東京出張の最終日。フライトまで数時間の空きができた。さて、どうしたものか。スマホで時間を潰そうと、いつものようにネットの海を漂っていると、ふと奇妙な言葉が目に飛び込んできた。
「 炎 上 展 」
池袋で開催されているらしいそのイベントの名を見て、僕の頭に真っ先に浮かんだのは、往年の名画『吉原炎上』だった。燃え盛る遊郭、業火に身を焦がす遊女たちの悲哀……。まさか、そんな情念渦巻く世界の展示会なのだろうか?いや、現代の池袋で?
しかし、リンクをタップして表示された内容に、僕の浅はかな想像は打ち砕かれた。そこに書かれていたのは、火事の「炎上」ではない。SNSで、記者会見で、日夜繰り広げられる、あの「炎上」だった。
「バズりたい。けど、燃えたくない。」
そんなキャッチコピーと共に、「体験会」という文字が躍る。炎上を、体験する?一体何をさせられるというのか。おそるおそる火中の栗を拾うような体験か、それとも罵詈雑言のシャワーを浴びせられるのだろうか。全く想像がつかない。
正直、気味が悪い。しかし、それ以上に好奇心が勝ってしまった。これも何かの縁だ。時間つぶしと、ほんの少しの野次馬根性を胸に、僕は池袋の雑踏へと足を向けたのだった。
第1章:潜入、炎上展。そこで僕が「体験」したもの
会場となった「Mixalive TOKYO」の4階に足を踏み入れると、平日の昼間ということもあってか、客足はまばらだった。どこかひんやりとした空気の中、僕は現代社会の病巣を覗き込むような、背徳的な高揚感を覚えていた。
会場内は、まさに「炎上」の博物館だった。
壁には、過去に世間を騒がせた数々の炎上事件が、まるで歴史上の出来事のようにパネル展示されている。スーパーのショッピングカートに乗った悪ふざけや、おでんを指でつつく事件。そして、企業の不祥事に対する記者会見での、火に油を注ぐような言葉の数々。
記憶に新しいものから、少し懐かしいものまで。一つ一つ見ていくうちに、当時の呆れや怒りが蘇ってくる。しかし、この展示の恐ろしいところは、それらをただの「事件簿」として見せない工夫が凝らされている点だ。
例えば、ショッピングカートのコーナーでは、本物のカートが置いてあり、実際にその上に乗ることができる。僕が見ている間にも、若いカップルなどが代わる代わるカートに乗り、楽しそうに写真を撮っていた。また、おでんのコーナーでは、蝋か何かでできたリアルなおでんが置いてあり、心ゆくまで「つんつん」しても誰にも咎められない。
自分が「炎上の主人公」の立場に立つことで、ほんの少しだけ、彼らの心理が理解できるような錯覚に陥る。
「これくらい、いいだろう」 「面白い写真を撮りたいだけ」
そんな軽い気持ちが、取り返しのつかない事態を招く。その境界線の曖昧さと危うさを、身をもって体感させられるのだ。
他にも、巧妙に作られたフィッシング詐欺メールの見分け方を学ぶコーナーや、様々なシチュエーションで「あなたならどうする?」と問いかけられるクイズ形式の展示など、コンテンツは多岐にわたる。
そして、この展示会のクライマックスが、最後に待ち受ける**「炎上診断」**だ。
表示された、たった一つの質問に答えると、自分が炎上に巻き込まれやすいタイプか、あるいは火種となりやすいタイプかが診断されるというもの。ドキドキしながら結果を待つ僕に、機械が下した診断は……。
「 TYPE GREEN 」
どうやら僕は「正常」の範囲内らしい。炎上に対するリテラシーも高く、冷静な判断ができるタイプとのこと。ホッと胸をなでおろした。自分はまともだった。そう安堵したのも束の間、僕はそのすぐ隣に張り出された一枚の紙を見て、凍りつくことになる。
第2章:驚愕の事実。来場者の83%は「炎上の火種」を抱えていた
そこに張り出されていたのは、この炎上展が始まってから昨日までの、全来場者の診断結果を集計した統計データだった。僕は自分の目を疑った。
【炎上診断 総合結果】
・TYPE BLACK(最も問題あり): 32%
・TYPE RED(次に問題あり): 37%
・TYPE YELLOW(やや問題あり): 14%
・TYPE GREEN(正常): 17%
なんと、僕が属する「正常」なTYPE GREENは、わずか17%。残りの83%もの人々が何らかの「異常」、つまり炎上の火種を抱えているという結果だったのだ。
特に衝撃的なのは、最も危険なTYPE BLACKと、次に危険なTYPE REDだけで、全体の約7割(69%)を占めているという事実だ。明日以降、この比率は変わっていくのだろう。しかし、それにしても異常な数字ではないか。
もちろん、こういう特殊なテーマの展示会にわざわざ足を運ぶ人々だ。もともとSNSでのトラブルに関心が高かったり、何らかの不安を抱えていたりする層が多いのかもしれない。「正常」で関心がない人は、そもそも来ない。そのバイアスを考慮したとしても、この数字はあまりに衝撃的だ。
僕の隣で診断結果を見ていたカップルも「え、ヤバくない?」「俺たち二人とも赤だ…」と小声で囁き合っている。
この空間にいる、僕以外のほとんどの人が、いつ炎上を引き起こしても、あるいは炎上に加担してもおかしくない「予備軍」だということになる。彼らは決して特殊な人ではない。僕と同じように街を歩き、電車に乗り、スマホを操る、ごく普通の人々だ。
なぜ、これほど多くの人が「炎上の火種」を抱えてしまっているのか。 この問いが、僕の頭の中でグルグルと回り始めた。これは単なる個人の資質の問題ではない。もっと根深い、社会全体の構造的な問題が横たわっているのではないか。
第3章:なぜ人は「炎上」に惹かれ、巻き込まれるのか?
