『キングダム』を観て、平和について考えた
— 戦争をなくすのは、正義ではなく制度かもしれない
先日、映画『キングダム』の最新作を観た。
私は漫画もアニメも見ているので、物語の流れはだいたい知っている。だから、初めて観る人のように、「この後どうなるんだろう」と驚いたり、展開そのものに感動したりすることは、正直あまりない。
それでも、実写映画には実写映画の良さがある。
漫画で描かれていた人物を、俳優がどう表現するのか。あの戦場を、どんな映像にするのか。登場人物の怒りや悲しみが、声や表情を通してどう伝わってくるのか。
今回は、山田裕貴さんが演じた万極が特に印象に残った。
万極は秦に対して、ものすごく深い恨みを抱いている。秦の側から見れば、恐ろしくて残酷な敵でしかない。
でも、万極の側から見れば違う。
自分たちの家族や仲間を奪った秦こそが、許せない相手なのだ。
その姿を見ていたら、物語の感想というよりも、戦争そのものについて考えてしまった。
そもそも、戦争はなぜ起こるのだろう。
戦争は、憎しみ合う人同士が始めるわけではない
戦争というと、互いに憎み合っている人たちが戦っているように見える。
でも実際には、戦場にいる一人ひとりが、最初から相手を憎んでいたわけではないと思う。
相手の名前も知らない。顔も知らない。会ったこともない。
それなのに、国が違う、軍が違うという理由で、ある日突然、敵と味方に分けられる。
兵士には兵士なりの事情がある。
家族を守りたい。
故郷を守りたい。
仲間を見捨てたくない。
自分たちの国を滅ぼされたくない。
亡くなった人たちの思いを無駄にしたくない。
多くの人は、自分が悪いことをしていると思って戦っているわけではない。
むしろ、自分たちこそが正しいと信じている。
ここが戦争の難しいところなんだと思う。
戦争は、単純な正義と悪の戦いではない。
それぞれが自分の正義を持ち、その正義同士がぶつかっている。
こちらにはこちらの正義がある。
相手には相手の正義がある。
どちらかが勝てば、負けた側には犠牲と恨みが残る。
その恨みが、また次の争いにつながる。
万極の恨みも、何もないところから生まれたものではない。
過去の戦争によって大切なものを奪われ、その傷が消えないまま残っている。傷が恨みに変わり、恨みが次の殺し合いを生む。
戦争は、戦場で終わるわけではない。
終わった後も、人の心の中で続いていく。
戦争をなくすために戦争をする
『キングダム』の嬴政は、中華を一つに統一することで、戦争をなくそうとする。
国がいくつもあり、それぞれが領土や権力を争うから戦争が続く。それなら一つの国にまとめ、共通の法で治めればいい。
考え方としては分かる。
でも、その統一を実現するためには、たくさんの国を武力で倒さなければならない。
戦争をなくすために、戦争をする。
これはものすごく大きな矛盾だと思う。
ただ、歴史を振り返ると、人類は何度も同じことを繰り返してきたのではないか。
平和のため。
自由のため。
国民を守るため。
秩序を取り戻すため。
戦争を始める側には、たいてい何かしらの大義がある。
実際、本当に危険が迫っていることもあるだろう。守らなければならないものもある。
でも、どれだけ立派な理由があっても、戦争が始まれば多くの人が命を失う。
町が壊れ、田畑が荒れ、食料がなくなり、家族が離れ離れになる。
平和のために始めた戦争が、新しい憎しみを作り、次の戦争の原因になる。
この矛盾から、人間はなかなか抜け出せない。
昔は貧しさ、今は欲や恐怖なのか
昔の戦争は、貧しさから起こったのではないかと思う。
土地が足りない。
水が足りない。
食料が足りない。
生きていくために必要なものが足りない。
自分たちが生き残るために、他人の土地や食料を奪う。
そう考えると、戦争にはある意味で切実な理由があったのかもしれない。
でも今は、昔より多くのものを作れるようになった。
食料も、技術も、富も増えている。
それでも戦争はなくならない。
今の争いには、単純な貧しさだけでなく、欲や恐怖が大きく関わっている気がする。
もっと資源が欲しい。
もっと影響力が欲しい。
今の地位を失いたくない。
相手より不利になりたくない。
持っているものを奪われたくない。
人間は、足りないから争うだけではない。
十分に持っていても、失うのが怖くて争う。
むしろ、持っているものが増えるほど、失う恐怖も大きくなるのかもしれない。
戦争をすると、もっと足りなくなる
資源が足りないから戦争をする。
でも戦争をすると、資源はもっと足りなくなる。
これも戦争の皮肉なところだ。
