はじめに:頼みの綱が切れた時、人は新しい扉を開く
中小企業診断士として全国を飛び回る日々ですが、地方出張における「足」の確保は、私の仕事の生命線と言っても過言ではありません。 これまでの私は、迷うことなく頑なな「レンタカー派」でした。
駅前や空港のカウンターでスタッフの方と「いってらっしゃいませ」と言葉を交わし、対面で説明を受け、物理的な鍵を掌に受け取る。その一連の「人間臭いプロセス」にこそ、安全と信頼がある。そう信じて疑わなかったからです。 デジタル化が進む現代においても、やはり最後は人と人。そんな古風な信念を持っていたのかもしれません。
しかし、今回の出張先では、その私の「いつもの流儀」が通用しませんでした。 ことの顛末はこうです。
現地での移動手段を確保するため、私はまず、「いつものあの店」に連絡を入れました。 それは、私が贔屓にしている、宿泊先まで配車サービスをしてくれる馴染みのレンタカー屋です。「いつものお願いします」と言えば通じる、私にとっての“安全地帯”のような存在でした。
ところが、電話口から返ってきたのは予想外の答えでした。 「申し訳ありません、その日は予約で満車でして……」
断られるとは思ってもいませんでした。私の計算はいきなり狂いました。 「困ったな。でもまあ、今の時代、スマホで探せば他のレンタカー屋くらいすぐ見つかるだろう」
私は気を取り直し、スマホを取り出して「現在地 レンタカー」で検索をかけました。 しかし、表示されたマップを見て愕然としました。 宿泊先周辺でヒットしたレンタカー店舗は、なんと数十キロも先。これでは、車を借りに行くために高いタクシー代を払って移動しなければならない本末転倒な状況です。
最後の手段としてホテルのフロントでの手配も検討しましたが、提示された金額は相場よりもかなり割高でした。
「いつもの店はダメ」「近くに店がない」「ホテル手配は高い」 この三重苦の包囲網の中で、私の手札は完全に尽きました。
途方に暮れながら、半ば諦め気味にスマホで「カーシェア」と検索してみました。するとどうでしょう。 宿泊先の目と鼻の先、徒歩数分のコインパーキングにステーションが見つかったのです。しかも、料金はレンタカーと比較してもリーズナブル。
「CITRASカーシェア」特にそのブランドのファンだったわけではありません。安さに惹かれたわけでもありません。 しかし、「立地」「コスト」「空き状況」というビジネス上の制約条件を並べた時、論理的な帰結として、これ以外の選択肢は存在しませんでした。 「妻がよくカーシェアを利用しているのを見ていたし、まあ要領はわかっているつもりだ」 そんな軽い気持ちで予約ボタンを押した私でしたが、この選択が、私のアナログな仕事観を大きく揺さぶる体験の入り口となったのです。
現場での立ち往生、そして「衝撃」
Web上での会員登録と予約プロセスは、驚くほどスムーズでした。 氏名、住所、生年月日、クレジットカード情報、そして運転免許証の画像をアップロードする。これらは最近のECサイトやWebサービスと同様のUIで、特に戸惑うこともありません。
問題は、予約当日。現地の駐車場に到着した時でした。
私は、指定された区画にポツンと停まっている車を前にして、立ち尽くしました。 「……鍵はどこだ?」
周囲を見渡しても、受付らしき小屋はありません。無人のコインパーキングです。 車のドアノブを確認し、タイヤの裏を覗き込み、キーボックスのようなものが設置されていないか、車体をくまなくチェックしました。しかし、物理的な鍵は見当たりません。
予約時間は刻一刻と過ぎていきます。 「まさか、どこかのポストに入っているのか? いや、そんなはずはない」 焦る気持ちを抑え、私は意を決してサポートセンターに電話をかけました。
「あの、すみません。初めて利用するのですが、鍵はどうやって開けるんでしょうか?」 私の問いかけに、オペレーターの方は非常に慣れた口調で、丁寧に教えてくれました。
「お車の窓、恐らく後部の窓の方に、カードリーダーがございます。そちらに、ご登録いただいたお客様の免許証を読み取らせてください」
「えっ、免許証ですか?」 耳を疑いました。半信半疑のまま、言われた通りに車体に設置されたQRコードリーダーのような小さな装置に、自分の運転免許証をかざしてみました。
……カシャッ。
静かな、しかし確かな機械音がして、ドアロックが解除されました。 その瞬間、私の心の中にあった「焦り」や「戸惑い」は、一瞬にして「ビジネス的な興奮」へと変わりました。
