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「福岡に観光地はない」は嘘だった! 天神のド真ん中に眠る、知られざる歴史の深淵を巡る2時間ツアー

福岡市・天神。 九州最大の繁華街であり、ショッピングやグルメ、ビジネスの中心地。私にとっても、日常的に訪れる「いつもの場所」です。

そんな福岡ですが、県外の友人からよく言われる言葉があります。 「福岡って、ご飯は美味しいけど、観光するところなくない?」

太宰府や柳川はあっても、福岡市内、特に天神周辺には「これぞ」という観光名所が思い浮かばない…。正直、私自身もそう思い込んでいたフシがありました。

しかし、先日、コミュニティの仲間たちと参加した「まちあるき」で、その思い込みは180度、いや、1080度覆されることになりました。

案内人は、歴史作家であり「もっと自分の町を知ろう」会長の浦辺登氏。 「アクロス福岡」をスタートし、天神の街をわずか2時間歩いただけ。それなのに、私の知っていた天神の姿は、まるで薄皮が剥がれるように消え去り、その下から日本の近代史を揺るがした激動のドラマが溢れ出してきたのです。

これは、普段あなたが何気なく歩いている「天神」の、もう一つの顔を明らかにする体験レポートです。

出発点:アクロス福岡と「日本の闇」

私たちの旅は、天神中央公園にそびえる緑の殿堂「アクロス福岡」から始まりました。

「まず、アクロスの裏手にあるあの石垣を見てください。あれ、どこから持ってきたと思いますか?」 浦辺氏の問いかけに、一同は首を傾げます。

「あれは、福岡城の外郭を構成していた石垣です。ここから、もう歴史は始まっているんですよ。」

いきなりのジャブ。アクロスの緑のステップガーデンにばかり目を奪われていましたが、その足元がすでに「史跡」だったとは。

とある情報によれば、ここは城下町「福岡」と商人の町「博多」を隔てる境界線で、この石垣は、福岡城の防衛ラインとして往来する人々を監視した城門(東取入口)の一部であり、当時はなんと高さ約8メートル、ビルの2〜3階に相当する壮大なものだったようです。

いつも通るあの石垣が、そんな威容を誇っていたとは…。

そして、一行は隣接するレトロな洋館「旧福岡県公会堂貴賓館」へ。

📜 深掘り:旧福岡県公会堂貴賓館

この建物は、1910年(明治43年)に第13回九州沖縄八県連合共進会の来賓接待所として建てられた、フレンチ・ルネッサンス様式の木造建築。設計は福岡県土木技師の三條栄三郎氏。市民運動によって取り壊しを免れ、1984年に国の重要文化財に指定された、まさに「生きた歴史」の証人です。

ここで浦辺氏から、衝撃的な事実が語られました。 「ここで、かの孫文が演説をしています。」

中国革命の父、孫文。彼がこの福岡の地で何を語ったのか。 「その演説の内容を中国人観光客が聞くと、時々怒るそうですよ。『なんでこんな大事なことを、もっと大きく看板に書かないんだ!』と。」

中国人の多くは、日本を「敵」として教育されている側面があると言われます。しかし、孫文がここで語ったとされる内容(※)は、その真逆でした。

「いまの中国(中華民国)があるのは、日本のお陰、特に福岡の人のおかげだ」

※1913年(大正2年)3月18日、孫文は福岡県主催の歓迎会で「革命成就、中華民国建国は日本人、とりわけ九州人のおかげと感謝の意を評した」と記録されています(当時の「福岡日日新聞」など)。

なぜ福岡なのか。私の頭の中に、浦辺氏の研究テーマでもある「玄洋社」「頭山満」といったキーワードが浮かび上がります。孫文の革命を、金銭的にも精神的にも支えたのが、頭山満ら福岡の人士だったのです。

歴史の教科書が語る「表」の顔とは別に、学校では教わらない「裏」のつながり。それは「日本の闇」と呼ぶ人もいるかもしれませんが、紛れもなく福岡がアジアの近代史の渦中にいた証左です。

一体、何が真実なのだろうか? 歴史は現場に行かなければわからない──。 浦辺氏のガイドを聞きながら、私自身がそう痛感した瞬間でした。

気づかなかった「足元の歴史」:旧福岡藩精錬所跡

公会堂を後にし、那珂川を渡って中洲へ。 日本有数の歓楽街、ネオンが煌めく賑やかな通り沿い。ビルの隙間に、それはひっそりと佇んでいました。

「旧福岡藩精錬所跡碑」

正直に告白します。私はこの道を、これまで100回以上通っています。しかし、この碑の存在に、今日まで全く気づきませんでした。

「えっ、こんなところに!?」

これが、この日一番の衝撃だったかもしれません。知らなければ、それは存在しないのと同じ。私たちは、いかに多くのものを見過ごして生きているのでしょうか。

📜 深掘り:旧福岡藩精錬所跡

ここは、福岡における「文明開化の発祥地」とも言える場所です。 1847年(弘化4年)、西洋の知識に並々ならぬ情熱を注いだ「蘭癖大名」こと福岡藩11代藩主・黒田長溥(ながひろ)が設立しました。

