作業記憶(ワーキングメモリ)と技術伝承の科学
❶ 作業記憶とは何か?:脳内の「小さな作業机」
「作業記憶(Working Memory)」を一言で表すなら、「情報を一時的にキープしながら、同時に頭を動かすためのシステム」です。
心理学の世界ではよく「心の作業台」や「パソコンのRAM(メモリ)」に例えられます。机が広ければたくさんの資料を広げて複雑な作業ができますが、机が狭いと一度に一つのことしかできません。
作業記憶の3つの鉄則
[1] 容量が極めて少ない: 一度に扱える情報は「7±2個(チャンク)」と言われています。最近の研究ではさらに少なく「4個程度」という説も有力です。
[2] 賞味期限が短い: 保持できるのはわずか数秒から数十秒。意識してリハーサル(復唱)しないと、あっという間に消えてしまいます。
[3] 常に「動いている」: 単に覚えるだけでなく、情報を「こねくり回す」のが特徴です。

アラン・バドリーが提唱したこのモデルでは、司令塔である「中央実行系」が、音情報を扱う「音韻ループ」と視覚情報を扱う「視空間スケッチパッド」を操り、情報を統合しています。
❷ 「すぐに忘れる」のは脳の正常な機能である
「自分は物忘れが激しい」と落ち込む必要はありません。作業記憶が「すぐに忘れる」ように設計されているのは、脳がパンクしないための防御本能だからです。
例えば、スーパーで「牛乳、卵、パン」と唱えながら歩いている時に、知り合いに会って挨拶をしたとしましょう。その瞬間、作業記憶の注意は「挨拶」に奪われ、買い物リストは消去されます。
もし、一生のうちに出会ったすべての電話番号や、すれ違った人の服の色を作業記憶が保持し続けたら、私たちは新しい情報を一秒たりとも処理できなくなるでしょう。「今必要なことだけを処理し、終わったら捨てる」。この潔さこそが、高度な知的活動を支えているのです。
記憶の整理:時間軸で見る違い
| 種類 | 保持時間 | 容量 | 役割 |
| 作業記憶 | 数秒〜数十秒 | 非常に少ない | 今この瞬間の思考・操作 |
| 短期記憶 | 数分〜数時間 | 少ない | 最近の出来事の保持 |
| 長期記憶 | 数日〜一生 | ほぼ無限 | 知識、思い出、技術の保管庫 |
❸ 技術伝承の壁:なぜ「暗黙知」は伝わらないのか?
ここからがビジネスの本題です。企業が最も頭を抱える「技術伝承」。ベテランの「勘」や「コツ」が若手に伝わらない理由は、作業記憶と「手続き記憶(Procedural Memory)」のズレにあります。
暗黙知の正体は「手続き記憶」
熟練した職人の技や、トップ営業マンの絶妙な間合い。これらは長期記憶の中でも「手続き記憶」に分類されます。
・言葉で説明しにくい(非言語的)
・無意識に体が動く(自動化)
・一度身につけると忘れにくい(自転車の乗り方と同じ)
二重のボトルネック
技術を教えようとする際、以下の「二重のハードル」が発生します。
[1] 言語化の壁(ベテラン側): 無意識(手続き記憶)で行っていることを、意識(作業記憶)に引っ張り出して言葉にするのは、脳にとって非常に負荷が高い作業です。「なんとなく」を言葉にした瞬間、その情報の鮮度は落ち、重要なディテールが削ぎ落とされます。
[2] 容量の壁(若手側): ベテランが一生懸命説明しても、若手の作業記憶には限界があります。「手順Aを覚えながら、手順Bに注意し、全体像Cを把握する」……これだけで若手の作業机は荷物で溢れかえり、フリーズしてしまうのです。
❹ 【2026年最新】AIが変える「暗黙知の形式知化」
これまでは、このボトルネックを解消するために「マニュアル作成」や「 OJT」に膨大な時間をかけてきました。しかし、2026年現在、AIエージェントがこのプロセスを劇的に変えています。
もはや「人間が言葉で説明する」必要すらなくなりつつあるのです。
[1] AIオーケストレーションによる抽出(KPMG等の手法)
複数の専門特化型AIを連携させ、ベテランの行動を多角的に分析します。
・観察: センサーやカメラでベテランの細かな動きを記録。
・推論: 「なぜその時、その角度で工具を当てたのか?」をAIが過去のデータと照らし合わせて推測。
・再現: 人間が言語化できない「微調整のロジック」を、デジタル上の判断モデルとして再構築します。
[2] ブラウザ行動からの自動抽出(NEC「cotomi Act」等)
ホワイトカラーの業務においても革新が起きています。熟練者がWeb上でどのように情報を探し、どの数値を見て判断したかという「操作ログ」から、AIが自動的に判断基準(暗黙知)を抜き出します。
[3] マルチモーダル解析
映像、音声、バイオセンサー(視線や心拍)を統合解析し、熟練者が「どこを見て」「何を感じて」判断しているのかを可視化します。これにより、作業記憶を介した「不完全な言語化」をバイパスし、手続き記憶から直接、形式知へと変換することが可能になりました。
❺ 自社に導入するための戦略とコスト感
「最新技術は凄そうだが、うちは中小企業だから……」と諦めるのは早計です。2026年、AI導入のハードルはかつてないほど下がっています。
導入の3ステップ
[1] スモールスタート(PoC): まずは「最も属人化していて、かつ重要な一工程」に絞ります。予算100〜200万円程度で、AIがその工程をどこまで解析できるかテストします。
[2] データ蓄積: ベテランの作業を「記録」し続ける仕組みを作ります。特別なセンサーがなくとも、ウェアラブルカメラ一台から始められます。
[3] エージェント化: 抽出された知見を、若手がいつでも質問できる「対話型AIマニュアル」に落とし込みます。
費用感の目安
・SaaS一体型: 月額数万円〜。既存のツールにAIオプションを追加する形。
・中規模導入(構築型): 初期300〜800万円。自社独自のノウハウを深く学習させる場合。
・大規模展開: 2000万円〜。全社的なナレッジグラフを構築し、組織知として活用。
❻ 結論:作業記憶の限界をテクノロジーで超える
作業記憶は、私たちが人間として思考するための素晴らしい道具ですが、同時に「容量制限」という宿命を抱えています。
これからの時代の技術伝承は、「人間が頑張って教える」ことから「人間が自然に動く姿をAIが構造化する」ことへとシフトしていくでしょう。作業記憶のボトルネックを迂回し、手続き記憶をダイレクトに組織の資産に変える。その準備ができている企業が、2020年代後半の競争を勝ち抜いていくはずです。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役