「これは……凄い」思わず声が漏れました。なんて画期的な仕組みなんだ、と。
「一石二鳥」どころではない、「三石四鳥」の革命
運転席に座り、エンジンをかけながら、私はコンサルタントの脳味噌をフル回転させていました。 この「免許証を鍵にする」というシステムの裏側にある、凄まじい合理性についてです。
車を運転するには、当然ながら「運転免許証」の携帯が法律で義務付けられています。 このシステムは、その「資格証明(免許証)」をそのまま「物理的な鍵(アクセス権)」として利用しているのです。
当初、私はこれを「本人確認と鍵の受け渡しが同時にできる一石二鳥のアイデアだ」と感心しました。 しかし、深く分析すればするほど、これは二鳥どころか、「三石四鳥」あるいはそれ以上の革命であることが見えてきました。
❶ 【資格と本人の同時認証】(コンプライアンス) 免許証を持っているということは、「本人であること」と「運転資格があること」を同時に証明します。物理的な鍵の場合、無免許の友人に貸してしまうリスクがありますが、このシステムなら「免許証を持っていない人間(=無資格者)」には物理的にドアを開けさせないという制御が可能です。
❷ 【物理鍵の管理コスト消滅】(業務効率化) レンタカー屋の業務の中で、最も神経を使うのが「鍵の管理」と「受け渡し」です。このシステムは、物理鍵の紛失リスクや、受け渡しのための対面時間をゼロにしました。
❸ 【圧倒的な低コスト構造】(損益分岐点の引き下げ) ここが最大の発明です。これまでのレンタカー屋は、「受付カウンター」と「事務所」と「人件費」が必須でした。しかし、この仕組みなら、必要なのは「駐車場代」と「システム維持費」のみ。固定費が劇的に下がります。
❹ 【24時間365日の稼働】(機会損失の排除) 店舗の「営業時間」という概念がなくなります。早朝でも深夜でも、ユーザーが借りたい時に借りられる。これは事業者にとっても、稼働率を最大化できる大きなメリットです。
消えたレンタカー屋と、産業構造の転換
ふと、今回の出張での出来事が、点と点で繋がりました。 「そういえば、私が以前よく使っていた地元のレンタカー屋も、最近なくなったな……」
今回、最初に連絡した馴染みの店が満車だったこと。そしてスマホ検索で近くに店が皆無だったこと。 これらは、単なる「たまたま」や「個別の事情」ではないのでしょう。
駅前の一等地に事務所を構え、常駐スタッフを置き、広い土地を確保しなければならない有人レンタカービジネス。その高コスト体質は、人手不足と地価高騰が続く現代において、維持するのが困難になりつつあります。 対して、カーシェアはコインパーキングの一角さえあれば、住宅街のど真ん中にでも展開できます。
今回の私のケースが象徴的です。 「数十キロ先の有人店舗」よりも、「徒歩圏内の無人カーシェア」の方が、物理的にユーザーに近い場所に存在できるのです。 コンビニが個人商店を飲み込んでいったように、この「三石四鳥」の無人化モデルが、旧来型のレンタカービジネスを駆逐していく未来。その不可逆的な流れを、私は肌で感じました。
「便利」の代償:プライバシーとセキュリティのパラダイムシフト
しかし、物事には必ず裏表があります。 リスク管理の視点からもこのシステムを解剖してみましょう。 私たちはこの圧倒的な利便性と引き換えに、かつてないほど詳細な個人データを事業者に「人質」として差し出しています。
・基本情報(氏名、住所、生年月日、免許証画像、免許番号)
・行動ログ(GPSによる移動履歴:どこに行き、どこに止まったか)
・運転特性(急ブレーキ、急発進、速度超過などのドライビングデータ)
・決済情報(クレジットカード情報)
これらがクラウド上のどこかに蓄積され、管理されているのです。
有人 vs 無人のセキュリティ比較
・有人の強み:人間の「直感」です。スタッフが対面した際、「この客は酒臭い」「挙動不審だ」「顔色が悪い」と感じれば、貸出を拒否できます。これは機械にはできない芸当です。
・無人の強み:デジタルの「堅牢性」と「記録」です。ICチップ認証は目視よりも偽造を見抜く力があり、誰がいつ利用したかというログは改ざん不可能な形で残ります。犯罪抑止や事故時の証拠能力としては、無人の方が優れている面もあります。
どちらが絶対的に安全とは言えません。しかし、私たち利用者は「自分の行動がすべてデジタルで監視・記録されている」という事実を認識した上で、サービスを利用する必要があります。
調査報告:この「認証革命」は他業界にも波及しているのか?
