――福岡・立花高校の校長講演を聞いて(改訂版・全文)
先日、福岡にある立花高校(たちばなこうこう)の校長先生の講演を聴く機会があった。
実はこれが2回目だ。それでも、いや、2回目だからこそ、また胸を打たれた。話の内容が素晴らしいというだけではない。こちらの人生や視点が少し変わると、同じ言葉でも刺さる場所が変わる。だから感動は深くなる。
そして今回も、私は確信に近いものを抱いた。
この学校の考え方は、ただの「学校紹介」では終わらない。いまの日本が抱える課題――とくに「多様性を受け入れる」というテーマに対して、現場で答えを出し続けている“最前線”なのだと思う。
8割が元不登校経験者――入口からして、普通とは違う
校長先生が語った学校の現状は、最初から常識を揺さぶるものだった。
立花高校には元不登校経験者が多く在籍しており、割合で言えば 8割 にのぼるという。
学校に行けなかった子が、学校に集まっている。
言葉にするとシンプルだが、そこに至るまでには、彼らが抱えてきた葛藤や孤立、自己否定がある。学校に馴染めなかった経験は、本人の中に「自分はダメだ」という感覚を刻みやすい。大人が思う以上に、それは深い傷になる。
講演の中では、通知表の評価が振るわず、一般的な高校受験の土俵に乗れない子もいるという話もあった。
ただ、校長先生の語りは「子どもが悪い」という方向ではなく、むしろ**“仕組みの側が取りこぼしてきた”という視点だった。ここが大きい。
世の中には昔から、学校に適応しづらい子は一定数いた。
けれど今は、その数が増えているのか、あるいは「見える化」されてきたのか。どちらにせよ、現実として“合わない子”が増えている。そこに対して、受け皿を真正面からつくっているのがこの学校なのだと感じた。
3年間で85%が卒業する――私はそこに「再生」を見た
さらに驚いたのは、そのような生徒が通いながら、3年間で卒業する割合が85% だという話だった。
ここで大切なのは、「卒業率が高い」ことだけではない。
講演を聞きながら、私はこの学校の取り組みを表す言葉として、自然と「再生」という言葉が浮かんだ。
なぜなら、そこにいる子たちは「正しく矯正されるべき存在」ではなく、
疲れていたり、傷ついていたり、自信を失っていたりして、いったん立ち止まっただけの子も多いように感じたからだ。
だから最初に必要なのは、正しさの押し付けではなく、回復の土台づくりなのだと思った。
この学校には、3年で卒業できない子もいるそうだ。
けれど校長先生はそれを否定しない。「それはそれでいい」と受け止めるという。
この姿勢に、私は“その子の時間を尊重する”という強いメッセージを感じた。
現代社会は、スピードが正義になりやすい。
早く結果を出すこと、早く追いつくこと、早く同じになれることが“良い”とされる。けれど回復には個人差がある。誰かの1年が、別の誰かにとっては3年かもしれない。その事実を、社会は意外と受け入れられない。
立花高校のテーマは、「ゆっくり、まったり、のんびり」。
一見、甘い言葉にも聞こえる。だが私はむしろ、ここに強さがあると思った。
ゆっくりは、放置ではない。
まったりは、諦めではない。
のんびりは、無責任ではない。
それは、回復のための設計であり、私はそこに“再生”の思想を見た。
教室に時計が2つある理由――大人の「決めつけ」が子どもを壊す
講演で最も心に残ったのは、「時計の話」だった。
立花高校の教室には、時計が2つあるという。
なぜ時計が2つ必要なのか。理由はシンプルで、衝撃的だった。
時計の針を読めない子がいるから。
針の時計が読めない。
だから時間が分からない。
だから遅刻する。
ここで、多くの大人はこう決めつけてしまう。
「だらしない」
「やる気がない」
「甘えている」
「時間くらい分かるだろう」
そして叱る。責める。正そうとする。
しかし校長先生は、そこで問いを投げる。
その“決めつけ”が、子どもをダメにしていないか?
