福岡の経営コンサルタント|笑顔商店

志賀島「中西食堂」で考えた、名物料理の正体。

~さざえ丼と、効率化の時代に置き忘れた温もり~

30分の船旅がもたらす、心の「境界線」

福岡という街の面白さは、都市のすぐ隣に「深呼吸できる場所」が潜んでいることだ。 先日、私は博多ふ頭からフェリーに乗り込んだ。目指すは、古来より海の神を祀る島、志賀島だ。

車であれば「海の中道」を走る爽快なルートがあるが、私はあえて船を選んだ。博多ふ頭を出航してわずか30分。ビル群が遠ざかり、海風が頬を打つ。船に揺られるこの短い時間が、慌ただしい日常の思考をリセットする「境界線」になる。この「30分」という絶妙な距離感が、日常と非日常を切り分ける、ちょうどいい「心のデトックス」になるのだ。

志賀島の渡船場に降り立つと、そこには潮の香りと共に、どこか止まったような穏やかな時間が流れていた。船着き場から歩いてすぐ、志賀海神社へと続く参道がある。その入り口から1〜2分も歩けば、今回の目的地である「中西食堂」の暖簾が見えてくる。

以前訪れたときから気になっていた「さざえ丼」の看板。 「どんな食べ物だろう?」という漠然とした興味を決定的な確信に変えたのは、たまたま目にしたテレビ番組だった。元乃木坂46の与田祐希さんが、故郷の名物としてこの料理を愛おしそうに紹介していたのだ。

「これはいよいよ、食べてみなければならない」。そんな予感に背中を押され、私は再びこの島の土を踏んだ。

「よそよそしさ」のない、血の通ったおもてなし

テレビの影響もあったのだろう、店先には行列ができていた。しかし、その待ち時間さえも、この島の一部であるかのように感じられる。行列に並ぶ人々の表情がどこか穏やかなのは、参道の神聖な空気のせいだろうか。

ようやく店内に足を踏み入れた瞬間、私はある種の懐かしさに包まれた。 そこで私を迎えてくれたのは、都会の飲食店では絶滅しかけている「よそよそしさのない温もり」だった。

今の時代、特に都会の洗練された店では、接客は非常にシステマチックだ。タブレットで注文し、マニュアル通りの言葉をかけられ、効率よく食事を済ませる。そこには間違いもなければ、不快感もない。しかし同時に、「人」の気配が希薄だ。客は「番号」として扱われ、そこには透明な壁がある。

中西食堂の接客は、その真逆にある。 忙しく立ち働くスタッフの方々の動きには無駄がないが、そこには「客をさばく」という冷たさがない。親戚の家に遊びに来たような、あるいは古くからの知り合いに出会ったような、体温のある言葉が交わされる。

「お待たせしてごめんね」 「ゆっくり食べていってね」

その一言に込められたあったかみが、船旅で少し冷えた心にじわりと染み渡る。この「人間味」こそが、料理の味を決定づける最初のエッセンスなのだと気づかされる。

海の恵みが溶け合う「滋味」と、脳の快楽

いよいよ、目の前に「さざえ丼」が運ばれてきた。 卵でふんわりととじられたその丼は、一口ごとに異なる海の表情を見せてくれる。メインのサザエはもちろん、脇を固めるワカメやエビといった具材たちが、出汁の旨味と一体となって丼の中に溶け込んでいる。それらが「海」そのものを凝縮したような深みを生み出しているのだ。

一口運ぶ。サザエ特有の、あのコリコリとした食感が踊る。そして何より、肝(キモ)がしっかり入っているのがありがたい。肝の持つ特有の苦味が卵の甘みと混ざり合い、奥行きのある大人な味わいを生み出している。

「まあまあ、美味しい」

そう独りごちたとき、私はふと考えた。この「美味しい」という感覚の正体は何なのだろうか。

科学的に言えば、人間が本能的に「美味しい」と感じるには3つの条件がある。

旨味(アミノ酸など)

脂身(動物性油脂など)

甘味(糖分など)

この3つが揃ったとき、脳はドーパミンを放出し、強烈な快楽を感じる。カツ丼や牛丼、あるいは濃厚なラーメンなどは、まさにこの「快楽の三要素」の極致だ。「別にサザエでなくても、肉の方が美味しいのではないか?」そう思う人がいても、それは生物学的な観点から見れば、決して不思議ではない。

