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なぜここに?長州・萩で出会った伊能忠敬の測量器具~占星術と繋がる幕末のハイテク技術~

プロローグ:ミュージアムでの不思議な出会い

先日、幕末維新期の歴史や科学技術に触れることができる「幕末ミュージアム」を訪れました。そこはかつての長州藩の士教育の中心、明倫館があった場所。貴重な実物資料が並ぶ中、私の目はある一点に釘付けになりました。それは、伊能忠敬が使っていたという測量器具の展示でした。

精巧に作られたその器具は、鈍い金色に輝き、複雑な目盛りが刻まれています。しかし、ここで私の頭に一つの大きな疑問が浮かびました。

ご存知の通り、伊能忠敬は現在の千葉県の出身で、その偉業である全国測量は江戸幕府の事業として行われた人物です。彼自身に、ここ萩や長州藩との直接的な縁もゆかりもありません。

「なぜ、幕府の偉業を成し遂げた人物の道具が、倒幕の中心となった長州藩の教育の地に?」

この歴史のミスマッチとも思える事実に、私は強く心を惹かれました。敵対関係にあった幕府の事業であっても、その中にある先進技術を研究し、学ぼうとしていた長州藩の姿勢の表れなのでしょうか。この一つの器具が、単なる過去の道具ではなく、時代の大きなうねりを物語る証人のように思えてきたのです。

そして器具を眺めるうち、もう一つの連想が働きました。

「もしかして、占いの世界でもこんな器具を使っていたのではないだろうか?」

実は私、趣味で九星気学や算命学を学んでいます。星の動きや方位を読み解く占術の世界と、目の前の科学的な測量器具。一見、全く異なる両者が、この不思議な展示を介して私の頭の中で結びつきました。

この二つの疑問から、私の探求の旅は始まりました。そもそも、この器具を使っていた伊能忠敬とは、一体何者なのだろうか?

第一章:伊能忠敬とは何者か?~50歳からのセカンドライフ~

多くの方が「伊能忠敬」と聞いて思い浮かべるのは、「日本地図を作った人」というイメージでしょう。しかし、その人生は、私たちが想像する以上にドラマチックで、情熱に満ちたものでした。

商人として大成した前半生

伊能忠敬は、延享2年(1745年)、現在の千葉県九十九里町に生まれました。驚くべきことに、彼の人生の前半は測量とは全く無縁の世界にありました。17歳で下総国佐原(現在の千葉県香取市)の伊能家の婿養子に入ると、商人としての才能をいかんなく発揮します。家業であった酒造業や米の取引で大きな成功を収め、地域の発展に貢献する名主としても活躍しました。経営の才覚に長け、財を成し、人々からの信頼も厚い。まさに、順風満帆な人生でした。

そして49歳。彼は家督を長男に譲り、隠居します。当時の平均寿命が50歳前後であったことを考えると、これは悠々自適の余生を送るための決断でした。

50歳からの挑戦:天文学への道

しかし、忠敬はただの隠居で終わる男ではありませんでした。彼の心の中には、若い頃から抱き続けていた「天文学」への熱い想いが燻っていたのです。50歳にして、彼は江戸へ出ます。そして、当時最高の天文学者と謳われた幕府天文方・**高橋至時(たかはし よしとき)**の門を叩くのです。

19歳も年下の師匠に対し、忠敬は謙虚に教えを乞い、貪欲に知識を吸収していきました。周囲からは「良いご趣味ですね」と道楽のように見られたかもしれません。しかし、彼の情熱は本物でした。この時、忠敬は50歳。人生の新たな扉を、自らの手でこじ開けたのです。

第二章:日本を「歩いて」創る!驚異の測量技術

忠敬の天文学への探求は、やがて壮大なプロジェクトへと繋がっていきます。それは、自らの足で日本全国を歩き、国土の正確な姿を明らかにするという、前代未聞の事業でした。

17年間、地球1周分の旅

55歳から始まった測量の旅は、彼が71歳になるまでの17年間に及び、その回数は10回にもなりました。北は蝦夷地(北海道)から南は九州まで、彼が測量のために歩いた距離は、実に約4万キロメートル。これは、ほぼ地球1周分に相当する距離です。では、彼は一体どのようにして、これほど正確な地図を作り上げたのでしょうか。その方法は、驚くほど科学的で、緻密なシステムに裏打ちされていました。

忠敬を支えたハイテク測量術

伊能忠敬の測量は、主に3つの手法を組み合わせた、当時としては最先端のハイブリッドな方法でした。

[1] 導線法(どうせんほう) これは測量の基本となる方法で、いわば「点と線で地図を描く」手法です。まず、街道沿いなどに「梵天(ぼんてん)」と呼ばれる目印を立てます。そして、今いる場所から次の梵天までの方位を**杖先羅針盤(つえさきらしんばん)で測り、距離を間縄(けんなわ)鉄鎖(てっさ)**といった、現代の巻き尺にあたる道具で測定します。この「方位」と「距離」のデータをひたすら繋いでいくことで、海岸線や街道の形を写し取っていったのです。

[2] 交会法(こうかいほう) 導線法だけでは、どうしても小さな誤差が積み重なってしまいます。その誤差を発見し、修正するために用いられたのがこの交会法です。例えば、測量ルート上の複数の地点から、共通の目標物(富士山のような遠くの山や、お城の天守閣など)を見ます。そして、それぞれの地点から目標物への方位を測ります。地図上でその方位線を引いたとき、全ての線が1点で交われば測量は正確です。もし線がずれていれば、どこかの測定に誤差があることがわかるのです。

