福岡の経営コンサルタント|笑顔商店

WBCが映らない夜に、時代の変化を見た

そして経営者として思ったこと

先日、ある地方でタクシーに乗った。
そのとき、運転手さんとの何気ない会話の中で、私はふと「時代が変わったのだな」と感じた。

「いまWBCやってますよね?」
「ああ、やってますね」
「なんでテレビ放映ないんでしょうかね? 私、楽しみにしていたのに……」
「あー、放映権の問題じゃないですかね」
「放映権?」
「はい。今回はネットフリックスが独占権持っているんじゃないですかね」
「ネットフリックス!? 有料?」
「会員になれないと見れないと思いますよ」
「そうなのか! それはいかんな」
「テレビは視聴率落ちていてスポンサーが集まらなかったのかもしれませんね」
「確かに若い人はテレビみらんらしいね」
「ネットフリックスはこれで会員が増えるんじゃないですかね」

ほんの数分の雑談だった。
けれど、その会話の中には、今の時代を象徴するものが詰まっていたように思う。

これは単なるスポーツ中継の話ではない。
テレビと配信、無料と有料、若い世代と年配世代。
そして何より、私たちがどのように情報を受け取り、企業がどのように顧客とつながり、どこで収益を生み出すのかという、大きな変化の話なのだと思う。

最初、私はこのテーマを「共有の時代の終わり」と表現しようかと思った。
だが、よく考えると少し違う。
いまの時代は、むしろ共有そのものは増えている。SNSで感想を共有し、体験を共有し、価値観を共有し、ときには住まいや車までシェアする。
「共有」は終わっていない。むしろ別の形で広がっている。

では、何が終わりつつあるのか。
それはたぶん、同じ情報を、同じタイミングで、多くの人が一斉に受け取る時代なのだ。

そして経営者の視点で見れば、それは単なる情報環境の変化ではない。
ビジネスの勝ち筋の見え方が変わっているということでもある。

お茶の間に同じ画面があった時代

昔、テレビは特別な存在だった。
夜になれば家族が居間に集まり、同じ番組を見る。
野球の大きな試合があれば、父親も母親も子どもも同じ方向を向いていた。
大ニュースがあれば、翌日には誰もがその話題を知っていた。

「あのホームラン見た?」
「昨日のニュース、驚いたね」
「あのドラマの続き、気になるね」

こうした会話が自然に成立していたのは、日本人が特別に会話好きだったからではない。
テレビという巨大な共通の入口があったからだ。

当時は、情報の受け取り口そのものが限られていた。
新聞、ラジオ、テレビ。
その中でもテレビは圧倒的な力を持っていて、娯楽もスポーツもニュースも、多くの人がほぼ同じものを見ていた。
言い換えれば、社会全体にある程度の「共通前提」があったのだ。

ビジネスの世界で言えば、これはマス型モデルである。
一つの媒体で一気に多くの人に届ける。
広く認知を取り、広告で回収する。
テレビ局もスポンサーも、その前提で成り立っていた。

つまり、あの時代は「多くの人に届くこと」自体が価値だった。
広く届けば、売上につながる。
多くの人に知られれば、ブランドになる。
いわば、広さが力だった時代である。

いまは入口が人それぞれ違う

ところが、今は違う。

テレビだけではない。
YouTube、Netflix、Amazon Prime Video、TVer、TikTok、Instagram、X、ニュースアプリ、ポッドキャスト。
情報の入口は無数にある。
しかも、人によって契約しているサービスも違えば、興味を持つジャンルも違う。
見る時間も違うし、見方も違う。
スマホで短く流し見る人もいれば、配信でじっくり楽しむ人もいる。
そもそもリアルタイムで見る必要すらなくなってきた。

つまり今は、

同じニュースを見ているとは限らない。
同じ試合を見ているとは限らない。
同じ番組を見ているとは限らない。
同じタイミングで知っているとも限らない。

情報は増えた。
選択肢も増えた。
自由度も上がった。
でもその一方で、みんなが同じ前提を持っていることは難しくなった。

そして経営者として見ると、ここに非常に大きな変化がある。
昔は「いい商品を作って、広く知ってもらえば売れる」という発想が成り立ちやすかった。
ところが今は、入口が分散している。
人によって見ている媒体も、反応する言葉も、行動を起こすきっかけも違う。