しかし、さざえ丼を噛みしめていると、その「快楽」とは別の次元にある満足感が湧き上がってくる。それは、脳を興奮させる美味しさではなく、細胞に染み渡るような「滋味」だ。派手さはないが、体が「これを求めていた」と喜ぶような、静かで深い美味しさである。

1個300円の「つぼ焼き」に宿る、職人の矜持

この日は、さざえ丼に加えて「サザエのつぼ焼き」も注文した。 ここで私は、この店の「名物料理の正体」をさらに深く知ることになる。まず驚いたのは、その価格だ。1個300円。観光地とは思えないほど安価だが、そこには現在進行形のドラマがあった。深刻な不漁のため、現在は1人1個限定での提供となっているのだ。

運ばれてきたつぼ焼きを見て、私はさらに感銘を受けた。 殻の中に身がそのまま入っているのではない。店側ですでに一度身を外し、食べやすいように丁寧にカットして戻してくれていたのだ。しかも、一番の醍醐味である肝が、スルッとストレスなく、それでいて完璧な形で取り出せるように細やかな配慮がなされている。

サザエを焼いて身を外す。一見シンプルだが、肝を傷つけずに取り出すには熟練の技が必要だ。下手な人がやれば肝が途中で切れてしまい、あの濃厚なコクを楽しむことはできなくなる。それを店側が一つひとつ、裏側で丁寧な手仕事を施し、客の前には「最高の状態」で差し出す。

不漁という厳しい状況の中でも、価格を抑え、食べる人の手間を先回りして解消する。効率を重視する現代のビジネスモデルからすれば、これは「非効率」な作業の極みかもしれない。しかし、その手間の中にこそ、この店が守り続けてきた客への誠実さと、島の名物としてのプライドが凝縮されていた。

「名物」とは、土地への敬意と制約の産物である

そもそも「名物」とは何だろうか。 現代の私たちは、飛行機や冷凍技術のおかげで、24時間いつでも世界中の食材を手に入れられる。利便性と効率が支配する世界では、季節も場所も関係なく「美味しいもの」が並んでいる。

しかし、かつてはそうではなかった。 冷蔵庫も自動車も、ましてや飛行機もない時代。その土地で生きる人々にとっての「食」とは、目の前の海で獲れたもの、その場所で育ったものをいかに美味しく調理するかにかかっていた。

志賀島の荒波に揉まれたサザエを、どうすればみんなで分け合い、お腹を満たすことができるか。殻ごと焼くだけではなく、身を解し、他の海の幸と共に卵でとじることで、一つの「丼」という形に昇華させた。そこには、限られた食材を最大限に活かそうとする、先人たちの知恵と情熱が詰まっている。

「名物」とは、その土地の風土という制約の中で磨き上げられた、土地への敬意そのものなのだ。 だとすれば、さざえ丼や、あえて手間をかけた300円のつぼ焼きを、他の効率的な食べ物と比較すること自体が野暮というものだろう。私たちはこれらを食べることで、志賀島の歴史と、そこで生きてきた人々の記憶を体験しているのだから。

結論、そして日常への帰還

店を出ると、志賀島の風は相変わらず穏やかだった。 渡船場へ戻り、再び30分の船旅で都会の喧騒へと帰る。

効率化を追い求め、利便性を追求した結果、私たちは多くのものを手に入れた。しかし同時に、中西食堂にあるような「よそよそしさのない温もり」や「手間をかけた手仕事への敬意」を、どこかに置き忘れてきてしまったのではないか。

丁寧な技術で肝までしっかり味わわせてくれる、さざえ丼とつぼ焼き。 それを作り上げた先人たち、そして不漁の時であってもその技術と温かさを守り続けているお店の方々に感謝をしながら、私は博多の街へと戻った。

もしあなたが、都会のスピード感に少し疲れを感じているのなら。 あるいは、便利すぎる日々に「何か」が足りないと感じているなら。 ぜひ、博多ふ頭からフェリーに乗ってみてほしい。

わずか30分の先に、忘れかけていた大切な温もりが、あつあつの料理と共にあなたを待っているはずだ。

【旅の備忘録】

アクセス: 博多ふ頭(ベイサイドプレイス博多)から市営渡船で約30分。

ロケーション: 志賀島渡船場から徒歩すぐ。参道入り口から1〜2分。

メニュー: 名物「さざえ丼」。ワカメやエビの旨味が卵に溶け込む一杯。

一押し: 「サザエのつぼ焼き」。店主の優しさが詰まった、驚くほど丁寧な手仕事をぜひ体感してほしい。

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髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役