田畑は荒れる。
働いていた人が兵士になる。
道路や港が壊れる。
物が運べなくなる。
国のお金は、医療や教育ではなく、武器に使われる。
人々は住んでいた場所を追われる。
食料が欲しくて始めた戦争で、食料を作る場所が壊れてしまう。
土地を得るために始めた戦争で、その土地に人が住めなくなる。
戦争は資源を増やす方法ではなく、資源を焼いてしまう方法なんだと思う。
それでも人は戦争を始める。
なぜか。
たぶん、人間は長い目で見た損失よりも、目の前の恐怖に流されやすいからだ。
このままではやられる。
先に動かなければ負ける。
相手は約束を守らない。
自分たちだけ我慢するのは損だ。
不安が大きくなると、冷静に考えることが難しくなる。
どれだけ平和を願っていた人でも、自分や家族が危ないと思えば、強い行動を支持するかもしれない。
人間は、きれいごとだけでは動かない。
だからこそ、平和を人の心や道徳だけに任せてはいけないのだと思う。
日本は、争いにくい仕組みを作ってきた
日本も、昔から平和だったわけではない。
戦国時代には、大名同士が領土をめぐって争い、武士にとって人を斬ることは仕事の一つだった。
ところが徳川幕府ができると、大規模な国内戦争は長い間起こらなくなった。
もちろん、江戸時代にも飢饉はあった。貧しさもあった。厳しい身分制度や処罰もあった。
それでも、戦国時代のように、各地の大名が軍隊を率いて戦うことはなくなった。
それは、日本人が急に優しくなったからではない。
争いを起こしにくい仕組みが作られたからだ。
大名の力を管理する。
勝手に城を作らせない。
婚姻も自由にさせない。
参勤交代によって、力やお金が一か所にたまりすぎないようにする。
武力ではなく、法律や行政で社会を治める。
戦いたいと思っても、簡単には戦えない仕組みを作った。
日本が海に囲まれていたことも大きかったと思う。
大陸の国のように、長い国境線を接していない。
外国の軍隊が簡単に入ってくることはできない。海が天然の堀になっていた。
また、日本は雨が多く、水や森林、魚などの資源にも比較的恵まれていた。
もちろん飢饉もあったし、いつでも豊かだったわけではない。
でも、自然の条件に加えて、備蓄や流通、共同体の助け合いがあった。
足りない場所に物を運ぶ。
困っている人を村や町で支える。
不足がそのまま奪い合いにならないようにする。
日本は長い時間をかけて、そういう仕組みを作ってきたのかもしれない。
綱吉が変えようとしたもの
第五代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」は、犬を過剰に保護した悪い政策として語られることが多い。
たしかに、やり方には問題もあったのだと思う。
でも、単に犬を守るだけではなく、命を粗末にしない社会に変えようとした面もあったのではないか。
犬を殺してはいけない。
それなら、人を殺すのはもっといけないはずだ。
戦国時代の武士にとって、人を斬ることは手柄だった。
でも平和な時代になれば、もうその仕事は必要ない。
だからといって、人の感覚がすぐに変わるわけではない。
戦争が終わっても、戦国時代の価値観は人の中に残る。
そこで、まず外側のルールを変える。
殺すな。
傷つけるな。
命を粗末にするな。
最初は、罰せられるからやらないだけかもしれない。
でも、その状態が何世代も続けば、やがて「人を傷つけてはいけない」ということが社会の常識になる。
制度が行動を変える。
行動が習慣になる。
習慣が道徳になる。
この順番は、とても大切だと思う。
縄文時代から考える豊かさ
最近は、縄文時代の暮らしを見直す研究も増えている。
もちろん、縄文時代に争いがまったくなかったとは言えない。
人間同士の対立や暴力はあっただろう。
それでも、大規模な戦争は比較的少なかった可能性がある。
狩りや採集、漁をしながら暮らし、得たものを共同体で分ける。
必要以上に富をため込むことが少なければ、大きな財産や土地を奪い合う理由も生まれにくい。
だからといって、現代人が縄文時代の暮らしに戻ればいいという話ではない。
今の人口や都市、医療、技術を考えれば、同じ生活はできないし、戻る必要もない。
でも、豊かさとは何かを考え直すヒントにはなる。
多く持っていることが豊かさなのか。
それとも、困ったときに分けてもらえることが豊かさなのか。
何かあったときに、誰かが助けてくれる。
一人ですべてを抱えなくていい。
奪われる心配をしなくていい。
そういう安心も、立派な豊かさだと思う。
北欧は「分け合い」を仕組みにしている