つまり、今の時代は、ただ広く発信するだけでは足りない。
誰に、どの入口から、どう入ってきてもらい、どこで信頼を積み上げ、どう収益化につなげるか。
その導線設計が、以前よりはるかに重要になっている。

「それはいかんな」という一言

あの会話の中で、私の心に残ったのは運転手さんの

「それはいかんな」

という一言だった。

この言葉には、単に「無料で見たかった」という以上のものが含まれていたように思う。
たぶんその方は、WBCのようなものを「みんなが見られるもの」だと感じていたのだ。
別に詳しい野球ファンでなくてもいい。
普段はスポーツ中継を見ない人でも、日本代表の試合なら気になる。
家族につられて見てもいい。
たまたまテレビをつけて目に入ってもいい。

そういう「なんとなく見られる」「自然に触れられる」ということが、国民的なイベントの価値の一部だったはずだ。

ところが、それが特定の有料サービスの中に入ってしまうと、見たい人は深く見られる一方で、裾野は狭くなる。
熱心なファンには便利でも、ライト層や高齢の方、あるいは操作に慣れていない人にとっては、少し遠いものになる。
つまり、コンテンツの価値が下がるのではなく、届き方が変わるのだ。

ここに、経営の本質がある。
ビジネスではしばしば、

広く届けるか、深く囲い込むか

という選択がある。

無料で多くの人に知ってもらうのか。
有料でも熱量の高い人だけに深く提供するのか。
広がりを取るのか。
収益性を取るのか。

テレビは、広く届けるモデルだった。
一方、配信サービスは、熱量の高い人を囲い込み、継続課金で回収するモデルだ。
これはどちらが正しいという話ではない。
ただ、何を優先するかが違うのである。

運転手さんの「それはいかんな」は、経営の言葉で言えば、
「収益性は高まるかもしれないが、社会的な広がりは失われるのではないか」
という感覚に近いのかもしれない。

変わったのは、入口の重要性ではなく、入口の数と支配者だ

ここで一つ、経営者として大事だと思うことがある。

それは、入口を握る者が強いという原則自体は、昔から変わっていないということだ。

人や企業にとって、「最初に知ってもらう場所」を押さえた者が強い。
これは今に始まった話ではない。
昔も、駅前の一等地を押さえる会社は強かった。
新聞広告を出せる会社は強かった。
テレビCMを打てる会社は強かった。
大手流通の棚を取れる会社は強かった。

つまり、入口を押さえた者が強いという構造は、もともとずっとあったのである。

ただし、かつてはその入口が、テレビのような一部の強い媒体に集中していた。
だからテレビを押さえることの意味が非常に大きかった。
多くの人が同じ媒体を見ていた時代には、そこに出られること自体が圧倒的な優位だった。

しかし今は、その入口が分散している。
配信プラットフォーム、SNS、検索、動画、コミュニティ。
人によって最初の接点が違う。
最初に商品やサービスを知る場所も違えば、信頼するきっかけも違う。

つまり、構造が変わったのではない。
入口を握る者が強いという原則は同じままで、入口の支配者と入口の数が変わったのである。

ここを見誤ると、「昔は簡単だったが今は難しい」という表面的な話になる。
そうではない。
昔も難しかった。ただ、狙うべき入口が比較的はっきりしていた。
今はその入口が多極化しているからこそ、経営者は「どの入口を押さえるべきか」を見極めなければならないのだ。

「昨日あれ見た?」が通じにくくなった

昔は、「昨日あれ見た?」という会話が自然に成り立っていた。
なぜなら、本当に多くの人が同じものを見ていたからだ。

今はどうだろうか。

ある人はNetflixを見ている。
ある人はYouTubeしか見ない。
ある人はニュースアプリだけで情報収集している。
ある人はXで話題だけ追っている。
ある人はテレビのニュースだけは見る。
ある人はそもそも動画コンテンツをほとんど見ない。

こうなると、同じ社会に生きていても、見ている情報世界はかなり違う。
何に驚き、何に笑い、何に怒るかの前提すら、以前ほど揃わない。
だから最近は、「みんな知っているはず」という感覚で話すこと自体が危うくなってきている。

これは悪いことばかりではない。
一人ひとりの趣味や関心に合わせて深く楽しめる時代になったとも言える。
ニッチな情報にもアクセスできるし、大手メディアが扱わないテーマにも自分で辿り着ける。
昔より自由で、ずっと多様だ。

