――気の学問は、人間関係の予防学かもしれない
私は、かれこれ5年以上、「気の学問」を学んでいる。
九気、相性、相生相剋、時の流れなどを通じて、人の気質や人間関係、運の流れを読み解く学問である。
現在はトレーナー資格も有しており、毎月開催される勉強会にも参加している。
5年以上学んでいても、毎回新しい気づきがある。
本当に奥が深い学問だと思う。
先日も勉強会があった。
テーマは、**相生(そうせい)・相剋(そうこく)**の関係についてである。
相生とは、簡単にいえば気が自然に流れやすい関係である。
一方、相剋とは、気がぶつかりやすい関係である。
一般的には、相生は良い関係、相剋は悪い関係のように捉えられがちである。
確かに、相生の関係はわかりやすい。
初めて会ったのに、なぜか話しやすい。
一緒にいて安心する。
何となく受け入れられる。
逆に、相剋の関係では、何も悪いことをされたわけではないのに、なぜか違和感を覚えることがある。
「この人、何となく気に入らないな」
そう感じることがある。
私自身も、初めて会う人に対して、理由はわからないが、なぜか気に入らないと感じることがある。
もちろん、相手から何か嫌なことをされたわけではない。
失礼な態度を取られたわけでもない。
それなのに、なぜか引っかかる。
なぜか素直に受け取れない。
不思議に思って後から調べてみると、九気で見たときに相剋の関係であることが少なくない。
そう考えると、「気に入る」「気に入らない」という言葉は、実に面白い。
気に入る。
気に入らない。
この「気」は、まさに氣のことではないかと思う。
理屈ではない。
条件でもない。
相手の肩書きや能力でもない。
自分の気と相手の気が自然に流れるのか。
それともぶつかるのか。
その反応が、私たちの中で「気に入る」「気に入らない」という感覚として現れているのかもしれない。
ただし、ここで大事なことがある。
相生だから良い。
相剋だから悪い。
そう単純に考えてはいけないということである。
今回、私があらためて深く感じたのは、むしろ逆のことであった。
場合によっては、相剋の関係よりも、相生の関係の方が人間関係を悪化させることがある。
しかも、かなり深く、ドロドロした形になることがある。
これは、私にとっても大きな気づきであった。
相生の関係は、気が合う。
気心がわかる。
自然に助け合える。
一緒にいて安心する。
だから、新人教育などでは非常に有効である。
たとえば職場に、何もわからず、自信もない新人Aさんが入ってきたとする。
この段階のAさんに必要なのは、強い刺激ではない。
まずは安心感である。
自分はここにいてよいのだと思えること。
わからないことを聞いても大丈夫だと思えること。
失敗しても見捨てられないと感じられること。
この時期に、相剋の上司や先輩が教育係になると、Aさんは刺激を成長材料として受け取る前に、萎縮してしまう可能性がある。
だから、新人期には相生の人が教育係に向いていることが多い。
気心がわかる。
安心感がある。
本人も質問しやすい。
その結果、すくすく育つ確率が高くなる。
しかし、いつまでも相生の関係だけでよいかというと、そうではない。
3年ぐらい経ち、仕事にも慣れ、一定の成果も出せるようになった頃、人は停滞することがある。
最初の緊張感は薄れ、仕事もある程度こなせる。
大きな失敗もしない。
周囲からも一定の信頼を得ている。
一見すると順調である。
しかし、その一方で、本人の中には慣れや甘えも出てくる。
新しい挑戦をしなくなる。
今までのやり方で済ませようとする。
自分の弱点に向き合わなくなる。
このような時期に、相剋の上司や先輩が現れると、本人にとっては大きな刺激になる。
「そのやり方で本当にいいのか」
「もっとできるのではないか」
「そこを直さないと、次の段階には行けない」
最初は反発するかもしれない。
苦手だと感じるかもしれない。
しかし、土台ができている人にとっては、その違和感や反発が成長のきっかけになる。
つまり、相剋は悪い関係ではない。
停滞した気を動かす関係でもある。
私は、相性とは良い悪いではなく、キャスティングだと思っている。
誰と誰を組ませるか。
どの時期に、どの人を近づけるか。
どの人とは距離を取らせるか。
誰に安心感を与え、誰に刺激を与えるか。
そこを見誤ると、人は伸びない。
逆に、そこが合えば、人は大きく成長する。
新人期には相生。
停滞期には相剋。
成熟期には相生と相剋を使い分ける。
もちろん、これは一つの考え方であり、すべてが機械的に決まるわけではない。
本人の性格、経験、職場環境、上司の力量によっても変わる。
それでも、相生・相剋を単なる相性診断として見るのではなく、成長段階に応じた配置論として見ると、人材育成の見方は大きく変わる。
