定期便が届かなかった日、日本の「減点主義」を考えた

――減点主義をやめ、日本品質を世界が選べる価値へ

最近、海外の通販サイトで定期便を申し込んだ。

一定の周期で商品が届く、ごく一般的な定期購入である。

ところが今回、通販事業者から連絡が届いた。

「商品の手配が間に合わないため、今回は発送できません。代金は請求しません。入荷しましたら、改めてご連絡します」

という内容だった。

私は、別に腹を立てたわけではない。

代金を請求されるわけでもなく、商品が入荷すれば連絡も来る。大きな実害があるわけではないからだ。

ただ、その連絡を見たとき、少し考えた。

日本の通販会社であれば、定期便の商品を手配できないということは、ほとんどないのではないだろうか。

メーカー直販であれば、自社の生産計画によって定期購入者の商品を確保しやすい。

しかし、今回利用していたのは通販小売業者である。メーカーや卸売業者から商品を仕入れて販売しているため、メーカー側の生産状況や入荷時期を完全には管理できない。

そう考えれば、今回のようなことが起きるのも不思議ではない。

しかも、顧客側も都合に応じて定期便をスキップできる。

今月は商品が余っている。
旅行で家を空ける。
一時的に出費を抑えたい。

そのような理由で、顧客は配送を延期したり、定期便を一回休んだりできる。

顧客側にスキップする自由があるのであれば、販売事業者側にも、商品を確保できないときに請求せず、その回をスキップする余地があってもよいのかもしれない。

今回の出来事を通して、私は以前書いた「日本人は完璧主義で、減点主義なのかもしれない」という話を思い出した。

日本では、届くことが当たり前になっている

日本で定期便を申し込めば、毎回決められた時期に商品が届く。

私たちは、それを当たり前だと思っている。

届かないことなど想定していないし、販売する会社も、何としてでも商品を確保しようとするだろう。

その背景には、日本企業の高い責任感がある。

在庫を切らさない。
約束した日に届ける。
間違った商品を送らない。
包装を丁寧にする。
問い合わせにも細かく対応する。

こうしたサービス品質は、日本の大きな強みである。

私たちは、その品質を卑下する必要はない。

むしろ、日本人が長い時間をかけて築いてきた、世界に誇るべき価値だと思う。

しかし、その品質には当然、コストがかかっている。

定期購入者の商品を必ず確保するには、余裕を持った在庫が必要になる。

欠品しそうになれば、別の仕入れ先を探したり、緊急で商品を取り寄せたりしなければならない。

正確な配送の裏側では、多くの人が確認作業を行っている。

丁寧な問い合わせ対応にも、人件費と教育費がかかっている。

それでも顧客は、その品質を「当然のもの」と受け止める。

そして、一度でも予定どおりに届かなければ、

「定期便なのに届かないのはおかしい」

「在庫管理ができていない」

「この会社は信用できない」

と評価を下げてしまうことがある。

100点の状態が基準になり、99点になると、一点を失ったと考える。

これが、日本人の減点主義なのかもしれない。

不完全でも、仕組みとしては成立する

今回の海外通販会社の対応は、完璧ではなかった。

しかし、商品を用意できないことを事前に知らせ、代金は請求せず、入荷後に改めて連絡する。

顧客に大きな不利益が生じないようにはなっている。

日本の基準で見れば不十分でも、仕組みとしては成立しているのだ。

もちろん、このようなことが何度も続けば、顧客は離れていくだろう。

しかし、一度商品を用意できなかっただけで、その会社のすべてを否定する必要もない。

