先日、私は京都を訪れ、三十三間堂(蓮華王院本堂)の売店で、あるお菓子と出会いました。その名は「清浄歓喜団(せいじょうかんきだん)」。
POPには「日本で一番古いお菓子」というような趣旨のことが書かれています。「日本で一番古いお菓子はいかがですか?」売り子さんからも声をかけられて、歴史好き、そして新しい(古い?)食体験に目がない私は、迷わずそれを手に取りました。
包みを開けると、ごま油の香ばしい香りが立ち上ります。見た目は硬そうな揚げ菓子で、巾着袋のような、あるいは仏教の法具である金剛杵(こんごうしょ)のようにも見える独特の形をしています。一口かじってみると、まず感じるのは強いごまの風味。そして、生地の中から現れる餡は、現代の和菓子とは明らかに異なる、何かスパイシーで奥深い香りを放っていました。
正直に申し上げて、これが現代の洗練されたパティスリーのケーキや、有名和菓子店の生菓子と比べて「無茶苦茶美味しいか」と問われれば、即座に「はい」とは言えないかもしれません。味覚の基準が全く異なるのです。
しかし、私は食べながら深く考え込んでしまいました。なぜ、このお菓子が千年以上もの間、姿を消すことなく、ほぼ原形を留めたまま現代まで続いているのか。そこには、現代人が忘れかけている「本物」の哲学が隠されているのではないかと。
この一口の経験から始まった思索は、やがて京都・奈良の古代建築、そして私たちの生き方そのものへと繋がっていきました。
第1章:清浄歓喜団とは何か? ~神仏に捧げられた「食べるお香」~
この不思議な菓子の正体を探ると、その歴史は奈良時代にまで遡ります。
清浄歓喜団は、遣唐使によって日本にもたらされた「唐菓子(からくだもの)」の一つ、「団喜(だんき)」がルーツとされています。つまり、1000年以上の歴史を持つ、まさに日本最古級の菓子なのです。
その特徴は、現代の菓子とは一線を画します。
❶ 独特の形状:米粉と小麦粉で作った生地を金袋型(巾着袋のような形)に整え、8つのひだをつけています。これは八葉の蓮華を模したとも言われています。
❷ 秘伝の餡:中にはこし餡が詰まっていますが、ただの餡ではありません。白檀(びゃくだん)、桂皮(けいひ)、竜脳(りゅうのう)、丁字(ちょうじ)といった、7種類もの「お香」が練り込まれているのです。
❸ 製法:生地で餡を包んだ後、純正のごま油で揚げる。
私が感じたスパイシーで奥深い香りの正体は、この「お香」でした。
そして最も重要な点は、これが元々、密教の祈祷の際に神仏(特に聖天様=歓喜天)に供えられるお供物として使われてきたということです。
「清浄」という名の通り、清めの意味を持つお香を練り込んだこの菓子は、別名「御団(おだん)」とも呼ばれ、神聖な儀式に不可欠なものでした。「食べるお香」とも表現されるこの菓子は、数ある京菓子の中でも千年の昔の姿をそのまま保存している、和菓子の歴史を語る上で欠かせない存在なのです。
第2章:千年前の「究極の贅沢」~なぜ高価な菓子が作られたのか~
私がこの菓子に強く惹かれたもう一つの理由。それは、現代の価値観では測れない「当時の贅沢さ」を想像させたからです。
何気なく手に取った商品の裏にある原材料名表示を見ると、その一番最初には「小豆餡」、次に「砂糖」、そして「米粉」「小麦粉」と続きます。ご存知の通り、原材料名は使用量が多いものから順に記載されます。つまり、この菓子は「砂糖」や「粉類」よりも「小豆餡」を最も多く含んでいるということです。実際に、硬い生地の中には餡がぎっしりと詰まっていました。
ここで、当時の時代背景に思いを馳せてみます。
奈良時代や平安時代において、「砂糖」はどのような存在だったでしょうか。
それは遣唐使が中国から持ち帰る貴重品であり、一般庶民の口にはまず入らない、「薬」として扱われるほどの超高級品でした。主に貴族や寺院でのみ、極めて少量が使用されるに過ぎません。