ただし、職場で相剋の関係を使う場合には、十分な注意が必要である。
相剋は、停滞した気を動かす力がある。
しかし、相手の状態やタイミングを見誤ると、それは成長の刺激ではなく、単なる圧力として受け取られてしまう。
上司や先輩は、本人のためを思って少し強い口調で伝えたつもりかもしれない。
「まだわかっていないようだから、ここは厳しく言った方がいい」
「本人の成長のためには、少し負荷をかける必要がある」
そう考えることもあるだろう。
しかし、受け手側にまだ十分な土台がない場合や、信頼関係ができていない場合、その言葉は成長の刺激ではなく、恐怖として入ってしまう。
「怖い」
「否定された」
「この人の前では萎縮してしまう」
そう受け止められれば、育成どころではない。
場合によっては、パワーハラスメントではないかと問題になることもある。
私自身も、過去にこれに近い経験がある。
当時の私は、まだこの気の学問を知らなかった。
だから、自分の言葉が相手にどのように届いているのかを、十分に理解できていなかった。
こちらとしては、そこまで強く言ったつもりはなかった。
むしろ、本人のために必要なことを伝えたつもりだった。
しかし、相手の受け止め方は違った。
今振り返ると、相剋の関係では、こちらが思っている以上に言葉が強く届くのだと思う。
感覚的には、自分が思っているより3倍強く聞こえているくらいに考えた方がよい。
こちらが「少し強めに言った」程度でも、相手には「かなり怖い」と感じられる。
こちらが「注意した」つもりでも、相手には「責められた」「否定された」と受け止められる。
もちろん、だからといって何も言わなくてよいわけではない。
指導すべきことは指導しなければならない。
間違っていることを、そのままにしてよいわけではない。
しかし、相手との気の関係を知らないまま、自分の感覚だけで伝えてしまうと、よかれと思った言葉が、相手には傷として残ることがある。
私はそのことを、もっと早く知っていればよかったと思っている。
気の学問を学んだからといって、すべての人間関係が簡単になるわけではない。
しかし、少なくとも、
「自分は普通に言っているつもりでも、この人には強く届いているかもしれない」
「今は刺激ではなく、安心が必要な時期かもしれない」
「この人とは、距離感や言葉の温度を変えた方がよいかもしれない」
そう考える視点は持てるようになる。
これだけでも、避けられるすれ違いはある。
そして今回、私が特に深く感じたのは、相生の危うさである。
相生は、一見すると良い関係に見える。
気が合う。
わかってくれる。
助けてくれる。
安心できる。
しかし、近すぎたり、長く続きすぎたりすると、そこに甘えが生まれる。
最初は、
「ありがとう」
「助かった」
「この人がいてくれてよかった」
だったものが、いつの間にか変わっていく。
「やってくれて当然」
「わかってくれて当然」
「助けてくれて当然」
「言わなくても察してくれて当然」
こうなると、感謝が消える。
人間関係において、感謝が消えることほど危険なことはない。
感謝があるうちは、相生の関係は美しい。
支え合える。
助け合える。
お互いを自然に受け入れられる。
しかし、感謝がなくなった瞬間に、相生は甘えに変わる。
甘えが続くと、依存になる。
依存が破れると、恨みになる。
相剋の関係は、最初から違和感がある。
だから、ある意味で距離を取りやすい。
この人とは違う。
この人とは合わない。
そう感じている分、過剰な期待をしにくい。
しかし、相生の関係は違う。
「この人ならわかってくれるはず」
「この人は味方のはず」
「この人は助けてくれるはず」
そう思ってしまう。
だから、期待が外れたときの失望が大きい。
近い分だけ、傷も深くなる。
気が合う分だけ、裏切られたように感じる。
これが、相生の関係がドロドロになる理由ではないかと思う。
特にこれは、職場よりも家庭や友人関係で起こりやすい。
職場には、まだ役割やルールがある。
上司と部下、同僚、取引先という一定の距離感がある。
しかし、家族や親しい友人には、それがない。
親子だから。
夫婦だから。
兄弟だから。
長年の友人だから。
この「だから」が厄介である。
家族だからわかってくれるはず。
親だから助けてくれるはず。
兄弟だから協力して当然。
夫婦だから察して当然。
こうした思い込みが、関係を重くする。
本来、近い人ほど礼儀が必要である。
近い人ほど、感謝が必要である。
「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がある。
これは本当に深い言葉だと思う。
私たちは、他人には丁寧に接する。
他人にはお礼を言う。
