——人は、痛くならないと大切なことを忘れてしまう
先日まで、腰がかなり痛かった。
最初は、いつもの腰痛だろうと思っていた。
少し無理をしたのかもしれない。
疲れがたまっていたのかもしれない。
年齢的にも、多少の痛みは仕方がないのかもしれない。
そんなふうに軽く考えていた。
ところが、今回は少し違った。
腰だけではなく、左足にしびれが出てきたのである。
腰が痛いだけなら、まだ我慢できる。
しかし、足がしびれるとなると、少し不安になる。
「これは、ただの腰痛ではないのではないか」
そう思った。
腰というのは不思議な場所である。
普段はあまり意識しない。
しかし、ひとたび痛くなると、身体の中心にあることを嫌というほど思い知らされる。
立つ。
座る。
歩く。
寝返りを打つ。
靴下を履く。
車に乗る。
椅子から立ち上がる。
その一つひとつに腰が関わっている。
普段なら何も考えずにできる動作が、腰が痛いだけで一気に慎重になる。
少し動くだけで、身体が警戒する。
「また痛むのではないか」
「この角度は危ないのではないか」
「今、変にひねったらまずいのではないか」
腰痛は、身体だけでなく、気持ちまで小さくしてしまう。
そこで、針治療を受けてみた。
以前から、針は効く人にはよく効くと聞いていた。
身体のこわばりや血流の問題であれば、楽になることもあるのだろう。
ところが、今回は全然効かなかった。
もちろん、針治療そのものを否定するつもりはない。
合う人もいれば、合わない人もいる。
症状や原因によっても違うのだと思う。
ただ、私の場合、その時の腰痛にはほとんど変化がなかった。
「治療を受ければ何とかなるだろう」
そう思っていた分、少し気持ちも落ちた。
そんな時、たまたま身体のことに詳しい人がいて、磁気シールのようなものをもらった。
それを貼ってみると、少し楽になった。
さらに、その人は「音もいい」と言って、音を聞くものも貸してくれた。
正直なところ、理屈はよくわからない。
磁気がどう作用したのか。
音が身体にどう影響したのか。
専門的な説明を私はできない。
ただ、身体が少し楽になった感覚はあった。
こういう時、人間の身体は不思議だと思う。
頭では疑っていても、身体が反応することがある。
反対に、頭では良いと思っていても、身体がまったく反応しないこともある。
身体というものは、こちらの理屈だけでは動いてくれない。
そんなことを感じていたある夜、寝ている時にふと思い出した。
「あ、緩消法があった」
緩消法。
昔、私はこの方法にご縁があった。
発明者の先生とつながりがあり、一時期セミナーのお手伝いをしていたこともある。
腰の筋肉を緩ませる、自分でもできる方法である。
当時は、その考え方にも触れていたし、実際にやり方も見ていた。
自分でも腰が痛くなると、すぐに緩めていた。
母親にもやってあげていた。
それなのに、すっかり忘れていた。
このことに、自分でも少し驚いた。
あれほど身近にあったものなのに。
あれほど役に立つと知っていたのに。
あれほど自分でもやっていたのに。
時間が経つと、人は忘れてしまうのである。
思い出した緩消法を、自分でやってみた。
すると、かなり楽になった。
もちろん、一度で何もかも完璧に解決したという話ではない。
しかし、明らかに身体の感覚が変わった。
腰の奥にあった硬さが、少しずつほどけていくような感覚。
動かす時の怖さが、少し和らぐ感覚。
身体の中にあった緊張が、ふっと抜けていく感覚。
「ああ、これだった」
そう思った。
針治療でも変わらなかった。
磁気シールや音で少し緩和した。
けれど、最終的に自分の身体に一番しっくりきたのは、昔学んだ緩消法だった。
ここで面白いのは、私が緩消法を初めて知ったわけではないということだ。
むしろ、よく知っていた。
ご縁もあった。
実際に使った経験もあった。
母親にもやってあげていた。
つまり、答えはすでに自分の中にあったのである。
それなのに、私はすぐには思い出せなかった。
人は、外に答えを探しに行く。
もちろん、それが悪いわけではない。
専門家に頼ることも、人の助けを借りることも大切である。
ただ、本当に必要な答えが、過去にいただいたご縁や、自分の経験の中に眠っていることもある。
今回の緩消法が、まさにそうだった。
私は、痛みによって思い出した。
痛かったからこそ、思い出せた。
痛みがなければ、おそらく緩消法のことを思い出すこともなかっただろう。
そう考えると、痛みというものは、ただ嫌なものではないのかもしれない。
もちろん、痛いのは嫌である。
できれば痛くない方がいい。
腰痛など、ないに越したことはない。
しかし、痛みには何かしらのメッセージがある。
「そろそろ身体を見なさい」
「無理をしすぎていますよ」
「大事なことを忘れていますよ」
身体は言葉を話さない。
だから、痛みという形で教えてくれるのかもしれない。
今回の腰痛で改めて思ったのは、身体は機械ではないということだ。
痛い部分だけを修理すれば終わり、という単純なものではない。
腰が痛いから、腰だけを見ればいいとも限らない。
筋肉の緊張。
神経の圧迫。
血流。
姿勢。
疲労。
睡眠。
ストレス。
不安。
身体の使い方。
いろいろなものが重なって、痛みは出る。
だからこそ、治療も一つではないのだと思う。
