目黒に会社がある知人を訪ねた帰り、食事でも行こうかと誘われた際、ふと彼が口にした。
「雅叙園、行ったことありますか?」
その問いかけに「一度だけ」と答えた。確かに、以前何かのパーティーで訪れた記憶はある。しかしその時は、会場の豪華さに目を奪われるばかりで、その場所が持つ歴史や、細部に宿る美意識にまで思いを馳せる余裕はなかった。
「雅叙園も今月で閉館なんですよね。近く何でいってみますか?」
その言葉に、はっとさせられた。歴史ある建物が、その姿を一時的にせよ消してしまうという。なんとも途方もない話だが、これも何かの縁だろう。私たちは連れ立って、雅叙園へと向かう坂を下り始めた。
目黒雅叙園の入り口に立つと、まずその壮麗な佇まいに息をのむ。時刻は17時を過ぎたところ。ふと見ると、「百段階段」の入場は17時30分までとある。これも何かの縁、せっかくだからと、私たちはその歴史の階段を昇ることにした。友人に入場料をご馳走になり、私たちはその歴史の階段を昇ることにした。
99段の「百段階段」が語る加点法の美学
「これ、実際は99段しかないんですよ。100になったら、完了して、あとは下がるしかないから。いつまでも昇っていくという意味で」
友人の言葉に、なるほど、と膝を打った。100に満たない99という数字が持つ意味。それは、いつまでも未完成であり続けることで、無限の可能性を秘め、永遠に発展し続けるという、奥ゆかしい願いが込められているのだという。
ふと、私の脳裏に、日光東照宮やサグラダファミリアの姿が浮かんだ。完成することのない建築物。そこには確かに、同じ精神が宿っているように思えた。かつての日本も、江戸時代まではこのような「加点法」の発想を大切にしていたのではないか。常に未完成を良しとし、さらなる高みを目指し続ける精神。
しかし、明治以降、日本社会は急速に西洋の文化を取り入れ、その中で「完璧主義」へと傾倒していく。そしていつの間にか、私たちの思考は「減点法」へとシフトしていった。
減点法(マイナス面へのフォーカス)の文化
日本の製造業で世界を席巻した「改善」という手法は、まさにこの減点法の極致だ。悪い部分を探し出し、それを修正することで、品質を高め、効率を追求する。90点の答案を見て「惜しいね」と言うように、足りない部分、不完全な部分に注目する文化が深く根付いている。
この思考は、短期的に見れば確かに高い成果を生み出す。欠陥をなくし、完璧に近づけることで、競争力を高めることができるからだ。海外の人がどこかいい加減に見えるのに対し、日本人の几帳面さ、細部へのこだわりは、この減点法的なアプローチから生まれているとも言えるだろう。
しかし、常にマイナス面に目を向け、足りない部分を補い続けることは、長期的には精神的な疲弊を招くリスクをはらんでいる。完璧を求め続けるストレスは、やがて心身のバランスを崩し、うつ病などの精神的な不調へとつながる可能性も否定できない。
加点法(ポジティブ面へのフォーカス)の文化
一方、欧米などの先進国では、「加点法」が主流だと言われる。50点の答案を見ても「0点から50点も取れたのか、天才だ!」と評価し、結果よりも、挑戦したこと自体を「ナイス・トライ」と褒める。
この加点法の考え方は、個人の主体性や創造性を尊重し、失敗を恐れずに挑戦することを促す。ポジティブな側面に着目することで、自己肯定感を高め、モチベーションを維持しやすいというメリットがある。
ある研究によると、ポジティブに物事を考える人は、ネガティブに考える人に競争させると短期的には負けてしまうという。これは、減点法的なアプローチが、短期間で高いパフォーマンスを発揮し、結果を出すことに優れていることの証左だろう。しかし、長期的な視点で見れば、精神的な健康や持続可能な発展という観点から、加点法の重要性は増していると言える。
雅叙園の「百段階段」は、まさにこの日本の古き良き「加点法」の精神を象徴しているかのようだった。
風雅と優美が織りなす「百段階段」の世界