今の社会で、分け合うことを制度にしている例として、北欧があると思う。
北欧は税金が高い。
その代わり、医療や教育、育児、失業、老後などを、社会全体で支える。
困った人を助けることを、個人の善意だけに任せていない。
お金に余裕のある人が、気が向いたときだけ寄付をするのではない。
税や社会保障という仕組みを通して、社会全体で分け合う。
つまり、道徳を制度にしている。
もちろん北欧も完璧ではない。
格差もある。移民の問題もある。孤独や税負担への不満もある。
それでも、人はいつも善意で動くわけではないという前提に立って、支え合う仕組みを作っている点は大きい。
「みんな優しくしましょう」と言うだけでは、社会は変わらない。
人間は、不安や恐怖が強くなれば、自分を守る方に動く。
だから、善人でなくても助け合えるようにする。
少しくらい自分勝手な人がいても、社会全体が壊れないようにする。
その方が現実的だと思う。
道徳より先に、制度を作る
人の心を変えるのは難しい。
考え方や価値観は、外から簡単には変えられない。
でも、行動を変える仕組みは作れる。
まず、争わなくても済む制度を作る。
奪わなくても生きられる制度を作る。
不安になったときに、助けを求められる制度を作る。
その中で生活するうちに、人の考え方も少しずつ変わる。
最初は、法律があるから暴力を振るわない。
次に、暴力を振るわないのが習慣になる。
そして最後には、暴力を振るうこと自体が恥ずかしい、許されないと感じるようになる。
外側の仕組みが、内側の価値観を作る。
反対に、悪い制度が続けば、人の心も荒れていく。
正直な人が損をする。
弱い人は放っておかれる。
困っても助けてもらえない。
そんな社会では、人は他人を信じなくなる。
自分だけが正直では損をする。
誰も助けてくれない。
奪われる前に奪うしかない。
そういう考えが広がれば、社会は不安定になる。
制度と道徳は、別々のものではない。
制度が行動を変え、行動が文化を作り、文化が制度を支える。
その循環が大切なんだと思う。
平和とは、人間を信じすぎないこと
平和というと、人の善意を信じることのように思える。
でも、平和な社会を作るには、人間を信じすぎないことも必要なのかもしれない。
人は恐怖に弱い。
不安になると、視野が狭くなる。
自分や家族を守るためなら、他人を傷つけることも正当化してしまう。
集団の中では、普段ならしないことまでしてしまう。
そういう人間の弱さを認めた上で、それでも大きな悲劇が起こらないようにする。
権力が集中しすぎないようにする。
困っている人を放置しない。
食料や資源を、一部の人だけが独占しない。
対立が起きたときに、武力以外の方法で解決できるようにする。
不満や恐怖が、憎しみに変わる前に受け止める。
そういう制度が、平和を支えるのだと思う。
平和とは、すべての人が善人になることではない。
怒る人もいる。
欲深い人もいる。
間違う人もいる。
それでも、その怒りや欲や間違いが、すぐに殺し合いにならない社会を作ること。
それが、本当の平和の設計なのではないか。
奪い合うのではなく、分け合う
戦争をなくすために、強い正義を一つ作ればいいわけではない。
正義は、人を救うこともある。
でも、自分だけが正しいと思った正義は、相手を敵にする。
正義と正義がぶつかれば、争いは終わらない。
だから必要なのは、誰が正しいかを決めることよりも、考え方が違っていても共に生きられる仕組みを作ることだと思う。
資源を奪い合わない。
足りないときには分け合う。
誰かが極端な貧困や恐怖に追い込まれないようにする。
相手を倒さなければ、自分が生きられないという状況を作らない。
人間から欲や恐怖をなくすことはできない。
でも、欲や恐怖が暴走しにくい社会を作ることはできる。
映画『キングダム』を観ながら、そんなことを考えた。
戦争をなくすのは、強い正義ではないのかもしれない。
必要なのは、正義を振りかざさなくても生きていける安心なのだと思う。
困ったときには助けてもらえる。
不足したときには分けてもらえる。
自分だけが一方的に犠牲にならなくていい。
そう思える社会なら、人は少しだけ恐怖から自由になれる。
平和とは、人間の心が完全に美しくなることではない。
人間の弱さを認め、それでも奪い合わずに済む仕組みを作ること。
戦争をなくすのは、正義ではなく制度かもしれない。
そして制度の目的は、人間を縛ることではない。 恐怖に流されやすい人間が、それでも他人と分け合い、一緒に生きていけるように支えることなのだと思う。
