先日、友人からの誘いを受け、私は沖縄の地に降り立った。抜けるような青空と独特のゆったりとした空気。友人に観光案内をしてもらいながら、南国の文化に触れる日々は実に刺激的だ。
観光地に行くと、必ずと言っていいほど目にするのが、その土地の「ご当地Tシャツ」である。ここ沖縄も例外ではない。国際通りや土産物屋、リゾートホテル、それどころか那覇空港に到着した瞬間から、ある特定のロゴが私の視界に何度も飛び込んでくる。
「オリオンビール」のTシャツだ。
これは、以前沖縄に来た時からずっと気になっていた現象だった。
もちろん、沖縄のTシャツとして「海人(うみんちゅ)」のような有名なものもある。しかし、オリオンビールのTシャツは、それらとは少し毛色が違う。なぜなら、それは一企業の「商品ロゴ」だからだ。
私は別にオリオンビールのTシャツが「欲しい」わけではない。私の疑問はもっと根本的なものだ。「なぜ、これほど多くの “観光客” が、特定のビールメーカーのロゴTシャツを着て街を歩いているのか?」
ふと疑問がよぎる。これほど多く見かけるのに、着ているのは観光客ばかりではないか? 地元・沖縄の人は、このTシャツを日常的に着ているのだろうか。
オリオンビールは数年前に外資系ファンドに買収されたと聞く。地元の人々にとって「県民ビール」であった誇りは、資本の変動によってどう変わったのだろうか。「外資系になったから、あえて着ない」という地元の人のプライドもあるかもしれない。
そう考えると、この現象は「沖縄県民」ではなく、明確に「観光客」をターゲットにした、極めて巧妙な戦略の結果なのではないか。
メーカーの名前が入ったTシャツを着て歩くということは、その企業の「宣伝をする」ということに等しい。プロ野球ファンが球団のユニフォームを着たり、かつて人々が高級百貨店の紙袋を持ち歩いたりしたのと同じ効果。
つまりは「ブランディング」だ。
「この人、オリオンビールのファン?」と一瞬思ってしまうが、おそらくそれだけではない。これは、オリオンビールという「企業のアイデンティティ」と、観光客の「沖縄に来た!」という「体験の証」が、Tシャツという一点で見事に合致した、賢いビジネス戦略なのだ。
第1章:オリオンビールとは何者か?
この疑問を解き明かすため、私はまず「オリオンビール」という企業そのものを再確認した。
オリオンビール株式会社は、1957年(昭和32年)、アメリカ統治下の沖縄で誕生した。第二次世界大戦で荒廃した沖縄の経済復興のため、「第二次産業を興さなければならない」という創業者・具志堅宗精氏らの強い志のもと、「沖縄ビール株式会社」として設立された。
社名の「オリオン」は、県民からの公募で決定された。
・オリオン座が南の星で沖縄のイメージにマッチすること。
・星が人々の夢や憧れを象徴すること。
・当時の米軍最高司令官の象徴が「スリースター」だったこと。
まさに沖縄の歴史と風土、そして時代背景を映し出したネーミングだ。
主力商品の「オリオンドラフト」は、沖縄の気候を考慮した爽快な喉ごしとマイルドな味わいが特徴。今や沖縄県内シェアは約50%超で第1位。「県民ビール」として、地元に深く、強く、愛され続けている。
オリオンビールは単なるビールメーカーではない。沖縄の復興と発展を支え、県民に愛され続けている「地域の象徴」的な企業なのだ。
第2章:戦略転換の裏側にある「資本の論理」
ここで、友人の言葉と私の仮説が結びつく。「オリオンビールは数年前に外資が買収した」。
地元に深く愛される「県民ビール」が、なぜこれほどアグレッシブな「観光客向け」とも思えるTシャツ戦略を展開するのか。その背景には、経営体制の劇的な変化があった。
2019年1月、野村ホールディングス系の投資ファンドと、米国カーライル・グループ系の投資ファンドが、オリオンビールを共同買収した。カーライル・グループといえば、世界最大級のアメリカの投資ファンドである。
この買収により、オリオンビールは実質的に外資系を含む投資ファンドの傘下に入った。
投資ファンドの目的は、企業価値を向上させ、最終的に利益(キャピタルゲイン)を得ることにある。伝統を守ることはもちろん重要だが、それ以上に、ブランド価値を最大化し、より効率的に収益を上げるための大胆な戦略が求められる。
「県民ビール」という盤石な地元基盤。この強力なブランドイメージを、地元だけに留めておく手はない。彼らプロの経営陣は、この「オリオン」というブランドを、沖縄県民の枠を超え、**「沖縄観光のシンボル」**として再定義し、マネタイズする戦略に打って出たのだ。
その後、2025年9月には東京証券取引所プライム市場へ上場。現在はアサヒビールが筆頭株主となり、カーライルや近鉄グループなども主要株主となる、極めて複合的な経営体制となっている。
この一連の資本の動きこそが、「地元愛」に加えて「観光客の獲得」という、新たな収益の柱を確立するための強力な推進力となっていることは間違いない。
第3章:売上30億円。Tシャツは「お土産」ではなく「IP事業」である
では、その「Tシャツ戦略」の実態はどのようなものなのか。これはもはや「お土産」のレベルではない。