彼は薩摩藩出身で、あの島津斉彬とも親しく、西洋技術の導入に極めて積極的でした。この精錬所は、現代でいう総合理化学研究所。反射炉を築いて大砲を鋳造しようとしたほか、ガラス製品、薬品、洋式銃、時計まで研究・製造していたといいます。

ちなみに、博多の放生会名物であるガラスのおもちゃ「チャンポン」は、ここのガラス研究から生まれたという説もあるそうです。

日本の近代化は、薩長土肥だけのものではなかった。福岡藩もまた、この中洲の地で、必死に世界の荒波と対峙しようとしていたのです。

「天神」の由来と影武者伝説:水鏡天満宮

中洲から再び天神へ戻ります。アクロス福岡の真向かい、ビル街に囲まれた一角に「水鏡天満宮」があります。

「皆さん、なぜこの一帯が『天神』と呼ばれるか、ご存知ですか?」

そう、何を隠そう、この水鏡天満宮こそが、福岡の中心地「天神」という地名の由来となった場所なのです。

📜 深掘り:水鏡天満宮

主祭神はもちろん、菅原道真公。 901年、大宰府へ左遷される道真公が、この地(当時は今泉)の川面に映った自分の憔悴しきった姿を見て嘆いた(「水鏡」の故事)ことから、当初は「容見(すがたみ)天神」と呼ばれました。

その後、1612年、福岡藩初代藩主・黒田長政が、福岡城の「鬼門(北東)封じ」として、この地に移設。以来、ここが「天神様」のいる場所、すなわち「天神」と呼ばれるようになったのです。

ここで浦辺氏から、またも興味深い話が。 「道真公は、京から大宰府へ向かう途中、命を狙われていました。そこで、10人ほどの影武者を使い、別々のルートで大宰府を目指したと言われています。」

この時代から影武者が! 本物の道真公がどの場所に立ち寄ったかは、今となっては不明。道真公(あるいはその影武者)が立ち寄ったとされる場所が、九州各地に神社などとして残っている…。なんという歴史のロマンでしょうか。

また、私たちは「鏡天満宮」(※水鏡天満宮とは別)にも立ち寄り、「渡唐口跡」という碑を見ました。ここから遣唐使が、あの荒波の東シナ海へ船出したのか…天神の地が、古代から大陸への玄関口であったことを実感させられます。

ビルの谷間の聖域:勝立寺と安国寺

まちあるきは、天神の「内側」へと進んでいきます。

❶ 勝立寺(明石元二郎の墓)

日本銀行福岡支店のすぐ東。ビルに挟まれ、見落としてしまいそうな場所に「勝立寺」はあります。

驚いたことに、ここには第7代台湾総督・明石元二郎の墓(遺髪と爪を納めた墓)がありました。 明石総督は、台湾にダムなどを建設するため、巨額の予算を日本政府から取ってきた人です。

その予算は当時の国家予算の3分の1といわれます。 そのスケールの大きさに圧倒されます。

📜 深掘り:勝立寺 この寺の創建は1603年。黒田長政の前で行われたキリシタン宣教師との法論(宗教問答)に「勝利」した日忠上人が、長政から土地を与えられ、「勝って立つ寺=勝立寺」と名付けられました。 さらに、1877年の西南戦争では、政府の征討軍本営が置かれ、結果「勝利」しています。 日露戦争の勝利に「陸軍10個師団に匹敵する」とまで言われた諜報活動で貢献した明石元二郎の墓所があるのも、この「勝利」の縁かもしれません。

❷ 廣田弘毅生誕地跡

元首相・廣田弘毅の生誕地を示す碑。 ここで注目すべきは、碑に刻まれた手跡。 「なんと、あの『海賊とよばれた男』、出光佐三の手によるものです。」

寄付をしても一切名前を残さないことで有名だった出光佐三が、ここでは堂々と名前を書いている。二人の間に、どのような交流と尊敬の念があったのか。想像が膨らみます。

❸ 安国寺(筑前勤皇党、無念の場所)

親不孝通り(親富孝通り)の近く。高さ18.5メートルもの巨大な山門が目を引く「安国寺」。

ここは、福岡の怪談「飴買い幽霊」の伝説が残る寺として知られていますが、浦辺氏が光を当てたのは、幕末の悲劇でした。

「ここで、筑前勤皇党の建部武彦、衣斐茂記が切腹しました。」

1865年の「乙丑の獄」。福岡藩内の尊王攘夷派が弾圧された事件です。 「彼らは、薩長同盟を企てていた。彼らが無念の死を遂げた後、その遺志を継ぐように、坂本龍馬が薩長同盟を成し遂げるのです。」