さて、この体験があまりに衝撃的だったため、私は帰宅後、ある仮説を持って市場調査を行いました。 「カーシェアでこれだけ普及しているのだから、シェアオフィスやコワーキングスペース、貸し会議室などでも、すでに『身分証=鍵』のモデルが一般化しているのではないか?」
特に、もっとも普及している公的身分証である「マイナンバーカード」などは、オフィスの入退室管理に最適ではないかと考えたのです。 しかし、調査の結果は私の予想を裏切るものでした。以下が、現在の導入状況のファクト(事実)です。
❶ 顔認証システム(先進事例だが、まだ一部) 東京・丸の内の「point 0 marunouchi」や福岡の「fabbit」など、一部の先進的なコワーキングスペースでは、パナソニックやSaffeの顔認証システムが導入されています。「顔パス」での入室は実現していますが、設備投資が必要なため、全体から見ればまだ少数派です。
❷ 交通系ICカード・スマホアプリ(現在の主流) 多くの施設では、SuicaやPASMOなどの「交通系ICカード」を登録するか、「Akerun」や「RemoteLOCK」といったスマートロックと連携したスマホアプリ(QRコード・暗証番号)による解錠が一般的です。三井不動産のシェアオフィスなどでも、ICカード連携が採用されています。
❸ マイナンバーカード(実はほとんど使われていない) 驚くべきことに、マイナンバーカードを商業施設の鍵として本格利用している事例は、現時点ではほぼ見当たりませんでした。 石川県加賀市などでLiquid社などが「手ぶら入退室」の実証実験を行っているものの、あくまで実験段階。商業ベースでの普及には至っていません。
なぜ、カーシェアだけが「身分証認証」で成功したのか? ここには明確な「普及の壁」が存在します。 車を運転するには免許証の携帯が「法的義務)」ですが、オフィス利用にマイナンバーカードの携帯は必須ではありません。 また、ユーザー心理として「個人情報の塊であるマイナンバーカードを民間のリーダーにかざすこと」への抵抗感も根強いのでしょう。 既存の「スマホ」や「Suica」で十分に便利であるため、わざわざ公的証を使う動機が薄いのです。つまり、私の「身分証=鍵が全業界に広がるだろう」という予測は、半分当たりで半分外れでした。 技術的には可能でも、「ユーザーの心理的ハードル」と「代替手段の利便性」が、普及のスピードを左右しているのです。
おわりに:未来は「体験」した者にしか見えない
今回の出張トラブルは、私にとって大きな学びの機会となりました。
「イノベーションの価値は、使ってみないと分からない」
もし今回、いつものレンタカー屋の予約がすんなり取れていたら、私はこの「免許証が鍵になる」という衝撃も、「三石四鳥」の合理性も、そして市場における認証技術の現在地も、知らないままでした。 まず「いつもの手段」が断たれ、次に「既存の代替案(他の店舗)」も物理的に不可能になり、追い込まれて初めて新しい選択肢を試した。その結果、技術革新の本質に触れることができたのです。
「いつもの店」が消え、無人カーシェアが台頭した現実。 今はまだ実験段階のマイナンバー認証や顔認証も、いつか必ず「当たり前」に変わる日が来るでしょう。
変化は、私たちが気づかないところで静かに、しかし確実に進んでいます。 アナログ派を自認する私ですが、コンサルタントとして、こうした変化の波を食わず嫌いせず、自ら飛び込んで体験することの重要性を、改めて痛感した出張となりました。皆さんも、もし出張先で「いつもの店」がなかったら、それは新しいテクノロジーに触れるチャンスかもしれません。ぜひ、その不便を楽しんでみてください。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役