――睡眠不足20兆円損失の裏にある「安心して休めない社会」
最近、睡眠不足による経済損失20兆円という話を聞いた。
この数字を聞くと、多くの人は「もっと早く寝た方がいい」「スマホを見る時間を減らした方がいい」「働きすぎをやめた方がいい」と考えるかもしれない。
もちろん、それは間違いではない。
睡眠時間が短ければ、集中力は落ちる。判断力も鈍る。ミスも増える。体調も崩しやすくなる。結果として、個人の健康だけでなく、企業の生産性や国全体の経済にも影響が出る。
しかし、私はこの問題を単に「日本人は寝るのが下手だ」という話で終わらせてはいけないと思っている。
なぜなら、今の日本人が眠れない理由は、単に夜更かししているからではないからである。
本当の問題は、もっと深いところにある。
それは、安心して休めない社会になっているということではないだろうか。
昔の長時間労働とは、少し形が変わってきた
日本人の睡眠不足や長時間労働の話になると、すぐに「ブラック企業が多いからだ」という話になりやすい。
もちろん、過酷な労働環境を強いる会社は今でも存在する。サービス残業、過剰なノルマ、休みづらい空気、責任感のある人に仕事が集中する職場。こうした問題は、決してなくなったわけではない。
ただ、今の睡眠不足をそれだけで説明するのは、少し違う気がしている。
昔は、会社に長時間拘束されることが大きな問題だった。
遅くまで残る人が評価される。
休まず働く人が真面目だと見られる。
会社のために自分の時間を差し出すことが美徳とされる。
そういう時代が、確かにあった。
しかし近年は、働き方改革も進んだ。労働時間の管理も以前より厳しくなっている。「遅くまで会社にいる人が偉い」という価値観も、少しずつではあるが薄れてきている。
それなのに、多くの人が疲れている。
朝起きた瞬間から、すでに疲れている。
休日に休んでも、月曜日にはまた重たい気持ちになる。
これはなぜなのか。
私は、問題の中心が「会社の中の長時間労働」だけではなく、生活全体の中で休む余白が失われていることに移ってきているのではないかと思う。
給料は上がっている。だが生活は楽になっていない
近年、最低賃金は毎年のように上がっている。
企業側から見れば、これは大きな負担である。制度的に賃金を上げざるを得ない。人手不足もある。採用難もある。物価高もある。社員の生活を守るためにも、賃上げは避けて通れない。
だから、多くの会社は人件費を上げている。
しかし、社員側の実感はどうだろうか。
額面給与は上がっている。
でも、手取りが増えた感覚はあまりない。
むしろ、生活は以前より苦しくなっていると感じている人も多いのではないか。
なぜなら、給与が上がっても、そこから税金や社会保険料が差し引かれるからである。さらに、食費、電気代、ガソリン代、家賃、教育費など、生活に必要なものの価格も上がっている。
つまり、会社は賃金を上げている。
社員の額面も上がっている。
しかし、暮らしの安心感は増えていない。
ここに、今の日本の大きなねじれがある。
経営者からすると、「これだけ人件費を上げているのに、なぜ社員の満足度が上がらないのか」と感じるかもしれない。
社員からすると、「給料は少し上がったが、結局手元に残らない」と感じる。
このすれ違いが、現場ではかなり大きくなっているのではないか。
働きたいのではなく、働かざるを得ない
副業や兼業という言葉も、最近ではずいぶん一般的になった。
もちろん、副業そのものは悪いものではない。
自分の可能性を広げる。
新しい収入源をつくる。
将来の独立に向けて準備する。
本業ではできない挑戦をする。
こうした前向きな副業は、とても良いと思う。
しかし、すべての副業が前向きな挑戦とは限らない。
本業だけでは生活が苦しい。
将来が不安である。
子どもの教育費が心配である。
老後資金が足りない。
物価が上がっている。
税金や社会保険料の負担が重い。
だから、夜や休日に別の仕事を入れる。
本業が終わったあとに働く。
休日にアルバイトをする。
空き時間に業務委託の仕事を受ける。
これは「自由な働き方」というより、生活防衛のための働き方である。
そうなると、最後に削られるのは何か。
睡眠である。
趣味の時間を削る。
家族との時間を削る。
ぼーっとする時間を削る。
そして最後に、眠る時間を削る。
つまり、睡眠不足とは、単なる生活習慣の乱れではない場合がある。