専門家に診てもらうことは大切である。
必要なら検査を受けることも大切である。
危険な症状があるなら、自己判断せず医療機関に行くべきである。
一方で、自分の身体を自分で感じる力も大切である。
どこが硬いのか。
どの動きで痛むのか。
どの姿勢なら楽なのか。
何をすると緩むのか。
何をすると悪化するのか。
自分の身体なのに、意外と自分が一番わかっていないことがある。
今回、緩消法を思い出して実践した時、久しぶりに自分の身体と対話した気がした。
腰の筋肉が硬くなっている。
ここを無理に伸ばすのではなく、少しずつ緩める。
力で何とかするのではなく、身体の反応を見ながらほどいていく。
この感覚は、身体だけでなく、人生にも通じるように思う。
人は、問題が起きてから大切なことに気づく。
健康を崩してから、睡眠や食事を考える。
人間関係が悪くなってから、感謝を伝えていなかったことに気づく。
仕事が苦しくなってから、日々の小さな違和感を見逃していたことに気づく。
本当は、悪くなる前に整えればいい。
本当は、痛くなる前に緩めればいい。
しかし、人間はなかなかそうできない。
痛みがない時、人は大切なことを忘れる。
問題が表面化していない時、人は「まだ大丈夫」と思ってしまう。
今回の腰痛は、まさにそれだった。
私は緩消法を知っていた。
それなのに、日常の中で忘れていた。
痛くなって初めて、思い出した。
母親に緩消法をやってあげていた時のことも思い出した。
人に触れるというのは、単に身体をほぐすだけではない。
そこには、気持ちがある。
相手を少しでも楽にしてあげたいという思いがある。
母親にやってあげていた時、私はきっと、技術だけを使っていたのではない。
少しでも楽になってほしい。
少しでも痛みが和らいでほしい。
そんな気持ちで触れていたのだと思う。
それを思い出した時、緩消法は単なる手技ではなく、ご縁の記憶でもあるのだと感じた。
発明者の先生とのご縁。
セミナーを手伝った経験。
学ばせていただいた時間。
母親にやってあげた記憶。
自分の腰を緩めていた過去。
それらが、今回の痛みをきっかけに、静かにつながった。
人は、忘れているようで、完全には忘れていない。
大事なものは、身体のどこかに残っている。
記憶の奥に眠っている。
そして、必要な時にふと戻ってくる。
今回の腰痛はつらかった。
できれば、二度とあの痛みは味わいたくない。
けれど、あの痛みがなければ、私は緩消法を思い出さなかったかもしれない。
自分の身体と向き合うこともなかったかもしれない。
昔いただいたご縁のありがたさを、改めて感じることもなかったかもしれない。
そう考えると、痛みもまた、人生の先生なのかもしれない。
もちろん、痛みを美化するつもりはない。
痛いものは痛い。
つらいものはつらい。
我慢しすぎてはいけない。
必要な時は、きちんと専門家の力を借りるべきである。
ただ、痛みを単なる敵として見るのではなく、
「自分は何を忘れていたのか」
と少しだけ立ち止まってみることは、大切なのではないかと思う。
今回、私は腰痛で思い出した。
身体は、痛くなってから慌てて向き合うものではない。
本当は、痛くなる前に整えておくものなのだ。
固まってから緩めるのではなく、日々少しずつ緩める。
問題が大きくなってから向き合うのではなく、小さな違和感のうちに向き合う。
そのためには、自分の身体の声を聞く時間が必要である。
忙しい毎日の中で、私たちはつい外ばかり見てしまう。
仕事。
予定。
人間関係。
情報。
やらなければならないこと。
しかし、本当は一番身近なところに、もっと耳を傾けるべき存在がある。
それが、自分の身体である。
身体は、いつも黙って働いてくれている。
文句も言わず、毎日支えてくれている。
立つことも、歩くことも、考えることも、働くことも、すべて身体があってこそできる。
それなのに、私たちは身体が普通に動くことを当たり前だと思ってしまう。
そして、痛くなって初めて気づく。
「ああ、身体が動くというのは、当たり前ではなかったのだ」と。
今回の腰痛は、そのことを私に思い出させてくれた。
そしてもう一つ。
人は、大切なことを忘れる。
しかし、思い出すこともできる。
忘れたから駄目なのではない。
思い出せばいい。
昔学んだこと。
昔いただいたご縁。
昔誰かにしてあげたこと。
昔自分を助けてくれた知恵。
それらは、消えてなくなったわけではない。
ただ、日々の忙しさの中で、少し奥にしまわれているだけである。
痛みは、それを引っ張り出してくれることがある。
今回、私は腰痛によって、緩消法を思い出した。
そして、自分の身体を緩めることの大切さを思い出した。
さらに、痛くならないと大切なことを忘れてしまう、人間の弱さも思い出した。
腰痛はつらかった。
しかし、その痛みのおかげで、私は緩消法を思い出した。
昔いただいたご縁も、母に触れていた時間も、自分の身体を自分で整えていた感覚も、すべて忘れていたわけではなかった。
ただ、少し奥にしまい込んでいただけだった。
人は、痛くならないと大切なことを忘れてしまう。
でも、痛みをきっかけに思い出すこともできる。
今回の腰痛は、私にそのことを教えてくれた。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役