その超高級品である砂糖をふんだんに使い、さらに白檀や竜脳といった、同じく貴重な輸入品である香辛料を7種類も練り込む。そして、当時貴重だったであろう純正のごま油で揚げる。
これは、どう考えても「庶民のおやつ」ではありません。
なぜ、これほどまでに贅沢な材料が惜しげもなく使われたのか。 答えは明白です。それが、**人間が口にするためではなく、神仏に捧げる「最高の供物」**であったからです。
最高の敬意と祈りを込める対象だからこそ、当時の技術と財力の粋を集め、最高級の素材で作る必要があった。清浄歓喜団が持つ厳格なまでの格式の高さは、その成り立ちにあったのです。
第3章:千年続くものの共通点 ~清浄歓喜団と法隆寺の哲学~
ここで、私の思考は京都から奈良へと飛びます。 清浄歓喜団が千年続いた理由。それは、この菓子が持つ「純粋性」にあるのではないか、と。
私は、この菓子が「添加物(保存料・着色料)を一切使っていない」にもかかわらず、常温で1週間以上日持ちするという事実に注目しました。砂糖を多く使い、油で揚げるという製法が、当時の知恵としての保存性を高めているのです。
この「添加物ゼロ」「純粋な素材のみ」というキーワードは、京都や奈良に数多く現存する「千年続くもの」と見事に一致します。
例えば、法隆寺。1300年以上前に建立された世界最古の木造建築群です。 あるいは、東寺の五重塔、東大寺の伽藍、そして私が訪れた三十三間堂。
これらの偉大な建築物と、手のひらに乗る小さなお菓子「清浄歓喜団」には、驚くべき共通哲学が存在します。
❶ 自然素材の純度100%
法隆寺の柱は、樹齢千年を超えるヒノキが100%使われています。清浄歓喜団は、米粉、小麦粉、小豆餡、天然香辛料、ごま油という、すべて自然界に存在する素材のみで作られています。
❷ 不純物を加えない「引き算の美学」
法隆寺を始めとする伝統建築は、釘を一本も使っていません。宮大工たちは「木組み」という技術を使い、木材同士を精密に組み合わせることで、巨大な建物を支えています。 なぜ釘を使わないのか。それは「釘は錆びるから」です。錆びた釘は膨張し、木材を内部から破壊し、建物全体の寿命を縮める「不純物」となります。 また、これらの建築はペンキも使っていません。ペンキなどの化学物質は、木の呼吸を止め、やがては剥がれ落ち、劣化します。
清浄歓喜団も同じです。保存料や着色料という「不純物」を一切加えません。 不純物を加えない。それは、素材本来の力を100%信じ切るという哲学です。余計なものを足すのではなく、引くことで本質的な強さを引き出す「引き算の美学」がそこにあります。
❸ ごまかしのない精密さと「祈り」
木組みは、木のクセ(ねじれ、反り、強度)を一本一本完璧に見極め、ミリ単位で精密に加工しなければ成り立ちません。宮大工の言葉に「塔組みは木組み、木組みは木のクセ組み、木のクセ組みは人の心組み」というものがあるそうです。 それは単なる作業ではなく、木と対話し、百年後、千年後の人々を想う「祈り」に近い行為です。
清浄歓起団もまた、祈祷の供物として、一切のごまかしが許されない「祈り」の菓子でした。
ここから、私は「千年続くもの」の条件を導き出しました。
それは、**「天然の素材で、不純物を加えずに、ごまかしがないもの。そして、精密であり、作り手の思い(祈り)が詰まっているもの」**ではないでしょうか。
人工的なものは経年劣化しますが、純粋な自然素材は、時を経てなお味わいを増します。 現代社会は、添加物、化学物質、合成素材に溢れています。それらは短期的には便利で安価かもしれませんが、長期的には劣化し、修復も困難です。 しかし、法隆寺は1300年経った今でも、傷んだ部分だけを同じヒノキで、同じ木組みの技術で修復し、その命を未来へと繋いでいます。
第4章:「千年続く智慧」を人生に当てはめる