炎上展を後にしてからも、あの83%という数字が頭から離れなかった。一体、彼らを(そして私たちを)駆り立てるものは何なのか。僕なりに考えてみた。
承認欲求という名の麻薬
一つは、心理学者マズローが提唱した「欲求5段階説」でいうところの、**「社会的欲求」と「承認欲求」**ではないだろうか。

人は誰しも、社会に属し、誰かとつながっていたい(社会的欲求)。そして、そのコミュニティの中で価値ある存在として認められたい(承認欲求)。かつて、その欲求は家族や地域社会、会社といったリアルな場で満たされてきた。
しかし、現代はどうだろう。地域のつながりは希薄になり、会社は成果主義で終身雇用も崩壊。家族の形も多様化し、多くの人が心のどこかに「孤独」や「承認への渇望」を抱えている。
その隙間を埋めるように現れたのが、SNSだ。 投稿すれば「いいね」がつく。コメントが寄せられる。フォロワーが増える。それは、まるで自分が社会から受け入れられ、愛されているかのような錯覚を与えてくれる。承認欲求を手軽に満たせる、甘い麻薬だ。
しかし、その麻薬は時として、人を狂わせる。より多くの「いいね」を、より強い刺激を求めて、行動はどんどん過激化していく。ショッピングカートに乗り、おでんをつんつんする。それは、ポジティブな形での承認が得られない人間が、**「ネガティブな形での承認(注目)」**に手を出す最終手段なのかもしれない。
この構造は、実は決して新しいものではない。親の気を引くために万引きを繰り返す非行少年。社会から疎外され、疑似家族的な絆を求めて暴力団に加入する若者。彼らの根底にあるのもまた、「愛されたい」「認められたい」という歪んだ承認欲求だ。
「無視されるくらいなら、嫌われた方がマシ」
炎上という行為の裏には、そんな悲しい叫びが聞こえてくるようだ。
コミュニケーション不全とリテラシー格差という構造
もう一つは、より構造的な問題だ。近年の研究では、炎上が起こる要因は、単なる個人の悪意だけでなく、「コミュニケーションの不足」と「知識(リテラシー)の不足」が複雑に絡み合っていることが指摘されている。
・起こす側(発信者)の要因:SNSは誰でも手軽に発信できるが、その手軽さゆえに、十分な説明や背景を省いた、言葉足らずな発信をしてしまいがちだ。文脈が切り取られ、意図しない形で誤解を招くリスクを常に孕んでいる。
・火をつける側(受信者)の要因:私たちは、自分が見たいもの、信じたいものだけを信じる「確証バイアス」という心理的特性を持っている。SNSのアルゴリズムは、その傾向を加速させる。同じ意見の仲間(エコーチェンバー)の中で、自分たちの「正義」を先鋭化させ、異論を許さない集団心理が生まれる。
つまり、炎上とは**「説明不足の発信者」と「知識不足の受信者」が出会うことで発生する、いわば「コミュニケーションの事故」**なのだ。そして、その事故を誘発し、被害を拡大させるのが、SNSというプラットフォームの特性(匿名性、拡散性)なのである。
これはもはや個人の問題ではない。現代社会が生み出した、深刻な「社会の病理」と言えるだろう。
第4章:炎上社会の根源へ。すべての道は「教育」と「余裕のなさ」に通ず
では、その病理の根源はどこにあるのか。僕は、二つのキーワードにたどり着いた。それは**「教育」と、現代日本を覆う「余裕のなさ」**だ。
「与えること」を教わらなかった私たち
今回の炎上展について考える中で、以前読んだある資料の内容が鮮明に蘇ってきた。それは、アメリカの義務教育に関するものだった。
アメリカの一部の学校では、**「コミュニティサービス」**という授業が年間120時間も義務付けられているという。子どもたちは、地域の老人ホームの手伝いをしたり、ホームレスへの食事提供を手伝ったりといったボランティア活動に従事し、それを履修しなければ卒業できない。
彼らは幼い頃から、見返りを求めず社会に**「与える(Give)」**ことを実践的に学ぶのだ。