他人には気を遣う。
他人には言葉を選ぶ。
ところが、家族や親しい人には、それを忘れてしまうことがある。
他人には言わないような言い方を、家族にはしてしまう。
他人にしてもらったら感謝することを、家族にしてもらうと当然だと思ってしまう。
これが積み重なると、関係は必ず濁る。
親兄弟は、特に厄介である。
幼少期からの記憶、親からの扱われ方、兄弟間の比較、過去の我慢、言えなかった感情、認めてほしかった思い。
そうしたものが全部絡んでくる。
単純に、相生だから仲が良い、相剋だから仲が悪いという話ではない。
むしろ、相生で近い関係だからこそ、甘えや期待が大きくなり、こじれたときに深くなることがある。
だからこそ、気の学問を知る意味があるのだと思う。
私は、この気の学問は、一家に一人は知っておいた方がよいと思っている。
なぜなら、知ることで判断ができるからである。
人間関係がこじれたとき、多くの人は相手を責める。
「あの人が悪い」
「自分のことをわかってくれない」
「なぜあんな言い方をするのか」
「どうして感謝してくれないのか」
もちろん、現実には相手の言動に問題があることもある。
しかし、それだけで見てしまうと、関係はさらに悪化する。
気の学問を知っていると、少し違う見方ができる。
「この関係は、気が近すぎて甘えが出ているのではないか」
「この人とは、今は少し距離を取った方がよいのではないか」
「この人には安心感が必要なのか、それとも刺激が必要なのか」
「相剋だから合わないのではなく、今の自分に必要な刺激なのではないか」
そう考えられるようになる。
これは、人間関係の予防になる。
こじれてから修復するのは大変である。
しかし、こじれる前に気づくことができれば、対応はできる。
距離を取る。
言い方を変える。
役割を変える。
感謝を伝える。
期待しすぎない。
相手に求めすぎない。
こうした判断ができるだけで、人間関係はかなり変わる。
そして、これは健康にもつながる話だと思う。
そもそも「病気」という言葉がある。
私はこの言葉も、とても深いと思っている。
病気とは、気の病である。
もし単に肉体だけが病むのであれば、「病肉」や「病身」と言ってもよさそうなものである。
しかし、昔の人は「病気」と言った。
もちろん、語源や漢字の成り立ちを厳密に考える必要はある。
しかし、少なくとも昔の人は、人の不調を単なる肉体の問題としてだけ見ていなかったのではないかと思う。
気が乱れる。
気が滞る。
気が枯れる。
気が荒れる。
その結果として、心や身体に不調が現れる。
そういう見方があったのではないか。
もちろん、現代では気質だけで病気を語ることはできない。
食べ物の問題もある。
添加物、農薬、加工食品、過剰な糖質、睡眠不足、運動不足、ストレス、情報過多。
現代人は、外から気を乱される要因も非常に多い。
だから、すべての病気を気質だけで説明するつもりはない。
しかし、それでもなお、人の気のあり方が健康に影響するという見方は、決して軽視できないと思う。
人間関係が悪ければ、気は滞る。
感謝がなくなれば、気は荒れる。
不安が続けば、気は弱る。
怒りを溜めれば、気は濁る。
無理を続ければ、気は枯れる。
そう考えると、気の学問は単なる占いではない。
人間関係の予防学であり、家庭の予防学であり、職場の配置学であり、健康の予防学でもある。
相生だから良い。
相剋だから悪い。
そんな単純な話ではない。
相生には、安心と甘えがある。
相剋には、刺激と成長がある。
どちらにも意味があり、どちらにも危うさがある。
大切なのは、その人の状況を見て、必要な気を配置することである。
今は守る時期なのか。
鍛える時期なのか。
距離を取る時期なのか。
感謝を取り戻す時期なのか。
刺激を入れる時期なのか。
それを見極めることが、気の学問の本当の価値なのではないかと思う。
人間関係は、近ければよいわけではない。
気が合えばよいわけでもない。
ぶつかるから悪いわけでもない。
大切なのは、気の流れを知ること。
そして、礼儀と感謝を忘れないこと。
親しき仲にも礼儀あり。
この言葉は、単なる道徳ではない。
人間関係を壊さないための、昔の人の知恵なのだと思う。
気を知ることは、人を裁くことではない。
人を決めつけることでもない。
人を理解し、距離感を整え、関係を壊す前に気づくための知恵である。
だから私は思う。
気の学問は、一家に一人、会社に一人は知っておいた方がよい。
それだけで、救われる人間関係がある。
防げる争いがある。
守れる家庭がある。
伸ばせる人材がある。
そしてもしかすると、防げる病もあるのかもしれない。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役