遊びは学びに変わるクアラルンプールの科学館で考えたこと
ペトロサインスから見えた企業と教育の接点
マレーシア旅行の終盤、クアラルンプールで一日を過ごした。最初に訪れたのは、ペトロナスツインタワーの商業施設、スリアKLCCの中にある体験型科学館ペトロサインスである。
少し見て回るつもりだった。ところが館内を出たとき、時計を見ると約2時間がたっていた。
展示の説明を一つずつ読んでいたからではない。
手で触れ、動かし、試しているうちに時間が過ぎていたのである。
その体験から考えたのは、子どもに学ばせるとはどういうことか、そして、なぜエネルギー企業が科学館をつくるのかということだった。
気づけば2時間いたペトロサインス
館内には、エネルギーの歴史と未来、石油掘削、宇宙、ロボット、地球科学、スピードなど、幅広い展示がある。
だが、教科書のような説明が延々と並んでいるわけではない。実際に触れ、動かし、起きた変化を自分の目で確かめる展示が多かった。
子どもたちは展示の前で立ち止まり、遊ぶように何度も試していた。誰かに「勉強しなさい」と言われている様子はない。
それでも身体を動かすうちに、自然に科学の現象へ触れている。
大人が説明板を読んで理解しようとしている横で、子どもは先に装置へ手を伸ばす。
操作してみて、結果が変わると笑う。
理屈はまだ言葉にできなくても、自分の動きと目の前の現象がつながったことは分かっている。
その順序が大切なのだと思った。
動かしてみる。
予想と違う。
もう一度試す。
隣の子どもと結果を比べる。
そして、なぜそうなるのか知りたくなる。
ペトロサインスでは、知識より先に体験があった。
疑問が生まれる前に正解を与えられると、それは覚えるべき情報になる。
しかし、自分で試した後に知る答えは、自分が欲しかった答えになる。
同じ知識でも、受け取り方はかなり違う。
学ぶことと遊ぶことを分けない
日本では、学ぶことと遊ぶことを分けて考えがちである。
まず説明を聞き、正解を覚え、その後に問題を解く。
もちろん基礎知識は必要だが、最初から答えが用意されていると、「なぜだろう」「もう一度やってみたい」という気持ちが生まれにくいこともある。
以前、福岡で「大ピンチ展」を見たときにも、似たことを感じた。
子どもに失敗しない方法を教えるのではなく、日常に起こる大ピンチを面白がり、自分ならどうするかを考えさせる展示だった。
正解を示すより先に、考えたくなる場をつくっていた。
学ぶとは、正しい答えを早く言えることだけではない。
目の前の出来事に興味を持ち、自分で試し、うまくいかなければやり直す。
その繰り返しの中で、考える力が育つ。
大人は、間違えないように先回りして教えたくなる。
効率だけを考えれば、その方が早い。
しかし、子どもが自分で試す前に答えを示せば、失敗から気づく機会も一緒に取り上げてしまう。
安全を守りながら、試行錯誤できる余白をどこまで残せるか。
展示を見ながら、教育に必要なのは説明の量だけではないと感じた。
子どもの可能性を広げたいなら、知識を一方的に与えるだけでは足りない。
自分から手を伸ばしたくなる環境が必要である。
教育施設の価値は、展示物の数より、帰るときに子どもの中へいくつの疑問を残せたかで決まるのかもしれない。
なぜエネルギー企業が科学館をつくるのか
もう一つ興味を持ったのは、ペトロサインスをエネルギー企業のペトロナスが支えていることである。
自社の商品や歴史を並べる企業博物館とは少し違う。
石油を掘る技術だけでなく、持続可能なエネルギーや未来の社会まで考えさせる構成になっていた。
資源を扱う企業が、子どもたちに科学への入口をつくる。
長い目で見れば、将来の技術者や研究者、エネルギーについて自分で考える市民を育てることにつながる。
単発の社会貢献というより、自国の次の産業を育てるための投資に近いと感じた。
エネルギーは暮らしを支える一方で、環境や資源の問題とも切り離せない。
だからこそ、企業が一方的に自社の正しさを説明するだけでは足りない。
子どもが仕組みに触れ、便利さと課題の両方を知り、自分で考える入口を用意する。
その姿勢には、事業を次の世代へ引き継ぐ企業の責任が表れているように見えた。
ペトロナスツインタワーそのものが、エネルギー産業によって成長してきたマレーシアを象徴する建物である。
その中で、過去の成功だけを見せるのではなく、これからエネルギーをどう変えていくのかを子どもたちへ問いかけている。
企業が未来について語る方法は、広告だけではない。
自社の事業と社会の課題を題材に、人が考え始める場所をつくることもできる。
ペトロサインスは、それを目に見える形で示していた。
企業が自社の強みを伝えようとすると、つい技術の高さや実績を説明したくなる。