「今回は手配できなかった。しかし、請求もされないし、入荷したらまた買えばよい」

そう考えることもできる。

これは品質を軽視しているのではなく、多少の不完全さを、売る側と買う側の双方が許容しているともいえる。

日本では、企業が失敗しないことを強く求められる。

その結果、現場は失敗を避けることに多くの時間を使う。

新しいことに挑戦するより、問題を起こさないことが優先される。

小さなミスを防ぐために確認作業が増え、仕事が複雑になり、さらに多くの人手が必要になる。

完璧を求めることが、日本の品質を高めてきたことは間違いない。

一方で、その完璧主義が、企業のコストを押し上げ、働く人を疲れさせ、新しい挑戦を妨げている面もあるのではないだろうか。

国単位から地球単位へ

私は、近い将来、私たちの意識が国単位から地球単位へと変わっていくのではないかと思っている。

現在は、日本、アメリカ、中国、ヨーロッパなど、それぞれの国や地域が、自分たちの常識や制度を基準に物事を考えている。

しかし、人や商品、情報、資金はすでに国境を越えて動いている。

海外の会社から商品を購入することも、海外の人とオンラインで仕事をすることも、今では決して珍しくない。

そのような時代に、

「日本では、これが当たり前だ」

「私たちの国では、そんなことは許されない」

と、自国の常識だけを基準に相手を評価してよいのだろうか。

もちろん、守るべき品質やルールはある。

しかし、国や地域によって、サービスに対する考え方、価格、労働環境、顧客と事業者の責任分担は異なる。

自分たちの常識が、世界共通の常識とは限らない。

地球にも、宇宙の中の住所がある

地球にも、宇宙の中での「住所」のようなものがある。

小さい単位から順番に並べると、

地球
太陽系
オリオン腕、またはオリオン支脈
天の川銀河
局所銀河群
ラニアケア超銀河団

へとつながっていく。

太陽系は、天の川銀河にあるオリオン腕と呼ばれる領域に位置している。NASAは、オリオン腕を、いて腕とペルセウス腕の間にある比較的小さな腕として説明している。

太陽は天の川銀河の中心から約2万6,000光年離れたところにあり、銀河の中心と外縁のおおよそ中間に位置する。したがって、地球は銀河系の本当の端にあるわけではないが、銀河の中心部でもない。

さらに、天の川銀河は局所銀河群に属し、その先にはラニアケア超銀河団という、はるかに大きな構造がある。

私たちは普段、

日本国、福岡県、福岡市

という住所の中で生活している。

しかし、宇宙の中で見れば、

地球、太陽系、オリオン腕、天の川銀河、局所銀河群、ラニアケア超銀河団

に暮らしているともいえる。

そこまで視点を引いてみると、日本もアメリカも中国も、同じ一つの星にある地域にすぎない。

地球全体で争っていることの多くも、宇宙から見れば、同じ星に暮らす人間同士の争いである。

もちろん、国の歴史や文化、制度がすぐになくなるわけではない。

しかし、将来、人類が本格的に宇宙へ進出するようになれば、「どこの国の人間か」だけではなく、「地球から来た人間である」という認識を持つようになるのではないだろうか。

UFO・UAP情報の公開は歴史的な転換点

私は、UFO・UAPをめぐる情報公開の動きも、そうした大きな変化の一つではないかと捉えている。

米国では、2024会計年度国防権限法に基づいて、政府機関が保有するUAP関連記録を集約し、保存・公開するための記録コレクションが設けられた。

そして、トランプ政権下の2025年4月24日、米国立公文書記録管理局は新たなUAP関連記録を公開した。今後も、政府機関から提供された記録を追加していくとしている。