生活を守るために、自分の回復時間を差し出している状態。
これが、今の日本人の睡眠不足の一つの正体ではないかと思う。
スマホが悪いのではなく、脳が休む場所を失っている
もちろん、現代特有の問題として、スマホやSNS、動画、ゲームの影響も大きい。
仕事が終わったあとも、スマホを開けば情報が流れ込んでくる。
SNSでは、誰かの成功が見える。
動画は次々と再生される。
ゲームは脳を興奮させる。
ニュースは不安を増幅させる。
仕事のチャットが夜まで届く人もいる。
昔は、仕事が終われば情報の刺激もある程度終わっていた。
しかし今は違う。
仕事が終わっても、脳は休まらない。
身体は疲れているのに、脳は興奮している。
目は眠いのに、心はざわついている。
布団に入っても、頭の中だけが動き続けている。
これでは、眠りが浅くなるのも当然である。
ただ、ここでも私は「スマホが悪い」「SNSが悪い」とだけ言いたいわけではない。
なぜ、人はスマホを見続けるのか。
なぜ、動画を止められないのか。
なぜ、SNSで他人と比べてしまうのか。
その奥には、孤独、不安、満たされなさ、現実から少し離れたい気持ちがあるのではないか。
つまり、スマホやSNSは原因であると同時に、現代人の不安が表れている場所でもある。
心が満たされていない。
生活に余裕がない。
将来が見えない。
自分の人生に納得できていない。
そうした状態で、脳だけが刺激を求め続ける。
その結果、眠れなくなる。
これは、単なるデジタル依存の問題ではなく、心と生活の余白が失われている問題でもある。
本当に深い疲れは、資質に合わない仕事から生まれる
ここでもう一つ、私は大切な視点があると思っている。
それは、自分の資質に合わない仕事をしている人が多いということである。
人には、それぞれ持って生まれた資質がある。
人と関わることで力を発揮する人がいる。
一人で深く考えることで力を発揮する人がいる。
細かい作業を丁寧に積み上げることが得意な人がいる。
大きな方向性を直感的につかむことが得意な人がいる。
新しいものを生み出すことに喜びを感じる人がいる。
安定した仕組みを守り育てることに向いている人がいる。
ところが、日本の教育や就職の仕組みでは、自分の資質を深く知る機会がそれほど多くない。
何点取ったか。
どこの学校に入ったか。
どこの会社に入ったか。
安定しているか。
世間体がよいか。
こうした物差しで進路を選びやすい。
もちろん、学力も大切である。安定も大切である。世の中で生きていくためには、努力も必要である。
しかし、それだけで人の人生を決めてしまうと、本来の資質とは違う場所で頑張り続ける人が増えてしまう。
人と話すことで力が湧く人が、一日中孤独な作業をしている。
緻密な作業が得意な人が、無理に営業最前線に立たされている。
創造性の高い人が、決められた手順だけを求められている。
安定志向の人が、常に変化と競争にさらされている。
直感で本質をつかむ人が、細部の管理だけを求められている。
これは、単なる疲労ではない。
自分ではない役割を演じ続ける疲労である。
だから、寝ても回復しにくい。
身体は休んでいるはずなのに、心が休まらない。
休日を取っても、月曜日が近づくと苦しくなる。
長く寝ても、生命力が戻らない。
そういう場合、睡眠時間だけを見ても解決しない。
そもそもエネルギーの使い方が、自分に合っていない可能性があるからである。
ガイアコードで見えてくる「その人らしい力の出し方」
私自身、現在はガイアコードという学問を中心に用いながら、その人が本来持っている資質を見ている。
人には、生まれ持った個性がある。
得意なエネルギーの使い方がある。
向いている環境がある。
力を発揮しやすい役割がある。
もちろん、人は努力によって成長する。
苦手なことに挑戦することも大切である。
社会で生きていく以上、自分の好きなことだけをしていればよいわけではない。
しかし、だからといって、自分の資質を無視してよいわけではない。
魚に木登りをさせれば、魚は自分を能力のない存在だと思ってしまう。
鳥に地面を這わせ続ければ、鳥は空を飛べることを忘れてしまう。
人間も同じである。
本来の資質に合わない場所で長く頑張り続けると、人は自分の力を疑うようになる。
本当は能力がないのではない。
場所が合っていないだけかもしれない。
本当は努力不足ではない。
