高島暦のように、方位や吉凶、運勢などを扱う暦が広く読まれるようになり、形を変えながら現在まで続いている。

制度を変えることはできても、人間の「より良い判断をしたい」という欲求までは消せなかった。

占い嫌いでも、おみくじは引く

もっと身近なところにも占いはある。おみくじだ。

「私は占いを信じません」という人でも、初詣では普通におみくじを引く。

大吉が出れば喜ぶし、凶が出れば少し気になる。

これも立派な占いの一つである。

しかも、おみくじを引くとき、必ずしも「未来を当ててもらおう」と思っているわけではない。

そこに書かれた言葉を見ながら、「今年は少し慎重にしよう」「これは挑戦してみよう」と、自分の行動を考える人も多いのではないだろうか。

ここにも、占いが今の行動を考えるためのものであることが表れているように思う。

占いは、すべて同じものではない

ひと口に占いと言っても、大きく分けると「命術」「卜術」「相術」などがある。

おみくじや易、タロットのように、その時に出た結果から判断するものは「卜術」と呼ばれる。こうしたものには、直感的、あるいは霊的な要素を感じる人もいるだろう。

一方、生年月日や生まれた時間などから読む「命術」や、顔、手、住まいなど、現れている形を見る「相術」は少し性質が違う。

これらは長い歴史の中で、人間や自然の動きを観察し、一定の法則として体系化されてきた伝統的な知識だと僕は捉えている。

よく「占いは統計学だ」と言われるが、厳密には現代の統計学と同じものではない。

ただ、僕が命術を学んでいて感じるのは、考え方としては、「当たるか、外れるか」ではなく、「このタイプの人には、こういう傾向が出やすい」という確率論に近いということである。

