ある講演会でのことでした。 登壇者が会場に向かって、静かに、しかし力強くこう問いかけました。
「みなさんは、『他人に迷惑をかけるな』という言葉の、本当の意味を知っていますか?」
その瞬間、私の心臓がドクリと大きく波打ったのを覚えています。 それは単なる道徳の話ではありませんでした。私が長年背負ってきた「看板」の裏側を、不意にめくられたような衝撃だったからです。今日は、私が長年囚われてきたある言葉と、その呪縛から解き放たれ、本当の意味で自分の人生を生き始めた瞬間の話をしたいと思います。もしあなたが、真面目に生きているのにどこか息苦しい、何かが突き抜けきれないと感じているなら、この話はきっとあなたのためのものです。
父からの「遺言」
私には、人生の指針としてきた言葉があります。 それは、私が大学に合格した時のことです。厳格だった父が、私に向かってこう言いました。
「もう、お前に言うことは何もない。これからは自分の考えで生きろ」
そして、一呼吸置いてから、こう付け加えたのです。
「ただ、他人には迷惑をかけるな」
これが、父から私への最後のアドバイスとなりました。それから数年後、父は他界しました。結果として、この「他人に迷惑をかけるな」という言葉は、私の中で父の遺言のように重く、そして絶対的な響きを持って刻み込まれることになったのです。
亡き父との約束。それは何があっても破ってはいけない、鉄の掟でした。
「良き社会人」という檻
それからの私は、この言葉を文字通り、そして少しばかり窮屈に解釈して生きてきました。
「他人に迷惑をかけるな」
それは、社会生活における最低限のマナーを守ることを意味していました。 例えば、遅刻をしないこと。約束は必ず守ること。借りたものは返すこと。他人が嫌がるような言動を慎むこと。 社会人として、大人として、それは当然の振る舞いです。私はこの教えを忠実に守り、自分を律してきました。
その結果、どうなったか。 確かに、周囲からの「信用」は得られたと思います。「あの人はちゃんとしている」「任せて安心だ」。そんな評価を積み重ねることで、仕事も人間関係も、ある程度は順調に進んできました。
しかし、ここ数年、ふと立ち止まる瞬間が増えていました。 鏡に映る自分を見つめながら、心のどこかで違和感がくすぶっていたのです。
「自分は、自分を制御しすぎているのではないか?」 「信用は手に入れたけれど、一皮むけていないのではないか?」
真面目で、規律正しく、誰にも文句を言われない生き方。それは安全で快適な道かもしれません。しかし、そこには「突き抜けた何か」が欠けていました。まるで、見えない透明な箱の中に閉じ込められているような感覚。
私は気づき始めていました。父の言葉を守ろうとするあまり、私は「他人に迷惑をかけないこと」自体を目的にしてしまい、その行為に囚われてしまっていたのです。
「とらわれ」が思考を停止させる
「とらわれ」とは、恐ろしいものです。 何かに執着し、過度に恐れる心は、私たちの思考を停止させます。
「これをやったら、誰かが不快に思うかもしれない」 「あんなことを言ったら、迷惑だと思われるかもしれない」
そうやってフィルターをかけるたびに、私の脳内で生まれた自由な発想や、突飛だけれど面白いアイデアは、瞬時に却下されていきました。 「迷惑をかけない」という大義名分の下で、私は無意識のうちに自分の限界を自分で決めてしまっていたのです。
リスクを冒さないこと。波風を立てないこと。それは平穏ですが、同時に停滞でもあります。 思考が止まれば、成長も止まります。 「一皮むけていない」という感覚の正体は、まさにこの「思考の自己検閲」にあったのです。
そんなモヤモヤとした閉塞感を感じていた矢先に出会ったのが、冒頭の講演会での問いかけでした。
本当の意味を知った衝撃
「他人に迷惑をかけるな」の本当の意味。 その答えを聞いた時、私の目の前の霧がサーッと晴れていくような、鮮烈な感覚を覚えました。それは、あまりにも斬新で、そしてあまりにも温かい解釈でした。
講師はこう言いました。
「人様に迷惑をかけるなとは、人の『生きる力』を奪うな、という意味です」
遅刻やマナー違反といった次元の話ではありませんでした。 もっと根源的な、生命のエネルギーについての話だったのです。
人の生きる力を奪うこと。 それは例えば、誰かの希望を否定すること。 誰かの挑戦を嘲笑うこと。 暴力や言葉で、誰かの尊厳を踏みにじること。 相手から「明日も頑張ろう」という気力を奪い去るような行為全般を指していたのです。この定義に照らし合わせた時、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。 そして、「もっと早く知りたかった」と悔しくさえ思いました。