実際、その子の背景を調べたら、発達障害の特性(病気)を持っていたという(※校長講演での説明)。
つまり遅刻は、性格や根性の問題ではなく、認知特性の問題だった。
ここには、教育論というより、人間理解の核心がある。
●子どもは本来、悪くない
●“できない理由”があることがある
●それを理解せずに叱ると、子どもは「自分はダメだ」と思い込む
●自己肯定感が削れ、ますます動けなくなる
立花高校がすごいのは、「遅刻を許す学校」だからではない。
叱る前に、環境側を変えるという発想を持っていることだ。
時計を2つにする。
見方が違う子に合わせて、世界のほうを少し調整する。
それだけで救われる子がいる。
大人はつい、「普通はこうだ」「みんなできる」と思ってしまう。
だが、その“普通”が、誰かにとっては壁になる。そしてその壁を越えられない子が、「怠け者」や「問題児」にされてしまう。
私はこの話を聞いて、学校だけでなく、会社や家庭、社会全体にも当てはまると思った。
“当たり前”の押し付けは、ときに人を追い詰める。私たちは、自分の基準で、知らないうちに誰かを裁いてはいないだろうか。
先生が異業種交流会にいた理由――希望を渡しに外へ出る大人
もう一つ、別の日に心が熱くなった出来事がある。
立花高校の先生が、企業が集まる異業種交流会に参加されていたのだ。
「先生が、なぜここに?」と不思議に思って理由を聞いた。
すると返ってきたのは、こういう言葉だった。
「少しでもいい企業の話を聞いて、生徒に“世の中にはこんないい会社がある”って教えたいんです。」
正直、胸が熱くなった。
“学校の先生”という枠を超えて、生徒の未来のために外へ出ていく。
しかも目的が「就職先を斡旋する」とか「進路実績を作る」とか、そういう学校都合の話ではない。
もっと根っこのところ――
●世の中は怖いだけじゃない
●大人は敵ばかりじゃない
●働くことは罰ではない
●ちゃんと人を大事にする会社もある
そういう希望を、子どもに渡そうとしているのだと思った。
私はそのとき感じた。
学校の考え方が良いと、先生も良くなるのかもしれない、と。
もちろん先生個人の人間性もある。
でもそれ以上に、学校が「子どもを信じる」「決めつけない」「回復を待つ」文化を持っていると、先生は“生徒のための行動”を選びやすくなるのではないか。
子どもを変える前に、環境を変える。
環境が変わると、大人の行動が変わる。
大人の行動が変わると、子どもはもう一度世界を信じられる。
立花高校の話を聞いていると、私はいつもその循環を感じる。
昔はバカにされた学校が、いま希望者が増え続ける理由
校長先生はこうも語っていた。
昔は「名前さえ書けば受かる学校」と言われ、バカにされた時期があった、と。
ところが今は、入学希望者が年々増えている。定員を大きく超えるほどに集まり、最近では「普通の学校に行けるのであれば、そちらに行ってください」と断らざるを得ない局面もあるという(※校長講演での説明)。
本当は全員を受け入れたい。
けれど受け入れられない。だから落とさなければならない生徒が出てくる。それが悔しい――校長先生はそう語った。
私は、この話に「学校の成功物語」以上の意味を感じた。
それは、社会の変化を示している。
昔は、“当たり前の学校”に適応できる子が多かった。
だが今は、その当たり前に合わない子が増えている。そして合わない側が増えると、合わない側のための仕組みが「例外」ではなく「最先端」になる。
子どもが敏感になったのではない。社会が変わったのだ
私はよく、「最近の子どもは繊細だ」「打たれ弱い」といった言葉を聞く。
だが講演を聴いて、私は逆だと思った。
子どもが弱くなったのではない。
社会の仕組みが変わっているのに、学校の設計が追いついていないのではないか。
●正解が一つではない時代に、正解を早く選べと迫られる
●多様性と言いながら、同じ行動を求められる
●心が追いつかないのに、スピードだけが上がっていく
●「頑張れ」は善なのに、「回復」は評価されにくい
こういうねじれに、子どものほうが先に反応している。
子どもは社会の変化に一番敏感なセンサーなのかもしれない。
だからこそ、立花高校のような学校が支持される。
これは教育の話に見えて、実は「社会のOSが更新された」という話だ。
結び――多様性は「言葉」ではなく「設計」だ
立花高校の校長先生の話を聞いたのは2回目だが、いつも感動する。
同じ話でも、こちらの変化によって受け取り方が変わる。だから何度でも胸を打つ。
いま日本では「多様性を受け入れること」が課題だと言われる。
しかし現実には、多様性という言葉は便利に使われる一方で、日常の現場では“当たり前”が強すぎる。そしてその当たり前に合わない人が、静かに削られていく。
立花高校のすごさは、理想論で「多様性が大事」と言うのではなく、
多様性がある前提で、学校の仕組みを作り直していることだ。
叱る前に、背景を見る。
裁く前に、環境を変える。
「できない」は怠慢ではなく、特性かもしれない。
「遅い」は失敗ではなく、回復の速度かもしれない。
そして、その姿勢は校長先生だけのものではない。
先生が異業種交流会にまで出向き、「世の中にはいい会社がある」と生徒に伝えようとする。
そんな大人の背中を見たら、子どもはもう一度世界を信じられる。私はそう思う。
多様性を受け入れる社会への変化は、制度やスローガンだけでは進まない。
必要なのは、「人を変える」より先に「仕組みを変える」という具体的な姿勢だ。
そして、そのヒントが立花高校の考え方の中にある。
むしろ、ここにこそ日本が変わるカギがあるのではないか――私は校長先生の話を聞くたびに、そんな確信に近いものを持つ。
多様性とは、言葉ではなく設計だ。
子どもを変える前に、私たち大人の“当たり前”を更新する時期に来ている。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役