例えば、

「あなたはこのタイプだから、こういう環境では力を発揮しやすい」

「こういう関係では衝突しやすいので、ここに気をつけた方がいい」

というように、その人ごとの性質や傾向を見ながら、より上手くいく可能性の高い選択肢を考えていく。

未来を断定するのではなく、その人なら、どんな選択をすると上手くいく確率が高いのか。どこでつまずきやすいのか。

そうしたことを考える材料なのである。

しかも、その答えは一人ひとり違う。

だからこそ命術は、「万人に当てはまる成功法則」ではなく、その人に合った成功の確率を高めるための知恵として使えるのではないかと思う。

その仕組みを現代科学ですべて説明できているわけではない。

だからといって、科学でまだ説明できないという理由だけで切り捨てる必要もないと僕は思っている。

分からないものを何でも信じればよいわけではない。自分で学び、経験し、最後は自分自身の直感も含めて判断する。

それもまた、人間が昔から持っている知恵ではないだろうか。

九星気学は「気の学問」とも言われる

僕が学んでいる九星気学は、「気の学問」とも言われる。

九星気学では、自分の気、相手の気、時の気、場所の気、方位による気の違いなどを見ながら、いつ、どこで、どう動くのかを考えていく。

では、なぜ「気」を見ることが意思決定に関係するのか。

勝負の世界を考えると分かりやすい。

どれだけ身体能力が高く、技術に優れていても、相手を前にして気後れしてしまえば、本来の力を発揮できない。

反対に、自分の気が充実し、相手より気持ちの面で優位に立てれば、相手が迷ったり萎縮したりして、実際に技を出す前から勝負が動くこともある。

剣道にも「技前で勝つ」という考え方がある。

打ってから勝つのではなく、打つ前に相手の心や構えを崩し、こちらが主導権を握る。

昔から東洋では、ただ力で相手を倒すのではなく、

「いかに戦わずして勝つか」

ということが、一つの理想として考えられてきた。

日本の甲冑や兜にも、防具としてだけでなく、自分の存在を誇示し、味方の士気を高め、相手に威圧感を与える役割があったとされる。

見ただけで「強そうだ」と感じ、相手が気後れすれば、本来の力を十分に発揮できなくなることもある。

つまり、勝負は実際に戦い始める前から始まっている。

こちらの気を高め、相手の気を削ぐ。

自分の状態を整え、相手の状態を読み、こちらに有利な時や場所を選ぶ。

そこまで考えて初めて、「気」と「占い」がつながってくる。

「何をするか」だけではなく、「いつ、どこで」

九星気学では、時期だけでなく方位も見る。

例えば重要な商談があるとする。

当然、相手のことを調べ、提案内容を考え、数字も準備する。

そのうえで、

「では、いつ会うのか」
「どこで会うのか」
まで考える。

同じ相手に同じ提案をするにしても、時期や場所が違えば結果が変わることはある。

これは占いにすべてを任せるということではない。

できる準備はすべて行い、そのうえで、時や場所や流れまで味方につけようとする。

僕は、これが本来の占いの使い方の一つではないかと思っている。

最後の一人を決めるときにも使われる

以前、芸能の世界では、オーディションで最後の二人まで残り、能力だけでは甲乙つけがたいとき、占いを判断材料の一つにすることがあるという話を聞いたことがある。

最初の段階では、歌唱力、演技力、表現力、人柄など、比較できるものを徹底的に見る。

でも、最後に二人が残り、合理的に比べても決めきれない。

そこで、最後の判断材料の一つとして占いを見る。

合理的に判断できるところまでは合理的に判断する。それでも最後に残る不確実な部分を、別の角度から見る。

古代のデルフィで国家の進路を神託に問うたことも、考え方としては似ているのかもしれない。

そして大切なのは、占いの結果を知って終わることではない。

「だから、自分はどうするのか。」

占いの価値は、「当たった、外れた」で終わることではなく、より良い行動や決断につなげるところにあるのだと思う。

経営も、最後は決断である

これは経営にもよく似ている。

市場調査をする。財務分析をする。事業計画を立てる。競合を調べる。投資額もリスクも考える。

例えば、大きな設備投資をすると決めたとする。

投資そのものは、もう決定事項である。

では、いつ投資するのか。

重大な商談でも同じだ。

商談をすること自体は決まっている。

では、いつ会うのか。どの方位で行うのか。

そこまで考えて、できるだけ自分にとって有利な条件を整えてから臨む。

「そんな細かいことまで気にするのか」と思う人もいるかもしれない。

でも、大きな投資や重大な商談で、たったそれだけのことで大きなリスクを回避できる可能性があるのなら、それを本当に「細かいこと」と言えるのだろうか。

**「神は細部に宿る」**という言葉がある。

大きな結果ほど、最後はこうした細かな判断の積み重ねで決まることもある。

そして僕は、そうした小さな判断を丁寧に積み重ねていくことが、結果として「運をつかむ」ことにもつながるのではないかと思っている。

運は、偶然に舞い込んでくるものだけではない。

より良い時を選び、より良い場所を選び、少しでもリスクを減らしながら行動する。その積み重ねによって、運をつかみやすい状態を自らつくっていくこともできるのではないだろうか。

とはいえ、僕自身も若い頃は、占いなんてまったく興味がなかった。

「当たる、当たらない」を楽しむ程度のものだと思っていた。

ところが、あるとき占いの本質を知る機会があり、考え方が大きく変わった。

「もっと早く知っていればよかった」

と、今でも思う。

特に今は、インターネットによって世界中の情報が簡単に手に入り、自分で調べ、学び、選択できる時代になった。昔に比べれば、自分の意思と行動によって人生の選択肢を大きく広げることができる。

だからこそ、自分はどんな人間なのか。いつ動くのか。どこへ向かうのか。何に気をつければよいのか。

それを知っているかどうかで、その後の人生は大きく変わるのではないかと思う。

数字やデータは判断材料を与えてくれる。

しかし、未来そのものを保証してくれるわけではない。

だからこそ、最後は人が決める。

そして人類は何千年もの間、その「最後の決断」を少しでも良いものにするために、未来や流れを読もうとしてきたのではないだろうか。

占いは、未来を知るためだけのものではない。

未来を知ろうとしながら、今、自分はどう動くべきなのかを考えるための知恵。

そう捉えると、古代デルフィで国家の進路を神託に問うたことも、明治に吉凶や方位を知るための暦が取り締まりをくぐってまで求められたことも、そして現代の経営や人生の重要な意思決定に占いを使うことも、一本の線でつながって見えてくる。

何千年経っても占いがなくならないのは、人間が未来を知りたいからだけではない。

より良い未来を選ぶために、より良い決断をしたいからではないだろうか。