「百段階段」を上っていくと、そこには息をのむような風流、優雅、そして美しい展示物の数々が私たちを待ち受けていた。
階段の各部屋は、それぞれ異なるテーマを持ち、豪華絢爛な装飾が施されている。色鮮やかな日本画、精緻な彫刻、そして天井を彩る天井画は、まさに圧巻の一言だ。特に、東京都指定有形文化財にも指定されている「十畝の間」「漁樵の間」「草丘の間」「静水の間」は、その芸術性の高さにただただ感嘆するばかりだった。
壁や天井に描かれた絵画の一つ一つ、飾られた美術工芸品の一つ一つに、当時の職人たちの情熱と、細川力蔵氏の美意識が凝縮されているのが伝わってくる。スタジオジブリの映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルになったという話にも納得がいく。まるで別世界に迷い込んだかのような、幻想的な空間がそこには広がっていた。
一つ一つの展示物をじっくりと鑑賞し、それぞれの部屋が持つ物語に耳を傾ける。それらは単なる装飾品ではなく、日本の伝統的な美意識や精神性を雄弁に物語っていた。
庭園と滝が織りなす「日本美のミュージアムホテル」
百段階段を降り、再び雅叙園の館内を散策する。
外に出ると、手入れの行き届いた美しい庭園が広がっていた。都心にいることを忘れさせるような、静謐な空間だ。そして、何よりも印象的だったのが、その庭園に轟く豪快な滝の音だ。
ホテルの中に、これほどの規模の滝があるとは。おそらく、日本でこれだけの設備を持つホテルは、ここ以外にはないのではないだろうか。力強く流れ落ちる水は、周囲の静けさと相まって、私たちの心に深く響き渡った。
雅叙園は、単なるホテルではない。そこは、2,500点以上の日本画や美術工芸品が展示された、まさに「日本美のミュージアムホテル」だ。創業者の細川力蔵氏が「本格的な料理を一般庶民にも気軽に楽しんでもらうこと」を目的に設立したというが、その根底には、日本の美しい文化を多くの人々に伝えたいという強い思いがあったに違いない。
絢爛豪華でありながらも、どこか懐かしい、そして温かい雰囲気を持つ雅叙園。それは、日本の伝統的な美意識と、人をもてなす心が見事に融合した空間だった。
惜別、そして未来への願い
今回の訪問で、雅叙園が2025年9月30日をもって一時休館するという事実が、より一層重くのしかかった。建物所有者との定期建物賃貸借契約が満了し、2025年10月1日より一時休館となるという。約180組もの挙式予約に影響が出ているというニュースは、社会問題としても報じられている。
現在、雅叙園では休館前最後の企画展「和のあかり×百段階段2025~百鬼繚乱~」が開催中だ。10回目を迎える人気企画展で、「鬼」をテーマにした38名のアーティストによる没入型アート体験ができるという。休館前最後の百段階段企画展として、多くの人々が訪れているようだ。
運営会社は株式会社目黒雅叙園(ワタベウェディングの完全子会社)だが、施設は2025年1月にカナダのブルックフィールド・アセット・マネジメントが取得しているという。外資に買収され、経営者が変わる中で、この雅叙園が持つ独自の美意識や、日本の風流がどのように継承されていくのか、一抹の不安を覚える。
この場所で、私たちは日本の古き良き「加点法」の精神に触れ、美術工芸品の一つ一つに込められた職人の技と美意識に感銘を受けた。それは、今の私たちが忘れかけている、しかし決して忘れてはならない大切な価値観を、改めて気づかせてくれるものだった。
目黒雅叙園という場所は、単なる歴史的建造物ではない。それは、日本の精神性、美意識、そして人をもてなす心の象徴だ。一時休館は残念だが、この「昭和の竜宮城」が、その歴史と文化の灯を消すことなく、新たな形で再び輝きを放つことを心から願う。日本の風流が、この場所でいつまでも息づいてほしい。そして、私たちもまた、雅叙園が教えてくれた「加点法」の美学を、日々の生活の中で大切にしていきたいと、強く思った。