積極的な「自由」への転換
もし、「迷惑をかけるな」の意味が「人の生きる力を奪うな」であるならば、これまでの私の解釈はあまりにも狭いものでした。
私は今まで、「マイナスを出さないこと(=嫌なことをしない)」に全力を注いできました。 しかし、新しい解釈によれば、重要なのは「相手の活力を削がないこと」です。
そうであれば、むしろ逆説的に、もっと自由であっていいのではないか? そう思えたのです。
自分のやりたいことを思い切りやって、生き生きと輝いている人を見て、不快に思う人もいるかもしれません。「調子に乗っている」と眉をひそめる人もいるかもしれません。 かつての私なら、それを「迷惑」と捉えて萎縮していたでしょう。
しかし、私が自由に挑戦し、楽しそうに生きることで、もし誰かが「あんな生き方もできるんだ」「自分もやってみようかな」と少しでも元気になれるなら。 それは決して「生きる力を奪う」行為ではありません。むしろ、「生きる力を与える」行為になり得るのです。
遅刻やマナーといった形式的な「迷惑」を恐れて小さくまとまるよりも、多少のわがままを通しても、圧倒的なエネルギーで周囲を照らすこと。 それこそが、父が本当に言いたかったことなのかもしれません。
「自分の考えで生きろ」
父の言葉の前半部分は、まさにこのことを指していたのではないでしょうか。自分の頭で考え、自分の足で立ち、その生命力を燃焼させて生きること。それこそが、他人の生きる力を奪わない、最も尊い生き方なのです。
「わがまま」という名の希望
この気づきを得てから、私の中で「仕事」に対する定義も変わりました。
私はこれからも、人に希望を与えていく仕事をしていきたい。強くそう思います。 そのためには、私自身が誰よりも希望に満ちていなければなりません。 私自身が、誰よりも自由でなければなりません。
「わがまま」という言葉は、しばしば否定的に使われます。 しかし、漢字で書けば「我がまま」。つまり、「ありのままの自分」ということです。
私が「我がまま」に生き、自分の人生を心から楽しむこと。 その姿を見せること自体が、誰かにとっての光になる。 「あんなに自由に生きていいんだ」という許可証になる。
そう考えるようになってから、肩の力が抜けました。 過度な自己制御というブレーキを外し、アクセルを踏み込む勇気が湧いてきました。 今まで「迷惑になるかも」と押し殺していた言葉やアイデアを、これからは世に出していこうと思います。
亡き父へのアンサー
今、天国の父に改めて伝えたいと思います。
「親父、やっと分かったよ」と。
他人に迷惑をかけないとは、小さく縮こまって生きることじゃなかったんだね。 誰かの足を引っ張ったり、誰かのやる気を削いだりするような、そんな卑屈な人間になるなということだったんだね。
だから私は、これからはもっと大胆に生きます。 時に失敗し、時に誰かを驚かせるかもしれないけれど、私の生き様が誰かの「生きる力」になるように。 それこそが、父の遺言を本当に守ることだと確信しているからです。
あなたの「リミッター」を外すとき
ここまで読んでくださったあなたへ。
あなたもまた、「いい人」であろうとして、自分を縛り付けてはいませんか? 「迷惑をかけないように」と、自分の可能性という翼を折りたたんではいませんか?
もしそうなら、今日、今この瞬間から、その定義を書き換えてみてください。 あなたが誰かの生きる力を奪わない限り、あなたはもっと自由でいいのです。 もっと言いたいことを言い、やりたいことをやり、自分らしく生きていいのです。
あなたの心が自由になり、生き生きと輝き始めた時、それは決して誰かの迷惑にはなりません。 むしろ、その輝きは周囲を照らす灯台となります。
とらわれを捨て、思考の停止から抜け出しましょう。 私たちが自分自身にかけたリミッターを外す時、世界はもっと鮮やかで、可能性に満ちた場所へと変わるはずです。
「人の生きる力を奪うな」
この新しい、そして本質的な指針を胸に、私はこれからも歩んでいきます。 誰かの希望となるために、まずは私自身が、最高にわがままに、最高に自由に生きていく。
それが、私が見つけた「本当の意味」です。 さあ、あなたも一緒に、一皮むけた新しい自分に会いに行きませんか?

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役