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差があることは、本当に悪いことなのか

先日の講演で、こんな言葉を聞いた。
「差があって、別があるのが社会だ」
なるほど、その通りだと思った。

人はそれぞれ違う。
能力も違えば、性格も違う。
得意なこともあれば、苦手なこともある。
育ってきた環境も違えば、考え方も違う。
同じ人間など、本当は一人もいない。

それなのに私たちは、ときどき「みんな同じであるべきだ」という前提で人を見てしまう。
そして、同じでない現実に触れたとき、そこに優劣をつけ、比べ、傷つき、時には分断してしまう。
けれど本当に問題なのは、差があることそのものなのだろうか。
むしろ問題なのは、差のある人間を一つの物差しで測ろうとすることではないか。
私は最近、そんなことをよく考える。

「差別」という言葉には、強い悪いイメージがある。
それは当然だと思う。
差別という言葉は、多くの場合、見下し、排除、不当な扱いと結びついて使われてきたからだ。
人の尊厳を傷つけ、機会を奪い、深い苦しみを生んできた歴史を思えば、「差別はよくない」という結論に異論はない。

ただ、ここで一つ丁寧に分けて考えたいことがある。
それは、差があることと、差を理由に人の価値を下げることは、同じではないということだ。

人に差があるのは自然である。
いや、自然というより、当然である。
別々の人間なのだから、違いがあるのは当たり前だ。
足の速い人もいれば、じっくり考える人もいる。
人前で話すのが得意な人もいれば、誰かの話を深く受け止めるのが得意な人もいる。
新しいことを次々思いつく人もいれば、最後まで地道にやりきる人もいる。
どちらが上でどちらが下というより、まず役割や特性が違うのである。

ところが社会の中では、この「違い」がしばしば「優劣」に変わってしまう。
なぜか。
それは、多くの場合、人を一つの物差しで見ようとするからだと思う。

学校なら点数。
会社なら売上や役職。
社会なら学歴や年収、肩書き。
もちろん、何らかの基準が必要な場面はある。
それ自体を全面的に否定するつもりはない。
だが、本来多面的な存在である人間を、たった一つの尺度で測ろうとすると、無理が生じる。

たとえば、営業で成果を上げる人はわかりやすく評価されやすい。
一方で、組織の空気を整えたり、困っている人に気づいて支えたり、細かいところまで丁寧に確認してミスを防いだりする人の価値は、数字だけでは見えにくい。
しかし実際には、そういう人がいるから組織は回る。
そういう人がいるから、安心して前に出られる人もいる。
にもかかわらず、見えやすい成果だけで人を判断すると、「目立つ人だけが価値がある」という誤解が生まれやすい。

これは学校でも家庭でも、友人関係でも同じかもしれない。
勉強ができる人が評価されやすい場所では、手先が器用な人、空気を読める人、人を安心させる人、場を明るくできる人の価値は見えにくくなる。
だが、社会に出れば、むしろそうした力に助けられる場面はたくさんある。
結局のところ、一つの物差しでは人は測れないのである。

私はさらに、こんなふうにも感じている。
人は、生まれるまでは平等なのかもしれない。
しかし、生まれた瞬間から平等ではなくなる。

どんな家に生まれるか。
どんな親のもとに生まれるか。
どんな地域に生まれるか。
どんな体質や気質を持って生まれるか。
健康に恵まれるか、そうでないか。
人に好かれやすい明るさを持つか、繊細で傷つきやすい感受性を持つか。
これらは自分で選んだものではない。
そして、その違いは人生に少なからず影響する。

この意味で、人は平等ではない。
同じ条件で人生を始めるわけではない。
そこはきれいごとでは済まされない現実だと思う。

けれど、だからといって希望がないわけではない。
むしろ、平等ではないからこそ大切になるものがある。
それが公平という考え方だ。

平等と公平は、似ているようで違う。
平等とは、全員を同じように扱うこと。
公平とは、その人の置かれた状況や違いを踏まえたうえで、ふさわしく向き合うことだと思う。

背の違う人たちに、同じ高さの踏み台を渡すのは平等かもしれない。
しかし、それでは高い壁の向こうが見える人と見えない人が出てくる。
一方で、背の低い人には少し高い台を、背の高い人には低い台を渡して、皆が壁の向こうを見られるようにするのが公平である。

