序論:日本を覆う「おもてなし」の呪縛
日本のサービス品質は、世界から「奇跡」と称賛されてきました。正確な鉄道の運行、過不足ない接客、そして清潔な店舗。その根底に流れているのが「お客様は神様です」という精神であることは疑いようがありません。
しかし今、この言葉は美徳としての役割を終え、現場を疲弊させる「呪い」へと変貌しています。2025年4月、東京都で「カスタマーハラスメント防止条例」が施行されるに至った背景には、サービスを提供する側の尊厳が、この言葉を盾にした一部の顧客によって踏みにじられてきたという、深刻な社会問題があります。
私たちは今、一度立ち止まって考える必要があります。「お客様は神様です」という言葉の真実はどこにあるのか。そして、これからの成熟社会において、顧客と従業員はどのような関係を築くべきなのか。その答えを求めて、この言葉の「光」と「影」、そして「表」と「裏」の歴史を紐解いていきましょう。
「表」の歴史:三波春夫が求めたのは、顧客の傲慢ではなく「己の純粋」だった
「お客様は神様です」というフレーズの生みの親、昭和の国民的歌手・三波春夫さん。彼の真意については、娘の三波美夕紀氏が公式サイト等で繰り返し説明していますが、世間の解釈とは驚くほど乖離しています。
三波春夫さんがこの言葉を使ったきっかけは、1961年の舞台。司会の宮尾たかし氏との掛け合いの中で生まれた言葉でした。宮尾氏の「三波さん、お客様をどう思いますか?」という問いに対し、三波さんは反射的に「お客様は神様だと思いますね」と答えました。
ここで彼がイメージしていたのは、「神前で祈る時のように、雑念を払ってまっさらな心で芸を披露する」という、演者としてのストイックな心構えでした。
「私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな心にならなければ、完璧な芸をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです」
三波さんにとって、お客様は「自分を甘やかしてくれる存在」ではなく、逆に「一瞬の妥協も許されない、畏怖すべき審判者」でした。それがいつの間にか、「金さえ払えば神様のように振る舞える」という、顧客側の免罪符にすり替えられてしまったのです。ここに、日本のカスタマーハラスメント(カスハラ)の根源的な誤解があります。
「裏」の歴史:占い師が授けた「紙(紙幣)様」という冷徹な真実
ここからは、公式の記録には決して残らない「口伝」の世界です。三波春夫さんの背後には、彼を支えた一人の専属占い師がいました。実は、この「神様」という言葉の誕生には、もっと現実的で、ある意味で「商売の本質」を突いたアドバイスがあったと言われています。
占い師は三波さんにこう説いたそうです。 「お客様は『神様』だ。だがな、それは『紙(紙幣)様』ということなんだよ。お客様をお金だと思って、大切に扱いなさい」
なぜ「紙(紙幣)様」だったのか
一見すると、非常にドライで拝金主義的なアドバイスに聞こえるかもしれません。しかし、浮き沈みの激しい芸能界、あるいはビジネスの世界において、これほど誠実なアドバイスもありません。
・「価値の対価」としての敬意: 芸を提供し、その対価として紙幣(お金)を受け取る。その紙幣は、お客様が汗水垂らして稼いだ人生の時間そのものです。だからこそ、その「紙様」を運んできてくれる人を、神様のように大切にしなければならない。
・「神様」の二重構造: 占い師は知っていたのでしょう。「神様」という抽象的な精神論だけでは、人間はいつか疲弊する。しかし、「紙様(利益)をもたらしてくれるパートナー」という現実的な認識があれば、プロとしてのサービスを継続する動機が生まれるということを。
このアドバイスが、三波春夫という稀代のアーティストの中で昇華され、表向きの「神前での祈り」という高潔な言葉に変換されたのだとしたら。三波春夫というスターは、理想と現実の両方を深く理解していた「究極のプロ」であったと言えるでしょう。
25年遅れの警鐘。アメリカの失敗とパンデミックの断罪
視点を世界に転じてみましょう。実はアメリカでも、日本と驚くほど似た「顧客至上主義の暴走」が起きていました。
Amazonが加速させた「顧客への執着」
2000年代以降、米国のビジネス界を席巻したのはジェフ・ベゾス率いるAmazonの哲学でした。彼らが掲げたのは「Customer Obsession(顧客へのこだわり)」。 「翌日届くのは当たり前」「気に入らなければいつでも無料で返品できる」。この過剰なまでの利便性が、皮肉にも消費者の「特権意識」を肥大化させました。「客の要望は即座に、100%叶えられるべきだ」というモンスター・カスタマーを量産してしまったのです。
2020年、パンデミックがもたらした限界点
この歪みが決定的になったのが、2020年のパンデミックでした。店舗側がマスク着用やソーシャルディスタンスを求めると、一部の顧客が「自分は客だぞ!」と暴徒化。従業員への暴力行為が激増し、中には射殺事件にまで発展するケースが出ました。
この時、アメリカの小売業界は震撼し、決断を迫られました。 「従業員の命を危険にさらしてまで、客を神様扱いする必要があるのか?」
現在、アメリカでは「We reserve the right to refuse service(当店はサービスを拒否する権利を留保する)」という掲示が当たり前になり、理不尽な客を毅然と追い出す「従業員ファースト」への揺り戻しが起きています。日本が今直面しているカスハラ問題は、アメリカが25年前に種をまき、5年前に爆発させた問題の「後追い」なのです。
2025年、日本の転換点。コンサルタントが見る「選ばれる店」の条件
2025年4月に東京都で施行されるカスハラ防止条例は、単なる法的規制ではありません。それは、日本のビジネスモデルが「量と自己犠牲」の時代から「質と相互尊重」の時代移行するための、最後通牒です。
経営戦略としての「脱・お客様は神様」
経営コンサルタントの視点から言えば、「すべての客を神様として扱う」戦略は、もはや倒産リスクでしかありません。
❶ 採用難の加速: 現場が疲弊する職場に、若者は来ません。
❷ 生産性の低下: 一人の「神様」の無理難題に対応する間に、10人の「大切なお客様(紙様)」へのサービスが疎かになります。
❸ ブランドの毀損: 理不尽な客がのさばる店は、良質な顧客ほど「居心地が悪い」と感じ、去っていきます。
これからの時代に勝ち残るのは、「お客様は神様です」という古い信仰を捨て、顧客を「共に価値を創造する対等なパートナー」として再定義できる企業です。
結論:私たちは「紙(お金)」の先にある「人」を見るべきだ
かつて、三波春夫さんの占い師が「お客様は紙様だ」と説いた真意。それは、「お金を稼ぐことの厳しさを知る者同士、お互いを尊重しなさい」という、プロ同士の連帯を促す教えだったのではないでしょうか。
お金を払う側も、受け取る側も、どちらかが偉いわけではありません。 「素晴らしい体験」という価値と、「大切なお金」という価値を交換する。この対等な取引の美学を取り戻すことこそが、現代における「お客様は神様です」の真のアップデートです。
2025年。私たちはようやく「神様」という名の幻想から目覚め、サービスを支える「人間」の尊厳を取り戻すスタートラインに立ちました。 次にあなたがお店の扉を開ける時。あるいは、お客様を笑顔で迎える時。 そこにあるのは「信仰」ではなく、「敬意」であってほしい。
それこそが、昭和から令和へと語り継がれてきたこの言葉が、今ようやく辿り着くべき「真の境地」なのです。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役