ただ、経営者としてはここで一つ重要なことがある。
それは、顧客もまた“同じ前提を持っていない”ということだ。

昔のように、「みんなこれを知っているだろう」「この広告を見ただろう」「この価値は伝わるだろう」という前提では通用しにくい。
だからこそ、いま強い会社は、

●誰に向けた商品なのか

●最初の接点はどこか

●無料で何を渡すのか

●有料で何を提供するのか

●継続して関係を築く仕組みはあるか

を丁寧に設計している。

言い換えれば、
マスの時代は露出が武器だったが、分散の時代は設計が武器になる。

無料で広く取るか、有料で深く取るか

WBCの会話を聞きながら、私は別のことも考えていた。
それは、どの業界でも起きている
「無料で広く取るモデル」から「有料で深く取るモデル」への移行
である。

これは、メディア業界に限らない。

たとえばセミナーでもそうだ。
昔は、大人数を無料や低価格で集めて、そこから別の商品につなげるモデルが目立った。
今でもそれはある。
しかし一方で、会員制コミュニティやサブスク型サービス、限定講座のように、狭くても熱量の高い顧客と深く付き合うモデルが強くなっている。

飲食でも同じだ。
ただ来店客を増やすだけでなく、会員化や定期購入、LINEによる再来店導線など、「一度来た人とどう継続的につながるか」が重要になっている。

コンサル業でも同じだ。
単発で広く売るより、顧問契約やコミュニティ、伴走支援のほうが経営は安定しやすい。
つまり今は、
広く知られることより、深くつながることの価値が上がっている。

Netflixのような配信モデルは、その象徴の一つだろう。
コンテンツそのものを売っているようでいて、実際には
コンテンツを通じて顧客接点を握っている
のである。

ここが経営者にとって重要だ。
本当に価値があるのは、商品そのものだけではない。
その商品をきっかけに、顧客との継続的な関係性をどれだけ持てるかなのだ。

ただし、囲い込みには代償もある

もっとも、囲い込みモデルが万能かというと、そうでもない。
そこには明確な代償がある。

それは、広がりを失いやすいということだ。

会員制は収益性が高い。
継続課金は強い。
LTVも安定しやすい。
しかしその反面、初めての人には入りづらい。
熱量の高い人は残るが、ライト層は入りにくい。
結果として、新規の裾野が狭まることがある。

これは経営でも本当によくある。
高単価にすると利益率は上がるが、市場は狭くなる。
限定サービスにすると満足度は上がるが、認知は広がりにくい。
コミュニティを濃くすると継続率は上がるが、新規が入りにくくなる。

だから経営者は常に問われる。
広く取るのか、深く取るのか。
入口を開くのか、質を守るのか。
公共性を残すのか、収益性を優先するのか。

WBCのような国民的コンテンツがどこで見られるかという話は、まさにこの問いを象徴している。
収益性だけを見れば、有料独占は合理的かもしれない。
しかし広がりや社会的な熱狂を考えると、別の価値もある。

経営とは、数字だけではなく、
どんな価値を、どんな形で社会に届けるかを決めること
でもあるのだと思う。

WBCが映らない夜に見えた、経営の本質

あの夜、タクシーの中で交わした会話は、単なる世間話ではなかった。
そこには、メディアの変化、情報の受け取り方の変化、世代感覚の違い、そして社会の共通前提が揺らいでいく気配があった。

終わりつつあるのは「共有」そのものではない。
人はこれからも共有する。
感動も意見も体験も、違う形でいくらでも共有していく。

けれど、終わりつつあるものがあるとすれば、それは
みんなが同じ情報を、同じタイミングで、一斉に受け取ることができた時代
なのだろう。

そして経営者として見るなら、それは同時に、
一つの強い入口を押さえれば一気に広がる時代が終わり、どの入口をどう設計するかが問われる時代になった
ということでもある。

あの運転手さんの
「それはいかんな」
という一言は、そんな時代の変わり目に対する、素朴で、しかし本質的な感想だったのかもしれない。

WBCが映らない夜に、私は時代の変化を見た。
それは、テレビが終わるという単純な話ではない。
もっと静かで、もっと深いところで、私たちの情報の受け取り方も、企業の勝ち方も、変わり始めているという話なのだと思う。

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髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役