歴史の表舞台に立つ龍馬の影には、志半ばで倒れた名もなき(あるいは、私たちが知らなかった)志士たちの血と涙があった。その現場が、この天神にあったのです。

激動の幕末、その渦中へ:西郷南洲翁隠家乃跡碑

いよいよ、まちあるきのクライマックス。 舞鶴1丁目、親不孝通りから一本入った路地。「兼平鮮魚店」という鮮魚店の入り口の脇に、その碑はありました。

「西郷南洲翁隠家乃跡碑」

知らなければ100%通り過ぎる、小さな小さな石碑です。 ここは、1858年、「安政の大獄」で幕府に追われた西郷隆盛と勤王僧・月照が、薩摩へ逃れる途中に身を潜めた場所なのです。

📜 深掘り:西郷と月照を匿った人々

彼らを命がけでかくまったのは、当時この地にあった「福萬醤油」の11代当主・白木太七と、親戚の石蔵卯平でした。彼らは勤王の志を持つ商人でした。

幕府と福岡藩が血眼になって捜す中、巨体の西郷を醤油蔵に、月照を目明かし(岡っ引き)の家に隠すという、灯台下暗しの作戦。

しかし、この物語は悲劇的な結末を迎えます。 福岡を脱出した後、薩摩藩に受け入れを拒否された西郷と月照は、絶望して錦江湾に入水。月照は亡くなり、西郷だけが一命を取り留めます(その後、奄美大島へ流刑)。 そして、二人を匿った白木太七と石蔵卯平は、明治維新直前に福岡藩の佐幕派によって暗殺されてしまいます。33歳の若さでした。

西郷隆盛という、後の日本を創る男を生かすために、名もなき商人たちが命を落としていた。その歴史の分岐点が、今、私の目の前にある鮮魚店の軒先だった…。

足が震えるような、強烈な感動。これが「歴史の現場」の力です。

まちあるきを終えて:福岡の「本当の魅力」

約2時間。 アクロス福岡から始まった私たちの旅は、西郷隆盛の隠家跡で終わりを迎えました。

たった2時間。しかし、その密度たるや。 天神のビルの谷間に、古代の渡来から、中世の信仰、藩政時代の近代化への苦闘、そして幕末の激動、アジアと福岡の近代史までが、幾重にも折り重なって眠っていました。

「福岡市内に観光する場所がない」

この言葉は、もう二度と口にできません。 正しくは、「私たちは、福岡市内の観光地の見方を知らなかった」のです。旧福岡藩精錬所跡のように、そこにあるのに見えていなかった。その歴史的な文脈を知らなかっただけなのです。

今回の天神ツアーだけでも、じっくり見れば丸一日はかかります。これに、由緒ある寺社仏閣が密集する博多の御供所町、元寇の歴史に触れる元寇資料館や筥崎宮のある箱崎エリア、そして吉塚周辺(玄洋社ゆかりの地など)を加えれば、少なくとも福岡市内だけで、2泊か3泊は楽しめると私は確信しました。まさに「知的好奇心のワンダーランド」です。

もちろん、博多の食は美味しくて安い、と折り紙付き。 昼はディープな歴史探訪に胸を震わせ、夜は中洲で美味い酒と肴に舌鼓を打つ。

これ以上の贅沢が、他にあるでしょうか。 自分の住む町が、こんなにも面白かったなんて。

今回、その「文脈」を鮮やかに解き明かしてくださったのが、案内人の浦辺登氏でした。

 案内人:浦辺登氏について

浦辺氏は、福岡を拠点に活動する歴史作家であり、特に「玄洋社」「アジア主義」「明治維新と福岡」といった、戦後長くタブー視されてきたかのようなテーマを深掘りされている研究者です。 孫文と福岡のつながり、明石元二郎のアジアへの眼差し、筑前勤皇党の悲劇、西郷隆盛と福岡の商人…。今回のまちあるきの全てが、浦辺氏の研究テーマと深くリンクしていました。 「墓マイラー(歴史上の人物の墓を訪ねる活動)」の先駆者でもある浦辺氏のガイドは、文献上の知識だけでなく、現場の空気を吸い、その地を踏むことでしか得られない「生きた歴史」の面白さに満ちていました。

浦辺氏は、まちあるきの最後にこう語ってくれました。 「少し注意深くみればいろんなものがみえてくるでしょ。これは町の探索に限らず、家族でも同じこと。当たり前と思っていることが、少し注意深く見ると、そうではないことが見えてきたりするんです。」

歴史の現場だけでなく、日常の「当たり前」さえも違って見えてくる。そんな深い視点まで学んだ2時間でした。

「もっと自分の町を知ろう」— まちあるきの最後に、私はこの言葉を、深く、深く噛み締めていました。

浦辺氏は、まちあるきの最後にこう語ってくれました。 「少し注意深くみればいろんなものがみえてくるでしょ。これは町の探索に限らず、家族でも同じこと。当たり前と思っていることが、少し注意深く見ると、そうではないことが見えてきたりするんです。」

歴史の現場だけでなく、日常の「当たり前」さえも違って見えてくる。そんな深い視点まで学んだ2時間でした。

「もっと自分の町を知ろう」— まちあるきの最後に、私はこの言葉を、深く、深く噛み締めていました。

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髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役