この制度そのものは、トランプ大統領一人が始めたものではない。

議会、政府機関、研究者などによって進められてきた流れが、トランプ政権下で目に見える形になったものと捉えるのが正確だろう。

そして、これは宇宙人の存在が証明されたという意味でもない。

米国防総省の全領域異常解決局は、現時点で地球外技術の証拠は確認しておらず、引き続き科学的、データ主導の方法で調査するとしている。

しかし、これまで秘密や憶測、時には嘲笑の対象になってきたUFO・UAPが、政府によって正式に記録され、保存され、国民に公開される対象になった。

私は、そのこと自体が歴史的な転換点だと思っている。

すぐに地球外生命の存在が明らかになるかどうかは分からない。

しかし、UFO・UAPを語ること自体が否定されていた時代から、政府が正式な調査対象として扱い、記録を公開する時代へと変わり始めている。

これは小さな変化ではない。

もし今後、地球外生命の存在が明らかになり、人類が宇宙へ活動範囲を広げていけば、私たちの意識も大きく変わるだろう。

地球は宇宙の中心ではない。

天の川銀河の中にある、一つの太陽系の、一つの惑星である。

その認識が社会に浸透すれば、私たちは日本人やアメリカ人である以前に、「地球に暮らす人類」であることを意識するようになるかもしれない。

金融やエネルギーの仕組みも変わる

人類が国単位から地球単位へ、さらに宇宙へと活動範囲を広げていくなら、現在の社会の仕組みもそのままではいられない。

特に、大きく変わる可能性があるのは、金融とエネルギーではないだろうか。

現在の金融は、国家、中央銀行、通貨、金融機関を中心に成り立っている。

エネルギーも、石油、天然ガス、原子力、電力網など、国ごとの政策や資源に大きく左右されている。

しかし、国境を越えて人や企業、AI、ロボットが活動し、やがて宇宙空間まで経済圏が広がっていけば、現在の仕組みだけでは対応できなくなる。

決済、契約、所有権、資金調達、エネルギー供給などについて、新しい仕組みが必要になるだろう。

それが、どのような形になるのかはまだ分からない。

ただ、現在の制度が完成形ではないことだけは確かだと思う。

社会の仕組みが大きく変わる時代に、私たちの価値観だけが変わらないということは考えにくい。

だからこそ、日本人も、完璧でなければ認めない減点主義から、少しずつ抜け出す必要があるのではないだろうか。

日本品質を捨てる必要はない

では、日本も海外に合わせて、サービス品質を下げればよいのだろうか。

私は、そうは思わない。

日本人の細やかさ、正確さ、責任感、相手の立場を考える姿勢は、大きな価値である。

問題は、その高い品質を、すべての顧客に、同じ価格で、一律に提供しようとしていることではないだろうか。

これからは、顧客が価格とサービス品質を選べる仕組みにする必要がある。

たとえば、価格を抑えた定期便では、欠品した場合は請求せず、その回をスキップする。

少し高い定期便では、定期購入者の商品を優先的に確保する。

さらに高いサービスでは、配送日の保証、個別対応、代替品の手配などを付ける。

高いサービス品質を求める人には、その品質に見合う料金を負担してもらう。

価格を重視する人には、多少の不便や不確実性を受け入れてもらう。

これは、お客様によって恣意的に扱いを変えるという話ではない。

顧客自身が、自分に必要なサービス水準を選ぶということだ。

すべての人に100点のサービスを低価格で提供しようとすれば、企業にも働く人にも無理が生じる。

70点のサービスには、70点なりの良さがある。
80点のサービスにも、十分な価値がある。
100点のサービスを必要とする人には、それに見合う対価を払ってもらえばよい。

減点主義をやめるとは、品質を下げることではない。

100点でなければ失敗だと考えるのをやめ、それぞれの価格と目的に応じた品質を認めることだと思う。

日本品質を、世界が選べる価値へ

海外の定期便が一度届かなかった。

それだけの出来事である。

しかし、その小さな出来事から、日本人が当たり前だと思っているサービス品質や、完璧主義、減点主義について考えさせられた。

日本のサービス品質は素晴らしい。

だからこそ、それを無料の「当たり前」にしてはいけない。

日本品質を維持するために、どれほどの人が働き、どれほどの費用がかかり、どれほどの工夫が行われているのかを、私たちは改めて認識する必要がある。

そして、国ごとの常識を超えて、人類が地球単位で物事を考える時代になったとき、日本の品質は、世界に合わせて捨てるものではない。

世界中の人が、自分の意思で選べる価値として提供すればよい。

完璧であることを、すべての人に強制しない。

不完全であることを、すぐに失敗と決めつけない。

そのうえで、日本人が得意としてきた高い品質を、必要とする人へ正しく届ける。

地球にも、宇宙の中での住所がある。

そこまで視点を広げれば、「日本ではこうだ」「外国では違う」と、お互いの常識をぶつけ合うだけでは、新しい時代に対応できないことが分かる。

日本の良さを守りながら、世界の違いも受け入れる。

そして、日本の高いサービス品質を、それを求める人が正当な価格で選べるようにする。 それが、地球単位で人や商品が行き交う時代における、日本企業の新しい役割なのかもしれない。