驚くべきことに、オリオンビールのグッズ事業は、2024年度の販売総額が約30億円に達している。これは前年度比1.5倍という急成長であり、オリオンビールの連結売上高279億円(2025年3月期)の約1割を占める、極めて重要な事業に成長しているのだ。
この成功の裏には、巧妙なビジネスモデルがある。
オリオンビールは、これを「ライセンス事業(IP=知的財産 事業)」として展開している。つまり、自社でTシャツの在庫リスクを抱えるのではなく、アパレルメーカーなどにロゴの使用権を提供し、「ライセンス料」を得る形で収益化しているのだ。これはキャラクタービジネスと同じ、非常に利益率の高い効率的なモデルである。
では、なぜオリオンビールのTシャツは、これほどまでに「観光客に」売れるのか。
第一に、そのデザイン性だ。あの三ツ星と「Orion」のロゴは、視認性が高く、シンプルでありながら沖縄らしいリゾート感を醸し出す。
第二に、**「沖縄旅行の記念品・思い出の証」として定着したことだ。 SNS時代において、このTシャツは「沖縄に来た」という「非日常の体験」**を可視化するのに最適なアイテムなのだ。「#オリオンビール」「#沖縄旅行」といったハッシュタグと共に、数多くの写真が投稿される。
第三に、グループでおそろいのコーディネート(おそろコーデ)を楽しむのに最適であること。修学旅行生や友人グループが、同じTシャツを着て国際通りを歩く姿は、もはや沖縄の風物詩の一つだ。
地元の人にとってオリオンビールが「日常」であるのに対し、観光客にとってそれは**「非日常の象徴」**。このギャップにこそ、巨大なビジネスチャンスが眠っていたのだ。
第4章:なぜ観光客は「着る広告塔」になるのか?
ここで、私の最初の疑問に戻る。なぜ観光客は、一企業のロゴTシャツを喜んで買い、着て歩くのか。
私が連想した「プロ野球のグッズ」や「百貨店の紙袋」との比較は、まさに本質を突いていた。これは、NIKEやアディダスといったスポーツブランドが、自社のロゴをファッションアイコンにした戦略と全く同じだ。
❶ ロゴの記号化・文化的シンボル化
NIKEのスウッシュマークは「スポーツ」の象徴だ。同様に、オリオンビールのロゴは、観光客にとって「沖縄」「リゾート」「楽しい旅の思い出」の象徴へと昇華された。人々はビールを飲んでいるのではなく、「沖縄体験」という記号を身にまとっているのだ。
❷ 「旅の体験価値」の可視化
かつて、高級百貨店の紙袋を持つことは、「高級な店で買い物をした」という体験の証明だった。 オリオンビールのTシャツも同じだ。それを着ることは、「私は沖縄に行った」「沖縄で楽しい時間を過ごした」という旅の記憶を具現化し、他者に(そして自分自身に)証明する行為なのである。
❸ 消費者が「広告塔」になるビジネスモデル
これが最も恐るべき点だ。通常、企業は莫大な広告宣伝費を払う。しかし、この戦略では、観光客が自ら2,000円~4,000円程度のお金を払い、喜んで「着る広告塔」となってくれる。 彼らが地元に帰ってからもそのTシャツを着れば、沖縄を知らない人々にまで無料で宣伝することになる。
第5章:オリオン戦略の真の狙い
この戦略の最も巧みな点は、どこにあるのだろうか。
それは、「ビールを飲まない層」にもブランドを浸透させることにある。
少子化や若者のアルコール離れが進む中、ビール業界は厳しい。しかし、オリオンビールは、Tシャツという「観光IP」を通じて、未成年や普段お酒を飲まない層にも「オリオン」というブランド名を刷り込むことに成功した。
Tシャツをきっかけにオリオンブランドのファンになった若者が、20歳を過ぎたとき、初めて手にするビールは何になるだろうか? あるいは、地元の沖縄料理店でメニューを見たとき、無意識に「オリオンビール」を選んでしまうのではないか?
これは、本業であるビール事業の未来を見据えた、極めて高度な「将来顧客の育成」戦略なのである。
そしてもちろん、短期的にも、ビール事業を補完する巨大な収益源(売上の約1割)を確立した。製造リスクのないライセンス事業で30億円を稼ぎ出す仕組みは、まさにプロの経営陣が描いた高収益モデルだ。
結論
沖縄の街角で見た、あの無数のオリオンビールTシャツ。
それは「誰もが」着ているわけではなく、ましてや地元の人が日常的に着ている服でもなかった。
それは、沖縄の「県民ビール」という強力なブランド資産を、外資系ファンドや新たな経営陣が「観光客向けのIP(知的財産)」として再定義し、観光客の「旅の思い出」という感情的な価値を見事にマネタイズした、現代のブランド戦略の結晶だったのだ。
ロゴを単なる商標から「体験のシンボル」へと昇華させ、観光客を「ファン」であり「広告塔」へと変貌させる。
次に沖縄を訪れるとき、あの三ツ星のロゴが、私にはまた違ったものに見えることだろう。それは単なるビールの印ではなく、したたかで巧妙なビジネス戦略の成功の証として、観光客の笑顔と共に輝いて見えるはずだ。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役