目黒雅叙園について – 詳細情報
改めて、目黒雅叙園(現在の「ホテル雅叙園東京」)について、その歴史と特徴を振り返っておこう。東京都目黒区に位置するこの複合施設は、「昭和の竜宮城」として親しまれてきた、日本を代表する歴史ある場所である。
歴史と創業
創業者は細川力蔵(1889-1945年)。石川県出身の彼が1928年に芝浦で料亭を始めたのが、雅叙園のルーツである。その後、1931年に目黒の地に「目黒雅叙園」として開業。日本初の総合結婚式場として名を馳せた。細川力蔵氏は、本格的な料理を一般庶民にも気軽に楽しんでもらうことを目的としてこの施設を設立したという。これは、単に豪華な場所を提供するだけでなく、多くの人々に文化的な体験を提供したいという、彼の強い願いが込められていたことを示唆している。
施設の特徴
雅叙園の最大の特徴は、やはりその「昭和の竜宮城」と形容される豪華絢爛さだろう。館内には2,500点以上の日本画や美術工芸品が展示されており、まるで美術館の中にいるかのような錯覚に陥る。芸術家たちによる壁画、天井画、彫刻などで装飾された空間は、どこを見ても飽きることがない。現在は「日本美のミュージアムホテル」として知られ、その芸術的な価値は高く評価されている。
東京都指定有形文化財「百段階段」
そして、雅叙園の象徴とも言えるのが、東京都指定有形文化財である「百段階段」だ。実際に99段の階段で構成されている木造建築で、7つの部屋(十畝の間、漁樵の間、草丘の間、静水の間、星光の間、清方の間、頂上の間)があり、そのうち4棟が2009年に東京都指定有形文化財に指定されている。前述の通り、スタジオジブリの映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルになったという逸話も有名であり、その幻想的な雰囲気は多くの人々を魅了し続けている。
現在の状況(重要な最新情報)
残念ながら、雅叙園は現在、大きな転換期を迎えている。
・一時休館のお知らせ:2025年9月30日をもって、建物所有者との定期建物賃貸借契約が満了する。これにより、2025年10月1日より一時休館となる予定であり、営業再開時期は未定だ。この休館は、約180組もの挙式予約に影響を与えており、社会的な関心を集めている。長年の歴史を持つ施設が一時的にその姿を消すことは、多くの人々にとって寂しいニュースである。
・休館前最後の企画展:しかし、休館前最後の機会として、現在「和のあかり×百段階段2025~百鬼繚乱~」が開催中だ(2025年9月23日まで)。これは10回目を迎える人気の企画展で、「鬼」をテーマにした38名のアーティストによる没入型アート体験が楽しめる。休館前最後の百段階段企画展として、例年以上に注目を集めている。これは、雅叙園が最後にその輝きを見せる場として、多くの人々に感動を与えていることだろう。
・経営状況:運営会社は株式会社目黒雅叙園で、ワタベウェディングの完全子会社である。施設の所有権は、2025年1月にカナダのブルックフィールド・アセット・マネジメントが取得している。外資による所有という点で、今後の雅叙園の運営方針や、日本の文化遺産としての価値がどのように守られていくのかが注目される。
アクセス
JR目黒駅より徒歩3分というアクセスの良さも、雅叙園の魅力の一つだ。東京都目黒区下目黒1丁目8番1号という立地は、都心にありながらも、一歩足を踏み入れれば別世界へと誘われるような、特別な空間を提供している。
雅叙園は90年以上の歴史を持つ日本の文化遺産とも言える施設であり、現在は一時休館前の最後の機会として多くの人々が訪れている。特に百段階段の文化財建築と現代アートのコラボレーションは、訪れる人々にとって必見の価値がある。この場所が持つ歴史、文化、そして美意識が、形を変えても未来へと受け継がれていくことを、心から願うばかりだ。

髙栁 和浩 笑顔商店株式会社 代表取締役