社会も本来はそうなのではないか。
人は同じではない。
同じでない人たちに、ただ同じことだけを求めれば、かえって苦しくなる人が増える。
必要なのは、違いをなかったことにすることではない。
違いを見たうえで、尊厳を守り、役割を活かし、互いに生きやすくすることだと思う。

ただ現実には、この「違いを見る」ということがとても難しい。
なぜなら、人はそれほど簡単に自分と相手の違いを理解できないからだ。
頭では「人は皆違う」とわかっていても、心の中ではつい比較してしまう。
そしてその比較は、しばしば苦しさを生む。

自分よりできる人を見ると、焦る。
自分にないものを持っている人を見ると、羨ましくなる。
ときには、脅威にさえ感じる。
逆に、自分のほうができると思った瞬間に、安心したような気持ちになることもある。
でもその安心は、本当の安心ではない。
誰かとの比較で得た安心は、また別の誰かと比べたときに崩れてしまうからだ。

つまり、多くの人は、差そのものに苦しんでいるのではなく、差を優劣として受け取ってしまうことに苦しんでいるのではないかと思う。

そして、その背景には、自信や余裕のなさがあるのだろう。
人は余裕がないときほど、違いを違いとして見ることが難しくなる。
相手の強みは、自分への脅威に見える。
自分の弱みは、そのまま劣等感になる。
だから一つの物差しにしがみつきたくなる。
その物差しの中で勝っていれば安心できる気がするからだ。

私自身も、昔はそうだった。
自分と相手がどう違うのかを落ち着いて見ることは、簡単ではなかった。
相手の良さを認めることが、そのまま自分の負けのように感じてしまうこともあった。
本当は相手のことが見えていなかったのではなく、自分のことが見えていなかったのだと思う。

自分は何が得意なのか。
何が苦手なのか。
どういう場面で力を発揮できるのか。
何を大事にして生きたいのか。
それが見えないうちは、人は他人の物差しで自分を測りやすい。
そして他人の物差しで生きようとすれば、苦しくなるのは当然である。

でも、自分を少しずつ知るようになると、他人の違いが脅威ではなくなってくる。
あの人にはあの人の役割がある。
自分には自分の役割がある。
そう思えるようになると、相手の強みを素直に価値として見やすくなる。

ここで初めて、差は分断の原因ではなく、助け合いの土台になる。
自分にできないことを、誰かができる。
誰かが苦手なことを、自分が補える。
だからチームが生まれる。
だから関係が生まれる。
だから社会が成り立つ。

もし全員が同じ能力、同じ性格、同じ考え方だったら、助け合いは今ほど必要ないかもしれない。
しかし現実には、人は違う。
差がある。
別がある。
だからこそ、人は一人では生きにくいし、だからこそ誰かとつながる意味がある。

先日の講演で聞いた「差があって、別があるのが社会だ」という言葉は、まさにそこを表しているように思う。
社会とは、同じ人間の集まりではない。
差のある者、別の者が、ともに生きる場である。
だから本当は、違いをなくすことが社会の目標なのではない。
違いを前提にしながら、どうすれば互いに尊重し合い、活かし合い、支え合えるかを考えることが大切なのだと思う。

差があることは、悪いことではない。
差があるのは、別々の人間だから当たり前だ。
本当に危ういのは、その差を一つの物差しで測り、人間の価値まで上下づけしてしまうことだ。
平等ではない。
だが、公平であることはできる。
そして公平とは、皆を同じ型にはめることではなく、違いを見たうえで、その人の尊厳を守ることなのだと思う。 人は同じではない。
だからこそ、支え合える。
人は平等ではない。
だからこそ、公平が必要になる。
差があることを恐れるのではなく、その差をどう活かし、どう認め合うか。
そこにこそ、これからの社会の成熟があるのではないだろうか。

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髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役