しかし、子どもにとって大切なのは、企業名を覚えることではない。
その技術がどんな暮らしを支え、これから何を解決しなければならないのかに興味を持つことである。
企業の価値を、説明ではなく体験として渡す。
その発想は、日本企業の情報発信にも参考になる。
商業施設の中に教育を置く意味
場所のつくり方も面白い。
ペトロサインスは、学校や研究施設が集まる地域ではなく、観光客や買い物客でにぎわうスリアKLCCの中にある。
科学館へ行くことだけを目的に一日を組まなくても、家族で買い物や食事をする途中に立ち寄れる。
教育施設を人が集まる場所の中へ置けば、もともと科学に関心がある子どもだけでなく、偶然通りかかった家族にも入口が開かれる。
学びを日常から切り離さないという考え方が、立地にも表れているように思えた。
学ぶ場所が学校や専門施設の中だけにあると、そこへ行こうと思った人にしか届かない。
だが、商業施設の中にあれば、「今日は何をしようか」という家族の選択肢に自然に入る。
子どもが興味を示せば、大人も一緒に体験する。教育の入口を広げるには、内容だけでなく、出会い方を設計することも重要なのである。
日本にも優れた科学館は多い。
ただ、立派な施設をつくることに加えて、子どもが自然に足を運ぶ生活動線の中へ学びを置く発想は、もっとあってもよいのではないか。
買い物のついでに科学へ触れ、遊んだ後に一つの疑問を持ち帰る。
その小さな積み重ねが、将来の選択を変えるかもしれない。
科学館を出た後に見えた日本
ペトロサインスを出た後は、同じスリアKLCCにある紀伊國屋書店へ立ち寄った。
コミック売り場を見ると、私の印象では6割~7割ほどが日本の作品だった。
日本では見慣れた漫画が、クアラルンプールの一等地にある大型書店でも広い場所を占めていた。
科学館が体験によって子どもの「なぜ」を引き出す場所だとすれば、漫画は物語によって「次はどうなる」を引き出す。
どちらも、人を外から動かすのではなく、本人の中にもっと知りたいという気持ちを生む。
日本の漫画が国境を越えた理由も、その力にあるのだろう。
昼食は、シンガポール企業が運営するラ シュリンプ ヌードルバーでとった。
日本のラーメンと中国の麺文化を組み合わせた海老麺の店である。
席には紙のおしぼりと荷物かごが用意されていた。
料理だけでなく、客が困る前に必要なものを用意する日本の小さなサービスまで、別の文化の中に取り入れられていた。
日本の文化を海外へ伝えるというと、完成した形を丸ごと持っていくことを考えやすい。
しかし、海外で生き残るのは、必ずしもそのままの形ではない。
物語だけが広がることもあれば、料理の考え方や接客の工夫だけが選ばれ、現地の文化と組み合わされることもある。
この日の最後は、出雲大社マレーシア講社へ向かった。
旧暦の8月1日で新月だったため、お参りしようと思ったのである。
ビルの2階にあり、写真だけ見ると店舗の中に神社があるようにも見えるが、日本の出雲大社とつながる正式な講社である。
ところが、着いてみると閉まっていた。
「神社に休みがあるのか」と思ったが、参拝できる日は公式Instagramで案内されているという。
日本のように境内へいつでも入れるわけではない。
海外で限られた人員と費用の中、祈りの場を残すには、現地に合った運営へ変える必要があるのだろう。
国境を越えるときに残るもの
振り返れば、この日は科学館、書店、麺料理店、神社という、まとまりのない場所を歩いた。
しかし、その一日だったからこそ、文化や知恵が国境を越えるときの違いが見えた。
ペトロサインスからは、日本が海外の教育に学べることを知った。
紀伊國屋では、日本の漫画が作品の力で受け入れられていた。
ラ シュリンプでは、日本のラーメンやサービスが別の食文化と組み合わされていた。
出雲大社では、日本の信仰が現地で続けられる運営方法へ姿を変えていた。
日本の形をそのまま再現することだけが、文化を伝える方法ではない。
何を残し、何を変えれば、その土地で受け入れられ、続いていくのか。
その見極めが必要なのだと思う。
そして、日本が教える側だと決めつける必要もない。
海外へ出ると、日本の良さだけでなく、日本の思い込みも見えてくる。
学ぶことと遊ぶことは、もっと近くてよい。
企業は商品を売るだけでなく、次の世代が考える場所をつくることもできる。
クアラルンプールで最も心に残ったのは、立派な展示そのものではなかった。
子どもたちが自分から手を伸ばし、何度も試していた姿である。
人は、教えられたから動くとは限らない。
知りたいと思ったとき、自分から学び始める。
ペトロサインスで過ごした2時間は、その当たり前のことを改めて教えてくれた。