この清浄歓喜団と法隆寺が教えてくれる「千年の哲学」を、私たち「人」の生き方に例えてみると、どうなるでしょうか。私は、ここに現代人が見失いがちな、非常に重要な人生の真理が隠されているように思えてなりませんでした。
❶ 天然の素材 = 自分の「天命」を知り、特性を生かす
法隆寺はヒノキをヒノキとして使います。桜の木を無理にヒノキのように扱おうとはしません。清浄歓喜団は米粉と小豆の特性を生かして作られます。 私たち人間も同じではないでしょうか。 人にはそれぞれ生まれ持った才能、性質、役割、すなわち「天命」があります。 他人を羨み、自分にないものを嘆き、無理に自分を変えようとする(=不純物を加える)のではなく、まず自分自身の「天然の素材」が何であるかを知り、その特性を最大限に生かすこと。それが全ての始まりです。
❷ 不純物を加えない = ごまかさない生き方
添加物で味をごまかさない。釘で安易に固定しない。 これは、人生において「嘘をつかない」「見栄を張らない」「飾らない」という姿勢に繋がります。 肩書きや他人の評価という「不純物」で自分を大きく見せようとするのではなく、自分自身(素材そのもの)を信じ、純度高く生きる。シンプルだからこそ強く、純粋だからこそ美しいのです。
❸ 精密な技術 = 楽な道に逃げず、技術を磨く
釘を使えば、建物を建てるのは遥かに簡単でスピーディーです。しかし、宮大工はあえて何十年もの修行が必要な「木組み」の道を選びます。なぜなら、その困難な技術こそが「千年」を支える本質だと知っているからです。 人生においても、近道や安易な道(=釘)は、長期的には脆さ(=錆び)を露呈します。 楽な道に逃げず、自分の天命に沿った技術や人間性を、時間をかけて磨き続けること。その一歩一歩の積み重ねこそが、時を超える強さを生み出します。
❹ 困難への対処 = 無理に解決しようとしない
木組みは、木のクセに逆らいません。無理に曲げようとせず、そのクセを適材適所で生かします。自然の力(重力や木の強度)を計算し、味方につけます。 人生で困難にぶつかった時、私たちは力づくで(=釘で)ねじ伏せようとしたり、無理やり流れに逆らおうとしがちです。 しかし、千年の智慧は「無理に解決しようとしない」ことを教えてくれます。流れに身を任せ、自然の理(ことわり)に耳を澄まし、最適なタイミングを待つ。
結論:祈りながら「待つ」ということ
この考察で、私にとって最も心に響いた言葉が「祈りながら待つ」という感覚です。
清浄歓喜団は祈祷の供物でした。 寺社仏閣は祈りの場そのものです。 宮大工は祈るように木を組み、職人は祈るように菓子を作ります。
そして、彼らは「待ち」ます。
・塔を組むためのヒノキが育つのを、何百年も待ちます。
・木組みの技術が身につくまで、何十年も待ちます。
・そして、物事を成すための最適な「時」が来るのを、焦らずに待ちます。
現代社会は、あまりにも「待てない」社会です。 インスタントな結果を求め、効率、スピード、短期的な利益を最優先します。 しかし、清浄歓喜団や法隆寺が教えてくれるのは、それとは全く逆の価値観です。
✓ 天命(自分の素材)に従って生きる
✓ 本質(純度)を大切にする
✓ 時間をかけて磨き上げる
✓ 祈りを込める
✓ 自然と調和し、時を待つ
京都で出会った一口のお菓子は、私に「人生の設計図」とも言うべき壮大な哲学を示してくれました。
私たちは、自分自身の人生という作品において、安易な「釘」や「添加物」に頼ってはいないでしょうか。自分という「天然素材」の純度を信じ、ごまかしのない「木組み」を日々実践できているでしょうか。
千年の時を超えてきた本物の輝きに触れ、私は自らの生き方を深く見つめ直すきっかけをもらったのです。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役