[3] 天文測量 そして、私の興味を引いたあの神秘的な器具**「象限儀(しょうげんぎ)」が活躍するのが、この天文測量です。導線法や交会法でわかるのは、あくまで相対的な位置関係です。地図全体を地球上の絶対的な位置に固定するためには、宇宙の基準が必要でした。忠敬は、象限儀を使って北極星などの天体の高さを精密に測定し、その土地の緯度**を割り出しました。この天文学的な裏付けがあったからこそ、伊能図は世界レベルの正確性を持つことができたのです。

こうして完成した**『大日本沿海輿地全図』**は、現代の衛星写真と比べてもほとんど遜色がないほどの驚異的な精度を誇ります。それはまさに、人間の知恵と情熱、そして不屈の精神が生み出した、汗と涙の結晶でした。

第三章:星を読む技術~測量と占いの意外な接点~

さて、ここで冒頭の私のもう一つの疑問に戻りましょう。「占いの世界でも、あのような器具を使っていたのではないか?」

この問いを探るうちに、伊能忠敬が生きた江戸時代の天文学が、現代の私たちが考える「科学」とは少し違う側面を持っていたことがわかってきました。実は、科学と占術は、かつて分かちがたく結びついていたのです。

天文学と占星術が同居した時代

江戸時代の天文学には、二つの大きな目的がありました。

・実用的な目的:正確な暦の作成、時刻の決定、そして伊能忠敬が行ったような測量や航海のため。

・占術的な目的:星の配置や天体の現象から吉凶を判断し、政治的な予言や個人の運勢を見ること。

当時、暦を作成する幕府の「天文方」と、古来から続く占術や祭祀を司る朝廷の「陰陽寮(おんみょうりょう)」が、それぞれ役割を分担しつつも共存していました。

「測る」と「占う」の共通点

つまり、伊能忠敬が学んだ天文学は、科学へと純化していく過渡期にあったのです。そして、測量術と占星術には、技術的な共通点がいくつも見られます。

[1] 星の位置の正確な把握:測量では北極星の位置から正確な方位を割り出します。一方、占星術でも星々の正確な位置関係から運命を読み解きます。どちらも、夜空を見上げ、星の座標を知ることが全ての始まりでした。

[2] 精密な時間測定:忠敬は星の南中時刻から経度を計算しました。占術においても、「いつ、どの星が、どの位置にあったか」という時間は吉凶を判断する上で最も重要な要素です。

[3] 高度な観測技術:太陽や恒星の高度を測る象限儀。その技術の源流を辿れば、惑星の動きを追い、未来を予測しようとした古代の占星術師たちの情熱に行き着くのかもしれません。

伊能忠敬の偉大さは、この天文学の知識と技術を、占術的な解釈から完全に切り離し、純粋に「国土の姿を明らかにする」という科学的な目的のために使い切った点にあります。彼にとって、星はもはや運命を告げる神秘的な存在ではなく、地上の一点を正確に定めるための、宇宙に設置された不動の目印だったのです。

第四章:地図が国を守った?~伊能図と黒船の伝説~

伊能忠敬の死後3年経った1821年、弟子たちの手によって『大日本沿海輿地全図』はついに完成します。この地図は、あまりの正確さから国家機密として厳重に管理されましたが、やがて世界を驚愕させることになります。

その評価の高さを物語る、有名なエピソードがあります。それは「伊能図がイギリスの日本攻撃計画を中止させた」というものです。

これは本当なのでしょうか?

事実として確認できること

・イギリス測量艦隊の驚き:1861年、開国後の日本にやってきたイギリスの測量艦隊は、幕府の役人が持っていた伊能図の一部を見て、そのあまりの正確さに衝撃を受け、「これほど精密な地図があるのなら、我々が測量する必要はない」と作業を中止した、という記録が残っています。

・西洋人の日本観の変化:当時の欧米諸国にとって、日本は「文明の遅れた国」というイメージでした。しかし、世界最高水準の地図を自国の力だけで作り上げていた事実は、彼らの日本観を根底から覆すのに十分なインパクトがありました。

誇張された伝説

一方で、「日本攻撃計画」があったという明確な歴史的資料は見つかっていません。当時のイギリスの測量の主な目的は、軍事侵攻のためというよりは、安全な通商航路を確保するための海図作成でした。

しかしこの伝説は、「伊能図の精度が、それほどまでに衝撃的だった」ことを何よりも雄弁に物語っています。伊能図は、日本の知的水準と国力を示す、強力な外交カードであり、目に見えない「防波堤」の役割を果たしたのかもしれません。

エピローグ:歴史の一片から学ぶこと

長州・萩の地での、一つの測量器具との出会い。それは、私を江戸時代への時空を超えた旅へと誘ってくれました。

伊能忠敬という一人の人間の生き様は、現代に生きる私たちに多くのことを教えてくれます。50歳から新しい学問に飛び込んだ挑戦心、客観的なデータに基づいて真実を追求した科学的な探究心、そして国家という公のために生涯の後半を捧げた献身

そして、最初に抱いた疑問―「なぜ、彼の器具が萩にあったのか?」―の答えもおぼろげながら見えてきた気がします。

それは、長州藩が、敵対する幕府の事業であっても、その中にある普遍的な科学技術の価値を見抜き、吸収しようとしていた進取の気性の表れだったのではないでしょうか。この飽くなき探究心と危機意識こそが、やがて時代を動かす大きな原動力になったのかもしれません。

一つの器具から、個人の偉業と、時代の大きなうねりの両方を感じることができた。そんな貴重な体験でした。

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髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役