役割が合っていないだけかもしれない。
会社がここを見抜けないと、社員は疲弊する。
本人も、自分の強みが分からなくなる。
そして、心身が回復しにくくなる。
私は、これからの経営において、この「資質を見る力」は非常に重要になると思っている。
採用する力。
配置する力。
育てる力。
任せる力。
強みを見つける力。
これらはすべて、社員の健康や生産性とつながっている。
賃上げだけではなく、生活を支える福利厚生へ
では、これからの会社は何をすればよいのか。
もちろん、賃金は大切である。
生活できない賃金で、やりがいを語っても意味がない。
社員の生活を守ることは、会社の重要な責任である。
ただし、今の日本では、賃上げだけで社員の生活実感を改善することが難しくなっている。
だからこそ、これからは賃金とあわせて、社員の生活コストを下げる支援を考える必要がある。
たとえば、食事補助、住宅支援、通勤支援、健康支援、睡眠改善支援、育児・介護支援、学び直し支援、柔軟な勤務制度、副業しなくても生活できる収入設計。そして、資質に合った配置である。
こうした取り組みは、単なる福利厚生ではない。
社員が安心して働くための経営基盤である。
特に中小企業の場合、大企業のように高い給与を出すことが難しいケースもある。
だからこそ、給与だけで勝負するのではなく、「この会社で働くと生活が整う」「この会社は自分のことを見てくれている」と感じられる仕組みが大切になる。
ただし、現物支給や福利厚生は、何でも非課税になるわけではない。制度設計を間違えると給与課税の対象になることもあるため、税理士や社労士と確認しながら進める必要がある。
それでも、方向性としては間違っていないと思う。
これからの会社は、単に給料を上げる会社ではなく、社員の生活、健康、資質、将来を総合的に支える会社であるべきだ。
社員が休める会社は、社員を活かせる会社である
睡眠不足は、個人の自己管理だけの問題ではない。
もちろん、本人の生活習慣も大切である。
スマホの使い方、食事、運動、寝る前の過ごし方も大切である。
しかし、それだけでは足りない。
社員が疲れ切っている会社には、何かしらの歪みがある。
報酬の問題かもしれない。
人員配置の問題かもしれない。
評価制度の問題かもしれない。
人間関係の問題かもしれない。
仕事と資質のミスマッチかもしれない。
将来への安心感がないのかもしれない。
だから経営者は、社員が疲れているときに、単に「もっと頑張れ」と言うだけではいけない。
この人は、本当にこの仕事に合っているのか。
この人の資質は活かされているのか。
この人は生活に不安を抱えていないか。
この人は会社の中で回復できる余白を持てているか。
そう見る必要がある。
社員がよく休める会社は、甘い会社ではない。
むしろ、強い会社である。
なぜなら、人は回復しているときにこそ、本来の力を発揮できるからである。
判断力も上がる。
集中力も上がる。
接客品質も上がる。
改善提案も出やすくなる。
人間関係も良くなる。
離職も減る。
休むことは、怠けることではない。
次に力を出すための準備である。
日本人が眠れない本当の理由
日本人の睡眠不足による経済損失は、20兆円規模とも言われる。
しかし、その本質は「早く寝ましょう」という話だけではない。
給料は上がっているのに、手取りが増えにくい。
物価も税金も社会保険料も上がり、生活の安心感が増えない。
本業だけでは不安で、副業や兼業に時間を使う人もいる。
スマホやSNSによって、脳は休む場所を失っている。
そして、自分の資質に合わない仕事で、心の奥から消耗している人もいる。
これらが重なって、日本人は眠れなくなっているのではないか。
だから、睡眠不足を本気で解決するには、睡眠指導だけでは足りない。
必要なのは、社員が安心して暮らせる生活設計である。
自分の資質を活かせる仕事である。
賃金、福利厚生、配置、教育を一体で考える経営である。
人は、安心しているときに深く眠れる。
自分らしく働けているときに、心から回復できる。
そして、本来の力を発揮できる。
日本人が眠れない本当の理由。
それは、睡眠時間が足りないからだけではない。
安心して休める生活と、自分らしく働ける場所が、まだ十分に整っていないからである。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役