しかし、こうした「与える」精神は、何も海外だけの専売特許ではない。これは戦前の日本でこそ当たり前に行われてきた価値観なのです。 「修身」の授業などを通じて、共同体への奉仕や滅私奉公といった考えが重んじられ、地域の清掃や助け合いが生活の中に根付いていました。
翻って、現代の日本の教育はどうだろうか。戦後の教育改革の中でそうした価値観は薄れ、私たちが教わってきたのは、テストで良い点を取ること、良い大学に入ること、良い会社に入ること。常に競争に晒され、他人を蹴落としてでも自分が上に行く**「奪う(Take)」**ことばかりではなかったか。
日本が本来持っていたはずの美徳を忘れ、「与える」ことを教わらなくなった結果が、「人助けランキング」で世界最低レベルという不名誉な現状に繋がっているのかもしれない。人助けをしようにも、その意味や価値を見失い、それどころか親切が仇になりかねない、疑心暗鬼な社会になってしまった。
他者への不寛容。自分と違う意見を許さない空気。「間違った正義感」の暴走。 炎上の根底に流れるこれらの感情は、「与える」という大切な価値観を失い、「奪う」ことばかりを考えてきた私たちの社会が生み出した、必然の帰結なのかもしれない。
余裕なき社会が生む、愛着不安の連鎖
そして、もう一つ。より根源的な問題として、現代日本社会全体を覆う**「余裕のなさ」**がある。
経済は長期にわたって停滞し、実質賃金は上がらない。共働きでなければ家計は成り立たず、親たちは時間的にも経済的にも、そして精神的にも追い詰められている。
この「余裕のなさ」は、確実に子育てに影響を与える。 親に心と時間の余裕がなければ、子どもと十分に向き合い、無償の愛情を注ぐことは難しい。結果として、子どもは安定した愛着関係を築けず、心の奥底に**「承認への渇望」と「愛着への不安」**を抱えたまま大人になる。
この連鎖は、悲劇的だ。
親世代の余裕不足 → 子どもへの愛情・関心不足 → 子どもの愛着不安、承認欲求不満 → 代替的な注目獲得行動(非行、炎上行為など)
炎上や非行は、子ども個人の問題ではない。その背景には、経済的・時間的に追い詰められ、子どもに十分な愛情を注ぐ余裕すらない親世代の苦悩がある。そしてそれは、個人の努力で解決できる問題ではなく、国家レベルでの構造的な問題なのだ。
フランスやスウェーデンといった国々は、手厚い家族政策や労働環境の改善といった総合的なアプローチで、この問題に取り組んできた。子育ては「個人の責任」ではなく「社会全体の責任」であるというコンセンサスのもと、国が率先して親たちが余裕を持てる環境を整備している。
教育だけ、経済だけ、減税だけといった部分的な対策では、この負の連鎖は断ち切れない。社会のシステム全体を、もう一度人間中心のものへとデザインし直す必要がある。
終わりに:あなたの心に「炎上の火種」はありませんか?
池袋の片隅で偶然出会った「炎上展」。それは、単なるゴシップの展示会ではなかった。現代日本が抱える孤独と承認欲求、コミュニケーション不全、そして社会全体の余裕のなさを映し出す、強烈な鏡だった。
来場者の83%が抱えていた「炎上の火種」。 それは決して、彼らだけが持つ特殊なものではない。競争社会に疲弊し、SNSの承認に慰めを見出し、他者への不寛容さを募らせる……。程度の差こそあれ、私たちの誰もが、心の中にその火種を宿しているのではないだろうか。
炎上を他人事として消費し、誰かを叩いて溜飲を下げるのは簡単だ。しかし、その指先が、いつ自分に向くとも限らない。
出張帰りの飛行機の中で、窓の外に広がる東京の夜景を見ながら、僕は考えていた。 この無数の光の一つ一つの下で、今この瞬間も、誰かが承認に飢え、誰かが言葉の刃に傷ついている。
まずは、自分の心の中の火種に気づくこと。そして、身の回りの人の心の渇きに、少しだけ想像力を働かせること。
炎上という社会の病理と向き合うために、私たち一人ひとりにできることは、そんな小さなことから始まるのかもしれない。そう、自分は「TYPE GREEN」だからと、安心している場合ではないのだ。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役